(3)――「歌は良いぞ。聴くのも歌うのも、全部楽しい」

「ふーふふふんふーん、ふーふふふんふーん、ふーふふふんふー、ふふふふーん」

「……」

「ふーんふんふーふん、ふーんふんふーふん、ふんふんふんふんーふーふふふーん」

「……」

「ふーふふーふんーふーふふんふーん、ふーふふんふん……あ、アキだ!」

「……よう」

 残りの授業を耐え抜き、あいつらをどうにか躱して逃げたあと。

 自転車に乗り、冷たい秋風に晒されながら神社へやってきた僕は、自称狛犬が楽しげに鼻歌を歌っている場面に遭遇した。

 選曲に明らかな他意を感じるが、それについて言及はしないでおく。僕の器はそこまで小さくないのだ。無駄に上手いのが腹立つとか、思ってない。

「今日も元気そうだな」

 少女は、今日も相変わらず夏用の制服に身を包んでいる。衣替えの移行期間も終わり、学校で夏用の制服を見ることがなくなって数日。日に日に秋が深まっていく中で、どうしたってその服装は浮いていた。

 僕はこの少女が狛犬だろうと、普通の人間だろうと、どちらでも構わないと思っている。しかしその反面、少女がこの服装を維持するあたり、狛犬という設定に並々ならぬこだわりがあるようだ。

「アキが来てくれたからな。今日も元気いっぱいだ! ……くしゅんっ!」

 元気いっぱいと言ったその口で、少女はくしゃみをした。

「……もうちょっと厚着したほうが良いんじゃないのか?」

 少し迷ってから、僕は遠慮がちにそう提案した。

 しかし、今日は急激に気温が下がったから、夏服では本当に寒いだろうに。

「さ、寒くないぞ! 狛犬だから寒さなんて感じないのだっ!」

「……それじゃあ、元気いっぱいな狛犬サンに、これあげる」

 これ以上この会話を続けるのは不毛と判断し、僕は鞄からジュースを二本取り出した。

 りんごジュースと、コーヒー牛乳。

 どちらもストローを挿して飲むパックタイプのものだ。これなら、お面をつけている少女でも多少は飲みやすくなるだろう。そう思ってこれらを選んだのだが、こんなことなら温かいものにすれば良かったと、僕は小さく後悔する。

「えっ」

 しかし少女は、それまで楽しげに揺れていた身体をびくりと震わせ、動きを止める。さっきまでの元気が嘘のように、がちがちに固まってしまった。

「い、いらない。もらえない」

「どうして?」

「昨日、お茶をもらったばっかりだし……」

 少女は首と横に振って拒絶する。

 それくらい、別に構わないのに。

 小さく息を吐きながら、僕はそんなことを考える。とはいえ、善意の押しつけは良くない。

「どっちも苦手な味だったか?」

「……いいや」

「しいて言えば、どっちの味が好きなんだ?」

 その質問に、少女は僕の手に握られたそれぞれのジュースを見比べる。

 しばらくの後、少女は躊躇いがちに、

「……コーヒー牛乳」

と答えた。

「それじゃあ、はい」

 改めて、僕は少女にコーヒー牛乳を差し出す。

「とりあえず渡しとく。要らなかったら、僕が帰るときに返してくれたら、それで良いよ」

少女はしばしそれをじっと見つめたあと、ふと視線を上げて僕を見た。

「……アキ、本当に良いのか?」

「うん。だって、お前と一緒に飲もうと思って買ってきたんだし」

 やけに遠慮する少女に若干の違和感を覚えながら、僕は頷いた。

「それなら……うん。いただきます」

 昨日と似たようなことを言って、少女はおずおずとコーヒー牛乳を受け取った。

 それを見届けてから、僕は少女に背を向ける。飲みやすいものを買ってきたとはいえ、結局はお面をずらさないといけないことに変わりはない。僕が少女のほうを向いていたら、飲むものも飲めないだろう。

 少女のほうも僕の意図を読み取ってくれたらしく、こちらに背を向けた。どうして背後で起きていることがわかるのかと言えば、答えは明瞭である。少女が僕の背に、軽く寄りかかってきていたのだ。

 背中から少女の体温が伝わってくる。それにつられて、僕の体温まで上昇するようだ。

 なんとなく、それを少女に知られたくなくて、僕は慌ててりんごジュースを喉に流し込んだ。買ってそう時間の経っていないりんごジュースは、その冷たさを保ったまま喉を通過し、胃へと向かう。夕暮れの冷たい風も手伝い、妙な熱はあっという間に引いていく。

「アキ」

 おそらくは少女もコーヒー牛乳を飲みながら、僕を呼ぶ。

「今日の学校は、どうだったのだ?」

「ん? 別に、普通だけど……」

 言いながら、今日一日のできごとを思い返す。いつもどおり、ため息ばかりが出る日常だ。

 いや、そういえばひとつだけ、少女に伝えておきたいできごとがあったじゃないか。

「そうだ、合唱コンクールで歌う曲が決まったんだ」

「おお、昨日ワタシが歌った五曲だな? どの曲になったんだ?」

 僕が曲名を答えると、少女はなるほど、と相槌を打つ。

「その曲、ワタシは好きだぞ。月並みだが、ラストに向けて盛り上がるところの歌詞が好きなのだ」

「わかる。だけど僕は、歌い出しも好きかな」

 そう言って思い出していたのは、昨日聴いた少女の歌声だ。一曲目だったということを差し引いても、第一声からあれほど惹きつけられたのは、候補に挙がった五曲の中でも、この曲だけだった。

「お前が昨日歌ってくれたの、すごく参考になったんだ。ありがと」

「ビッ……、いや、どうしたしまして」

 なにか言いかけて、しかし少女は別の言葉に置き換えた。

 それを誤魔化すように、勢いよくコーヒー牛乳を飲む。

「ともあれ、曲が無事に決まって良かった」

 それならば、と言うと、少女は勢いよく立ち上がった。

 背中から温もりが消え、秋の冷たい風が僕の背を撫でる。

「あとは練習あるのみだな! ワタシがソプラノ、アキが男声パート。ふふ、ばっちりではないか」

 くるくると舞うように階段を下り、少女は言う。

 そのはしゃぎようたるや、お面で表情が見えなくてもわかってしまうほどである。

「いや、だけど……」

「歌は良いぞ。聴くのも歌うのも、全部楽しい。その楽しさをアキと共有できたら、ワタシはとても嬉しく思う」

「……」

「せっかくの合唱コンクールだ。楽しまなければ損だぞ」

 楽しまなければ損。

 その言葉は寝耳に水だった。

 この半年、学校の行事を休まないようにだけ考えていた。

 休めば周囲がやかましいし、なにより、僕なんかが行事を楽しんではいけないような気がしていた。

 だけど、少女がそれに巻き込まれる理由はない。

「ふふん、安心して良いぞ、アキ。ワタシはこう見えて、教えるのが得意なのだ」

 黙り込んだ僕に、少女は自信満々にそう言った。

 ここで断れば、少女は悲しむだろう。

 そんな姿は見たくない。

 このときの僕が抱いた気持ちは、それだけだった。

「それじゃあ、お手柔らかに頼む」

「うむ!」

 僕の答えに、少女は花が飛び散らんばかりの雰囲気をまとって頷いた。

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