透目町の日常
四十九院紙縞
『手紙』(「私」の弟が猫に好かれている話)
『手紙』
弟は近所の野良猫たちから好かれている。
とても。非常に。すごく。
好かれている。
或いは、愛されている。
彼は特段、野良猫に餌を与えているわけではない。むしろ、それは無責任な行為だからと、頑として拒否しているくらいだ。
それでも弟は、野良猫たちから好かれている。
弟が登校する時間になると、猫たちは各々思い思いの場所から姿を現して彼を見送り。
弟が下校する時間になると、朝と同じように姿を現して彼を出迎えるのだ。
その際、猫たちは必ず弟に声をかけている。にゃおにゃおと、人間には理解できない言葉で。弟はそれを真摯に受け止め、ひとつずつ頷いて返事をする。
「猫たちがなにを言ってるのか? わかるわけないじゃん。だって俺、人間だよ? でもまあ、なにが言いたいのかは、なんとなくわかる気がする」
ある日、私はすっかり見慣れた猫だらけの登校風景の最中、水を刺すように尋ねたことがある。しかし弟は、笑ってそう答えたのだった。
当たり前のように。
当然であるかのように。
猫の言いたいことはなんとなくわかると、弟はそう言ったのだった。
私が彼の回答に首を傾げている間にも、猫たちはにゃおにゃおとなにかを弟に伝え続け、弟はそれに頷き笑っていた。
私はこの光景を不思議に思っても、不快に思ったことは一度もなかった。弟だけが猫に好かれてずるい、と思ったこともない。言語化して説明することは難しいのだけれど、心のどこかで、弟と猫たちの関係性を自然なものだと思っているからだろうとでも言えば、他人にもこの複雑怪奇な心境は伝わるのだろうか。
私が彼の姉であるように。
彼が私の弟であるように。
猫と弟が言葉を交わすことは、至極自然のことのように感じていた。
猫は可愛い。
それは全人類が知るところであるし、私も全面的に肯定する。
ふわふわの身体に、きらきらとした瞳、ゆらゆら揺れる尻尾。存在するだけで可愛くて、癒される。
けれど我が家では、動物を飼うことは禁止されていた。主な理由としては、結局最後に面倒を見ることになるのはお母さんだの、お父さんは昔猫に引っかかれたことがあって嫌いだの、そんなところである。猫たちもそれを知ってか知らずか、庭先や家の中まで入ってくるようなことは一切なかった。
その代わり、弟は時折、夜の散歩に出かける。
どうやら下校途中に猫に声をかけられ、猫集会に呼ばれているらしかった。弟が玄関を開けると、門扉の前に猫が一匹座っていて、弟を集会場所まで案内してくれるらしい。
「猫集会でなにを話してるかって? 簡単な情報交換だよ。どこでご飯を貰えるとか、どこで雨風を凌げるとか、そういうの。あと、死期が近い仲間がいるときは、後悔しないようお別れしてこい、とかかな」
どうして猫たちは、それを弟にも共有しようと思うのか。
そこまでは弟自身もわかっていないらしい。猫の言いたいことはなんとなくわかると豪語する弟をして、俺のことを二足歩行のでかい猫だとでも思ってるんじゃないかな、なんて苦笑する程度だった。
冬は、猫集会が頻繁に開催される。
耐え難い寒さを協力して乗り越える為、密に情報交換が行われているらしい。弟は毎晩のように集会に顔を出し、三回に一回の割合で、暗い顔をして帰ってきていた。どこかの野良猫が死んだのだろうということは、流石に訊かずとも察し、私は口を噤んだ。
しかし、弟が高校受験に臨む年の冬ばかりは、お母さんから夜間外出禁止令が出た。
いくらインフルエンザのワクチンを打っていたところで、風邪をひかないわけではない。万が一にでも風邪をひいて受験に失敗したら一生後悔する等々、さんざお母さんに言われた結果、その年の冬、弟が猫集会へ参加することはなかった。
それでも、弟の登下校の際の見送りと出迎えだけは、いつも通り行われる。
にゃおにゃおと鳴く猫と、そっかと呟くように相槌を打つ弟。
猫の言いたいことがわからない私でも、それが集会を欠席した弟への最低限の情報を共有しているように聞こえたのは、果たして考え過ぎだろうか。
それが我が家のポストに投函されていたのは、年が明けて少し経った頃だった。
いつものように猫と一緒に家路に就いた弟は、我が家の郵便受けの前で立ち尽くしていた。弟の足元で暖を取るようにして居る猫は、黙って彼を見上げている。その手には、一枚の葉書が握られていた。
弟はしばらく葉書を見つめ、それからしゃがんで、足元に居た猫を撫でた。猫は満足そうにひと鳴きすると去って行った。
弟はその後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、家に入っていった。なんとなく見てはいけないものを見てしまったような気になって、私はそれから少し時間を空けてから帰宅した。
しかし、弟は帰宅後すぐに自分の部屋へは行かず、どころか防寒着を着たままリビングにあるソファーに座り、葉書を見つめていた。流石にこの状況でその葉書に触れないほうが不自然かと思い尋ねると、弟は眉根を下げ、
「俺宛に……たぶん、この辺りの長老的な猫から。俺、猫から手紙をもらうなんて初めてだよ」
と言いながら、私に葉書の表面を見せてくれた。
恐らく、猫から手紙を受け取った人類なんて弟が史上初なんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、私は葉書を見遣る。
そこには判読の難しいほどのたくるような文字で、弟の名前が書かれていた。差出人は不明。葉書の上部分は湿っていて、なにやら歯型のようなものがある。さらによく見れば、年賀状葉書だが、今年のものではなかった。去年の干支が描かれている。
猫の知能は一般的に、人間でいうところの二歳から三歳ほどと言われている。人間の三歳児でも文字を書くのはまだ難しいというのに、器用なものだ。いや、『器用』なんて言葉で済ませて良いものなのだろうか。『賢い』で片付くような話でもない。
しかし弟は、この稀有な事象をすんなり受け入れ、葉書に書かれた言葉を、ゆっくりと咀嚼するように見つめる。
「……俺、たぶん前世は猫だったんだろうなあ」
そうして独りごつように言うと、すっくと立ち上がった。
「まだ間に合うかもしれないから、俺、ちょっと行ってくる。姉ちゃん、悪いけどお母さんには上手いこと誤魔化しておいてくれる?」
可愛い弟からの頼みに私は、任せろ、と即答する。
弟は目を細めて笑い、ありがと、と短く御礼の言葉を口にすると、足早に家を出ていった。
その背中を見送ってから、私は暖房の電源を入れ、お湯を沸かしてココアを飲むことにする。
まだ暖まりきらない部屋に立ち上る湯気をぼんやり眺めながら、弟の言う前世とやらに思いを馳せる。それがいやにすとんと心に落ちていく感触を覚え、確かにそうかもなあ、なんて考えた。
終
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