1章-3:利害だけの契約
古城の中は、数世紀前の家具たちが埃一つ纏うことなく几帳面に置かれていた。百合の模様が施されたステンドグラスから、月夜の光が差し込み石造りの床を照らしていた。
ドミニクに案内されたのは、応接間であった。二人がけの長椅子に腰掛けるように促され、私はそっと腰を下ろした。
ドミニクが呼び鈴を鳴らすと、彼と同じ首輪をつけたメイドが部屋の前まで姿を現した。手には救急箱を持っている。
「あとは私がやる。君は下がっていなさい」
メイドはハンカチで鼻を抑えると、足早に応接間から去って行った。
ドミニクは「君の血の香りが食欲をそそるだけだ。危害は加えさせない」と救急箱の中から、薬と包帯を取り出した。
「まずは止血しないとだな。腕を出しなさい。魔法使いが調合した薬だからよく効く」
言われるがままに腕を差し出すと、薬品をかけられた。傷口に沁みるが、私は黙ってその処置を受け入れる。
ドミニクの触れる手は優しかった。手当が終わると、彼は私から一定の距離をとった。
「君を襲った人物の名前は、ジェームズ・ノクトリーヌだ」
炎によって溶けた淡い黄色の蝋が、燭台の台座に向かって垂れていく。私は、手当を施された傷を衣服の上からそっと手で押さえた。ベルジックは、私の前に置かれている椅子にそっと腰掛けると言葉を続けた。
「君のような善良な人間には知らされていないが、この世界には魔法族が多種族を支配する裏の世界がある。我々月の種族と呼ばれる吸血鬼たちは、長い間魔法族と戦いを繰り広げてきた。長い戦いだったそうだ。互いに多くの同胞がこの地から姿を消した。数世紀にも渡る啀み合いが終止符を打ったのは、月の種族が降伏を魔法族に申し出たからだ。降伏の条件として、人を食らう吸血鬼たちは、首輪をつけることで許されることになった」
私は視線をドミニクの首輪に向ける。先ほどのメイドも同じような首輪をつけていた。そして『あそこの使用人も変なんだ。主人と同じ首輪をつけて、食い入るようにじっとこちらを見つめてきてよ。不気味ったらありゃしない』と誰かが言っていた噂話を思い出した。
「その首輪はどのような意味があるのですか?」
ドミニクは私の質問に一瞬言葉を詰まらせた。そして「管理するためのものだ」と短く答える。そして、私に何も質問させないように言葉を続けた。
「話を戻すと、君を襲ってきたノクトリーヌは、その首輪をつけることを拒否し、魔法族に不満を抱いている吸血鬼たちを集め反組織を率いている」
「だから、首輪をしていなかったのね……でもどうして私を?」
「奴は、魔法を保有している魔法族の血肉を得ることに執着しているからだ。魔力が保有された血肉は、通常の人間の血肉よりも栄養価が高く、自身の力の増幅にも繋がる。奴の場合は、魔法族を狙うことによって同胞の復讐も兼ねているがな」
ドミニクは、私に分かるように応接間の本棚から一冊の本を取り出す。そして、私と彼が腰掛けている椅子の間にある机の上に置いた。
「始祖の魔女の伝説は、この地方出身であるから知っているね?」
彼の言葉に私は頷いた。
「ええ。でもおとぎ話だとばかり……。まさか」
「そうだ。君が、始祖の魔女の末裔だから、狙われた」
ドミニクの言葉が耳に届いた瞬間、心臓がひとつ、大きく跳ねたような気がした。
そんなはずはない。そう思いたかったのに、巨石の光が自身の中に入った今朝のことが、浮かんでは消えた。私の指先は冷たくなり、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
ずっと自分がどこの誰なのか知りたい気持ちはあった。だが、育ててくれた養父母の手前、そのようなことは口が裂けても言えるはずがなかった。
「どうして、あなたはそのことを知っているの?」
私の質問に、ドミニクは静かに開いているページを指差した。そこには、巨石の光が一人の女性に差し込む姿が描かれている。私が、今朝巨石の前で経験したことだ。
「十数年前、一人の女性に君を託された。誰にもその姿が見つからないよう、まじないをかけた。だから誰にも君の存在が知られないようにして欲しいと。その時は理由が分からなかったが、今ようやく理解できた」
「その人が、私の母親なのですか?」
「それは、分からない。彼女は名乗りもせずに、巨石の前に君を置くと、霧に紛れて消えてしまった。君には魔力もないように見えたし、泣き叫ぶ赤ん坊と共に途方に暮れていたところ、男爵夫妻がやってきた。同時に魔法族の間でも予言が出たのだ。ネウトラーレ王国のどこかで始祖の魔女の末裔が誕生すると、ノクトリーヌはその予言を頼りに国中を探し回っていた。今朝のことがあるまで、私は君が始祖の魔女の血を持つものだと確証が持てなかったが、運悪く奴もあの場所にいた」
「あの場所に?」
だから今朝、ドミニクは私にその場を去るように急かしたのだ。私が、その吸血鬼に襲われないように、私を守るために。
「この土地が最後だったんだ。そして奴は、君を魔女の血を引くものなのではないかと狙いを定めた一人として選んだ」
「狙いを定めたってことは、他にも狙われた人が……」
そう言いかけて、配達員の言葉が脳裏によぎる。
『男爵様。先ほど、ソリトド村の外れにある森付近で、身元がわからない少女が遺体で発見されたらしいです。しかも恐ろしいことに、全身から血が抜かれていたとのことですよ。みんな朝から大騒ぎで』
「君と同じ、親がわからない女性ばかりだ。全員、一人になるように仕向けられていた。もしかすると、銀行の倒産も奴の根回しの一つかもしれない」
しばらくの沈黙が、私とドミニクの間に流れた。彼は、何か言いたそうに口を開きかけてはやめて、私の様子を伺っているようだった。
「今後、彼はまた襲ってきますか?」
先ほどより短くなった蝋燭を見つめた後、私はドミニクに尋ねる。彼は、私の質問に「間違いなく。奴は君を食らい尽くすまで、執拗に追いかけるだろう」と答えた。
「そんな……」
「それと、怖がらせるだけだと思って黙っていたが、その傷はただの傷ではない。吸血鬼が自分の餌の場所がわかるようにするための「印」だ」
再び沈黙が訪れた。ドミニクは意を決したように私の方へ視線を向けると、もう一度口を開く。
「「印」の上書きをすれば、君は私の餌になる。奴が君を追いかける目眩しにはなるだろう」
衝撃的な彼の提案に、私はどう答えたらいいのか分からなかった。ドミニクは「もちろん、ノクトリーヌのように全て食らい尽くすような真似はしない。だが、餌になるというのであれば、私の城に滞在してもらうことになるが」と言葉を付け加えた。
通常であればとても受け入れられる提案ではなかった。
しかし、私はノクトリーヌに襲われる恐怖を知ってしまった。このまま、ドミニクの元を去ってしまい、もう一度彼に襲われに行く勇気などあるはずもない。
ドミニクの黄金の瞳が、スッと細くなった。彼は私の傷跡に視線を向けると「こういう条件はどうだ?」と私に囁いた。
「条件?」
「私は世間一般的に見れば、金持ちの伯爵だ。家が没落し、女修院に向かうあなたを見て我慢できず求婚した。あなたはそれを了承し、女修院には行かない。そして、その見返りとしてあなたは自分の血を私に与える。世間体がいい上に、ノクトリーヌの魔の手から逃れられる。そして、私は空腹を満たすことができる。悪い話ではないだろう?」
今、私がドミニクの屋敷から出てネウトラーレ女修院に向かうことは不可能だ。私は、腕の傷をもう一度抑えて、彼を見つめた。
「わかりましたわ。契約結婚というものですね。……一つお願いがあります」
「なんだ?」
「両親が心配すると思いますので、結婚したことを発表しても構いませんか?」
「ああ、なんだ、そんなことなら問題はない。結婚式だってあげたっていい」
「ありがとうございます」
私が腕を差し出そうとすると、ドミニクは「一度君の部屋に案内する。着替えをして、用意ができたら呼んでくれ」と私を別室へ案内するのだった。
+++
案内された私の部屋は、西側の塔の部屋だった。大きな女性と白百合のステンドグラスが印象的で、金色のロープで縁取られた暗紫色のビロードのカーテンは、ベッドの色とお揃いだった。
部屋の中には既にドレスが数着準備されていて、私は自分で着替えることができるからとメイドの介入を断った。
準備ができると、ドミニクは私の部屋へ入ってきた。ただならぬ緊張が、私を襲った。ノクトリーヌに血を吸われた時は、一瞬の出来事だったので心の準備をする暇もなかった。
手首までしまったくるみボタンにそっと触れて、ドミニクは静かにそのボタンを一つはずした。
彼が私に触れていると思うだけで、顔が真っ赤になっていくのが分かる。
「自分で外します」
これ以上、彼にボタンを外させるわけにはいかないと、私は自分で襟のボタンを外して、衣服をずらし腕を差し出した。
先ほど手当てされた包帯がゆっくりと解かれていく。腕の血は止まっていたが、噛まれた場所を中心として赤く腫れ上がっていた。
「痛みがあるが受け入れてくれ」
彼の柔らかい唇が、腫れ上がった印が刻まれた印に触れた。まるで雪を当てたような冷たさに、私は瞳を強く瞑ったあと、身を捩る。
「クリスティーナ・オルセン令嬢。怖がらなくていい。そう、いい子だ」
頭の中に響く耽美な声は、吸血鬼が獲物を大人しくさせるときに使う声なのだろう。私は彼のシャツの胸元に手を当てるとベルジックは握りしめていいというように自分の手を私の手の上に当てた。彼が口を開けて、牙が肌にあたると同時に鋭い痛みが私の腕に走る。逃げ出さないように、彼は私の手をぎゅっと握りしめた。全身に熱が回る。熱い。怖い。私が逃げ出そうとすればするほど、彼手の力は強くなる。
これ以上はもう恐怖を抑えられないと怯えた時「今夜はここまででいい。君の血と引き換えに、君の命は保証された。契約は成立だ」とベルジック伯爵は私から離れて行った。
ぼーっとした視界の中、彼の手がゆっくり私から離れていく。「傷口は止めてあるが、手当は必要だろう。メイドを手配する」と言いながら、彼は部屋を後にしようとする。
「待って」
そう呼び止めてしまったが、どうして呼び止めたのか分からなかった。彼は「おやすみ。クリスティーナ」とだけいうと部屋を出ていってしまった。
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