第三章

 夢を語り続けるには、人の身には余りにも荷が重すぎる。語るだけならまだしも、何らかの形で其れを実現させるには、ともすれば日々の生活に労力の大半を取られがちな身では難しいだろう。

 生活其の物に意味を見い出し、其の中に夢を見出す事の出来る人であれば、其れもさして苦にならないだろうが、運悪く生活の外に夢を見い出してしまった人間にとって、日々を過ごす事、其れ自体が身を苛む要因となり、やがて何事も為せぬまま、唯ひたすらに己を擦り減らして行く。

 そんな種類の人間にとって、現実と云う物は増悪の対象以外の何物でもなく、”此処以外の何処か”への渇望のみを募らせ、挙げ句精神を先細りにして行き、末は現実に圧し潰されて、誰の記憶に残る事無く消えて行く。彼等の夢は所詮文字通り儚い物として終わるより他無いのだろうか?

 そんな事は無い、と青年は考える。彼等の夢が無かったら、現実と云う名の果実は、それ以上大きく実る事も無かっただろうし、熟する事も無かった。ある意味に於いて現実と云う成果、それは、彼等の現実に圧し潰されながらも、最後まで自らの夢を捨てる事の無かったが故の成果である、と考える。

 最近青年の頭の中に擡げる様になった或る夢に関する理論が、此の考えを後押しした。

 夢と云う物は、誰かに依って一旦生まれると、世界の何処かで別の誰かに受け継がれる、と云う物である。

 青年の考えでは、夢とは、世界に在ろうとして常に其の機会を覗っている或る種の概念であり、抑え込まれる毎に其の中身を満たして行き、一度現れるやいなや、次々と誘爆するかの様に場所を選ばず発現する物なのだ、と。そうなってはもう其の勢いを止められる者は居ない。其れが何らかの形を取る様になるまで、その夢は常に誰かの中に残り続ける。

 この瞬間にも、と青年は考える。もしかしたら新たな夢の顕現に立ち会えるのかも知れないし、受け継がれて来た夢を形にする役目を帯びているのかも知れない。そうでなくとも、夢を夢で有らしめる為に、誰かから又誰かへと夢を伝える、夢の運び手であるのかも知れない。

 休日の長閑な陽気に当てられ、そんな考えに耽っていたら、気付けば辺りはすっかり夜の帳が降りて、空には星や月が犇めいていた。

 其の空を眺めながら、嘗て此れ等星々、月を空に空いた穴として空想の輪を広げた事も有った、と思い出していた。

 

 心の内の壺。世界を包み器としての、己の世界観に比して自在に大きさを変えて行く其の壺は、今や自分や他の人々全ての依って立つ地球をすっぽりと包み込み、内側では燃え盛る太陽が天の道を辿り、その下に広がる大気の中を、雲が其の巨体を様々な形に変えながら悠然と流れて行く。鳥達は、そんな空の物語を、人々が決して聞く事の出来ない物語を地上に齎すべく飛び立って行く。釉薬も縫っていない素焼きの壺は、此処迄大きくなると所々に微細な穴が目立つ様になり、其れ等が星々となり、壺に空いた口は、夜を照らす月となって、其の向こう側の世界に人々は様々な空想を巡らすのであった。

 人々は湿った地面よりゆらゆらと立ち昇る霞さながら、未だ目覚める前の神話の時代の世界観から抜け出せないまま、後に幾多の童話として語られるであろう時代を、眠たげな眼を擦りながら日々過ごしていた。

 そんな時代に於いて、一人の若者がこの世界に一つの終焉を齎さんと、決然とした目で空を見上げていた。彼にとって、この地上を取り囲む天球とは自身と足元に広がる世界を閉じ込める牢獄であり、何れ其の軛を突き抜け、飛び出して行く事こそ自身に与えられた使命であり、其の為にこそ、と彼は傍らの自らの半身とも言える愛機に目を向けるのだった。其れは、見るからに物々しい出で立ちの、二枚羽のプロペラ式の複葉機。

 確かに通常の飛行、或る街から別の街へと云った類の物ならば頼もしいと言っても良い外観は、しかし彼のこれより挑む、自ら課した試練に連ねると、始めの印象とは裏腹に、月明かりに黒い影絵の様に浮かぶその姿は、如何にも頼り無く、微かな風一つでも吹けば飛ぶ様な、そんな無謀さばかりが際立つのだった。

 しかし、だからと言って今更引ける類の話では端から無かった。このあからさまに絶望的な状況が、却って彼の向かう試練の、先駆者としての立場が改めて思い起こされ、彼をしてより一層奮い立たせるのだった。

 革のジャケットに身を包み、頭にはずり上げたゴーグルを。来るべき時を控え、計器の最終確認を行っている最中、彼の傍に近付く影が一つ。彼が周囲の者達に笑い者にされる中、唯一人彼を笑う事なく見守り続けた女性だった。もう彼の行動に関して言い合う時期は通り過ぎた。唯今は、彼の為す事を見守り、其の結末を見届けるのみ。

 若者とて自らの為す事が傍から見れば自殺に等しい行為である事は重々承知の上で、それでも何かに衝き動かされるかの様に己の内より溢れる衝動を抑える事が出来なかったのだ。傍らの女性に慚愧の念を覚えつつも、何も返す事の出来ない己の不甲斐無さ。此の試練に何らかの結果を出す事で、せめてもの返礼とする事と定めて、改めて機体に目を向けるのだった。

 交わされる会話は、こんな状況に不似合いな、他愛ない世間話で、会話の内容だけなら午後の街角のテラスで寛ぎの中為されるのが相応しく、とてもこれから死地へと赴こうとしている時にする物ではない。其れなのに、二人は時に軽い笑いを交えながら、何でもない事をさも大事な秘密を打ち明けるかの様に、何時までも語り続けていた。

 不意に若者の心に去来する思い。自分が何の為に敢えて空に挑もうとしているのか。自分の周りにある物が今迄如何に自分を守り育んで来たか、と云う事に今更ながら思い知らされる事になろうとは。何時か傍らの女性が部屋に活けてくれた花の事を思い出していた。薄いピンクの奥ゆかしい花が花瓶に数本、何気無く差してあるのをテーブルに見付けた時、彼の脳裏に其の花を中心に何処迄も続く草原が一杯に広がるのを感じていた。

 嘗ては、そんな目の覚める様な風景を眼下に見下ろし、空の海を自在に飛び回った事も有ったのだ。コスモスと云う名の花である事を後で知った。

 道端や植え込みなどに其の花を偶々見掛ける時には、何時だってあの草原と青く鮮やかに広がる空とが思い起こされて、自分が閉じ込められていた、と感じていたこの世界が、揺り籠の如く自分を守り続けていた、と云う事に気付き、今まで抱いた憎しみの感情は幾分薄れたものの、だからと言って出発を取り止める積りなど無かった。

 今に至る迄自分達を温かく包み守ってくれていた、この現実と云う名の世界。だからこそと云うべきか、漸く自身の足で歩く事の出来る様になった今こそ、旅立たなければならない。自分が守られていた、と気付いた今でこそ。人は何時までも揺り籠の中で幸せな夢を見続けている訳にも行かず、何時かは自身の足で立って歩き出さなければならないのだから。

 出発はあっさりとした物だった。ただの一度でエンジンは掛かり、今まで聞いた事も無い程に滑らかな音を立てている。シートに座り、操縦桿を握ると、まるで此の時を待っていたかの様に其れは馴染み、此方を急かす様に倒れ込み、機体は待ちかねたかの様に滑らかに走り出す。見送る女性の穏やかな笑みが、月の光に照らされて、見上げる月の面に残像が映る程に瞼に残り、若者を乗せた飛行機はその月を目指し、ゆっくりと高度を上げて行く。まるで月其の物に導かれているかの様に。静かに滑る様に、機体は空を飛んで行く。徐々に大きさを増して行く月や星々。其れをぼんやりと夢の様に呆けた意識の内に眺めながら、若者は今迄の出来事を様々に思い起していた。

 自分がこれより至る世界の外へ。其れだけで十分な筈だった。しかし、彼が”内なる”世界で得た、其れが無意識にしろ、そうでないにしろ、自分の中で既に生きる現実として在る夢を外の世界に齎す者としての自分、世界を切り開く者でありながら、同時に夢を運ぶ者としての意味も其処には同時に含まれている事に気付くのだった。其れが、新たな世界が生まれるに当たって決して小さくない影響を与えるのだ、と云う事に。

 外の世界へと通ずる巨大な門である所の月。其れを目の前にして、そして其れを通り抜けた際、若者は何を見、感じたのだろう。其れ以降彼の姿を見た者が居ない以上、答えられる者は居ない。

 

 世界は一見何も変わった所は無い様に見えた。一夜明けた明くる日、全てはすっかり変わっていて、壺の中に閉じ込められていた世界は、今や月や太陽、その他夜空の星々と共に夜の世界を巡る天体の一つとなって、暗い世界の中に突如として放り出され、孤独に怯えるかの様に宇宙の中佇む星の一つとなっていた。

 それは、今まで壺の中、慈しむ様に囲まれ、安全に守られた揺り籠の中で、何時か目覚めるであろう眠りの中に居た世界の、本当の意味で独り立ちを果たした瞬間だったのかも知れない。

 其の目覚めを果たす契機となった若者の存在は、決して知られる事の無いまま、何時か人々は自らの決定的に変わってしまった世界に気付いて、さもそれが自分達の発見であると思い込み、知性の勝利、科学の躍進である、と騒ぎ立てるだろう。その裏で果たした若者の存在など全く思いも寄らないで。

 あの日の夜、彼の若者の出発を見届けた女性は、その時の出来事に関して口を開く事は終ぞ無く、その後誰とも添い遂げる事無く残りの人生を永らえた。未だ若かりし時からひたすら引き伸ばした様な時の中で、時折夜空をずっと見上げて過ごしていたと、彼女の其の後を知る人は言う。そんな彼女を注視する人間など居ろう筈も無く、やがて忘れられ、彼の若者と同様に世界から消えて行くだろう。

 真実を知る者は無く、道端にひっそりと咲くコスモスの花のみが、微風に揺られ首を傾げながら僅かに当時の事を風に乗せて僅かに仄めかすだけ。その声に耳を傾ける者は居ない。



             第三章:終

 

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