第3回/うらみあい 第1話/1st set 5位

得票:28/推し票:5

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[友坂ともさか悠人ゆうと:1]



ダンッ ダンッ ダンッ

 

 塾が終わって家に着いた僕は、家の中から聞こえる音に首をかしげた。

 この時間はいつも、自分の帰宅時間に合わせてお母さんが夕食を作っている。だから台所の方から音がすること自体は何もおかしくはないのだけれど、一体何を作っているんだろう。

 カボチャが硬くて切れないのかもしれない。

 そんな呑気なことを思って台所に向かった僕は、目の前に広がる光景に動けなくなった。

 

「は?」

 

 お母さんが、自分を切っていた。自分の、左手を。

 右腕の血管が見たこともないくらいに浮き出るほど強く握られた包丁が振り下ろされて、まな板の上に置かれたお母さんの左手をたたる。

 

ダンッ

 

 まな板は真っ赤に染まり、切り離された指が、指だったものが、細かな肉片にくへんとなって転がっている。お母さんの左手はもうほとんどなくなっていて、それでも振り上げる右腕は止まらない。

 

ダンッ

 

「お母さん!」

 

 我に返り、鞄を放り投げてお母さんの元に走った。包丁を奪おうと腕をつかむけれど、とんでもない力で振り解かれる。包丁が自分の方を向いて一瞬ひるんだが、お母さんは僕を切るよりも自分を切ることの方が大事らしく、僕を切りつけようとはしてこなかった。

 

ダンッ

 

 ひとりじゃ無理だ。

 僕はいったんお母さんから離れ、ポケットからスマホを取り出して110番に電話する。

 スピーカーにして状況を伝えながら、これ以上お母さんが自分を傷付けないように必死で包丁を持つ腕を掴んだ。

 おまわりさんは救急車の手配もしてくれていたようで、パトカーと救急車のサイレンが遠くから聞こえた。

 

「やめて! 離して! 食べさせなきゃいけないのよ! 栄養満点なんだから! 離してェェ!」

「お母さん……ッ!」

 

 数人のお巡りさんがお母さんを取り囲み、なんとかお母さんの手から包丁をうばう。お母さんは獣みたいに歯をしにして、金切り声を上げながら全身で抵抗した。

 両手両足を拘束されてもなお必死にもがくお母さんに、救急隊員の一人が薬を打つ。ようやく意識を失い静かになったお母さんを担架たんかに乗せ、隊員たちが救急車に運んでいった。

 

 静まり返ったリビングに、僕やお巡りさんたちの荒い息、そして外から聞こえる鈴虫の鳴き声が響いている。僕もお巡りさんも、全身血まみれだった。台所とリビングは血でひどいことになっていた。

 

 救急車から戻ってきた隊員が、僕に連絡先を聞いてきた。血まみれのままでは救急車に乗せられないから、搬送先はんそうさきの住所を後で連絡するということだった。

 

「友坂悠人くんだね。病院には血を清めてから来てください」

「あ、はい……お母さんをよろしくお願いします」

 

 救急隊員を見送った僕に、若いお巡りさんが話しかけてくる。

 

「悠人くん。お父さんか、誰か親戚の大人の人と連絡取れるかな?」

「あ……えっと、叔母に連絡してみます」

「うん、まずは手を洗ってからね。僕らも手だけ洗わせてもらっていいかな」

「はい、こっちです」

 

 お巡りさんたちと一緒に洗面所に行って、手を洗う。全員、顔もかなり血で汚れていたから、タオルを水で濡らしたものを渡して拭いてもらった。

 その間、僕は唯一連絡先を知っている親戚、理恵子りえこ叔母さんに電話をかける。

 

『もしもし、悠人? どうしたのいきなり』

「叔母さん、ぁ、う……」

「代わろうか」

「す、すみません……ごめん叔母さん、お巡りさんに代わるね」

『お巡りさん?!』

 

 スマホを渡し、お巡りさんが事情を説明してくれる。スマホの向こうから、叔母さんの驚く声が聞こえ続けていた。

 

「それでは悠人くんは我々で病院へお送りしますので、はい、そこで合流させていただくということで、よろしくお願いいたします。失礼します」

 

 お巡りさんが電話を切り、スマホを返してくれる。叔母さんは、搬送先の病院に来てくれることになったらしい。叔母さんの家がどこにあるのかは知らないけれど、近くて助かった。きっと未成年の僕だけでは、何かと困っただろうから。

 

「悠人くんは一緒にパトカーで行こう。僕らはパトカーに置いてある服に着替えて外で待ってるから、君はシャワー浴びてきな。慌てなくていいから、準備できたら来てね」

「はい、色々ありがとうございます、すみません」

「お母さんの保険証とか、お薬手帳とか、そういうものがどこにあるか分かれば持ってきてくれるかな」

「分かりました」

 

 お巡りさんは僕の肩をポンと叩き、外に出ていった。

 警察に対していい印象は持っていなかったけれど、いい人もいるんだなと、そんなことをぼんやりと思う。お母さんのあんな姿を目の当たりにした後にしては、随分ずいぶんと冷静だった。訳が分からなすぎて、衝撃的すぎて、麻痺まひしてしまっているんだろうか。

 大きく息を吐いて服を脱ぎ、洗面台に血まみれの服を置いた。

 

 シャワーで血を洗い流していると、だんだんと実感が湧いてきて吐き気に襲われる。夕ご飯はまだ食べていないから、胃液ばかりが口を焼いた。

 

「オェ……ェッ…………ゲホッ」

 

 赤と、薄茶色とが、混じり合って排水口に流れていく。涙は、たぶん出なかった。

 

 何とかシャワーを終え、綺麗な服に着替える。

 保険証や診察券は全てまとめてリビングの棚にしまわれていて、できる限り台所を見ないようにしながら取り出した。足の裏が少し汚れてしまったかられタオルで拭いて、靴下を履く。

 少しの荷物を持って、パトカーに乗り込んだ。

 

 ずっと僕を気にかけてくれていたお巡りさんが一緒に病院に入ってくれて、叔母さんと合流する。

 慌てて出てきたらしい叔母さんは髪を一つに結んでいて、Tシャツにジーパンというラフな格好だった。いつもは濃すぎるくらいのメイクも、ほとんどしていないみたいで、少し顔の印象が違う。

 姉妹なのだから当然かもしれないけれど、今の叔母さんはお母さんとよく似ていた。

 

「悠人! 大丈夫なの?!」

「僕は大丈夫」

「それじゃあ、我々はこれで」

 

 頭を下げて去ろうとするお巡りさんを、思わず呼び止める。

 不思議そうに振り返ったお巡りさんに、名前を聞いた。もうお世話になることはないかもしれないけれど、名前も知らないままではお礼もできない。

 

「ああ、そういえば名乗ってなかったっけ。木谷きたに宗一そういちです。普段は四丁目交番に勤務しているから、また会うこともあるかもね」

「本当にありがとうございました」

 

 木谷さんが病院から出て行くのを見送って、叔母さんと受付に行く。名前を告げれば、すでに処置は終わったらしく、病室を案内された。

 面会時間はとうに終わっていて、病院の中は静かだった。リノリウムの床を歩く僕らの足音だけが、やけに耳に残る。

 

 小さな個室に置かれたベッドの上で、お母さんは静かに眠っていた。体は何ヶ所かベルトで固定されていて、包帯の巻かれた左手が痛々しい。点滴を打たれて眠るお母さんの顔は、僕のよく知るお母さんのものだった。

 受付の人から連絡が入ったのか、お母さんに処置をほどこしたらしいお医者さんが病室に来て、僕らの前に立った。

 

「友坂さんのご家族ですね。里香子りかこさんは意識があると暴れてしまうので、薬で眠らせています。里香子さんの今後について少しご説明してもよろしいですか? 書いてほしい書類も数点あります」

「分かりました。悠人はここでお母さんと一緒にいて。それでも大丈夫ですか?」

「ええ、ではこちらへ」

 

 お医者さんと叔母さんが別室に行き、また静寂せいじゃくに包まれる。お母さんから聞こえるのは規則的な寝息だけ。包帯の巻かれた手に触れようとして、痛いかもしれないと手を引っ込めた。

 逆側に周り、右手に触れる。至るところにアザができていて悲しい気持ちになった。

 

 どうして、お母さんがあんなことを。

 

 塾に向かう僕を見送るお母さんは、いつもと変わらなかった。僕が塾に行っている間の数時間で、いきなりあんなことに?

 何かがあったんだろうか。お母さんが豹変ひょうへんするような何かが。

 

 考えても分からない。目を閉じたままのお母さんに聞いてみても、返事はない。

 これからどうすればいいんだろう。受験勉強も、意味がなくなるかもしれない。むしろ就職活動をした方がいいのでは。

 そんなことを考えていると、叔母さんが戻ってきた。

 

「悠人、帰ろ。送る」

「うん」

 

 お母さんは、数日はこの病院に入院することになるらしい。今日は時間が遅くて検査なんかはできなかったから、明日以降色々な検査をしつつ様子を見て、最終的には専門的な病院に移って適切な治療法を探って行くことになるだろうということだった。

 

「姉さんさぁ、急におかしくなっちゃったの?」

「……うん、塾行くまではいつも通りだった」

「そっか……」


 少しの間、無言の時間が過ぎた。赤信号になって停まった交差点で、叔母さんが僕にたずねる。


「私の家にも帰れるけど、どうする?」

「えっと……自分の家で大丈夫」

「そう? 泊まろうか?」

 

 叔母さんの言葉に、少し考える。あの家に一人。

 眠れればいいけれど、今のままではずっと色々なことを考えてしまって眠れない気がする。叔母さんがいてくれる方がまだ気が紛れるかもしれない。

 

「……うん、そうしてくれると助かる、かも」

「おけ、ちょっとコンビニ寄るね。悠人もなんか買う?」

 

 そう言われて、夕ご飯を食べていないことを思い出した。一緒に台所の惨状さんじょうと、お母さんのあの姿がよみがえって吐きそうになる。

 口を押さえて嘔吐えずく僕に、叔母さんが慌ててブレーキを踏んだ。

 

「ちょちょちょ、大丈夫?! これビニール!」

「う……おェェ……ッ」

 

 また胃液を吐き出し、必死で呼吸を整える。叔母さんが背中をさすってくれて、少し気分が良くなった。

 

「ごめんなさい……お母さん、夕ご飯作ってるはずだったから……思い出しちゃって……」

 

 途切れ途切れで呟く僕の声はかすれていた。差し出された水を飲むと、叔母さんが少し倒してくれた椅子に体重を預けた。

 

「家の近くのコンビニに寄るから、それまでは休んどきな。ご飯見るのもキツそうだったら車で待ってて。ゼリーとか買ってくるよ」

「うん……ありがとう……」

 

 コンビニに着いたけれど、食べ物を目にする覚悟が決まらず、ゼリーを買ってきてもらった。叔母さんが買ったものは中身の見えないエコバックに入れられていて、配慮がありがたかった。

 

 お父さんが出ていってから空っぽのままだった駐車スペースに、叔母さんの車が停まる。電気を点けたまま病院に向かったから、家の中はどこも明るかった。

 

「お邪魔します」

「リビングと台所には行かない方がいいよ」

「でもそのままってわけにもいかないでしょ? 明日休み取ったから、掃除しておくよ」

 「……ありがとう。でも、今日は一緒に二階に行こう?」

「そうだね、ありがと。二階に空き部屋あったっけ」

 

 話しながら、リビングの方を見ないように二階に上がった。二階には部屋が三つある。僕の部屋と、お母さんの部屋、そして、もういないお父さんの仕事部屋。

 今は物置になっていたお父さんの部屋に、ちょうど来客用の布団一式がしまってあった。叔母さんはそれを広げ、僕を安心させるように笑った。

 

 叔母さんに洗面所やトイレの説明をして、自分の部屋に戻る。部屋の中はいつもと変わらなくて、まるで何もなかったみたいに僕を包んでいた。

 ベッドサイドに腰掛け、パウチに入ったゼリーを食べる。喉を通っていく冷たさが、やけに鮮明に感じられた。空腹が刺激されてお腹が鳴る。

 台所には行きたくないから、我慢するしかない。そう思っていると、扉がノックされた。返事をすると、叔母さんがひょいと顔を覗かせた。

 

「悠人? おにぎり余ったんだけど、いる? 無理なら明日の朝に私食べるから大丈夫だけど」

「あ、食べてみる」

「おっけ」

 

 ビニール袋から取り出されたおにぎりを見ても、大丈夫だった。叔母さんの置いていってくれたおにぎりをふたつ食べ、ごろりとベッドに寝転ぶ。

 隣の部屋からは、叔母さんがスマホで観ているらしい何かの音が漏れ聞こえてくる。誰かの生活音がこんなにも安心できるものなのだということを、僕は初めて知ったのだった。

 

 気付くと朝になっていた。慌ててベッドから身体を起こし、時計を見る。七時になる少し前。あんなことがあっても、身体はいつも通りに起きるのだなと思った。

 歯磨きと洗顔を済ませて自分の部屋に向かっていると、お父さんの部屋のドアが少し空いていた。ニュース番組を流しているようで、アナウンサーの声が聞こえてくる。

 

『先日、阿賀甲あがこう市で起きた事件に続報です。強盗殺人事件として捜査が進められていた、深澤ふかざわさん一家全員が殺害された事件ですが、一家心中だった可能性があるとの見方が強まっています』

「あれ、起きたの?」

「おはよう」

 

 部屋から出てきた叔母さんは相変わらずすっぴんで、一瞬お母さんがいるような感覚におちいる。ちがう。お母さんは。

 

「学校どうする? 家にいる方がきついか」

 

 そう問われ、また考える。学校に行っても、家にいても、つらい。

 ただ、学校を変に休んで何か言われるよりは、いつも通り行った方がいいかもしれない。そう思い、僕は学校に行くことを告げた。

 叔母さんは僕がいない間に一階を掃除してくれるみたいだった。申し訳ないと思ったのが顔に出ていたのか、また微笑まれてしまった。

 

 制服に着替えて学校に向かう。足取りは重いが、仕方ない。

 塾でずっと勉強していられれば一番いいのだけど、そういうわけにも行かなかった。

 

「あれ、んだよ、悠人来てんじゃん」

「はぁ~~? ウソだろ」

 

 背後から声が聞こえ、鳥肌が立った。何をされるかと身体を強張こわばらせた僕の後ろで、二人は会話を続けている。

 聞きたくないけれど、ここで変に足を早めたら余計なダメージを負うだけだ。せめて早く教室に入りたい。そう思いながら足を進めた。

 

「でも、荷物は届いてたんだろ?」

「ああ、玄関先で見た」

「じゃあ、失敗したってことか」

「いや、でも郵便局の人は死んだぜ」

「だよなぁ」

 

 一体、何の話をしているのだろう。

 荷物?

 人が死ぬ?

 

 僕は立ち止まり、彼らの方へ振り返った。

 今年同じクラスになってから、僕をいじめ続ける二人。森尾もりお神崎かんざきが怪訝そうな顔をして僕を見る。

 

「なに、荷物って」

「は? んだテメー」

「荷物って何だって聞いてんだよ!」

 

 出したことのない大声で、僕は彼らに詰め寄った。

 だって、彼らの話を聞く限り、お母さんがあんなことになったのは、それは、僕が受け取るはずだった荷物をお母さんが受け取ってしまったからじゃないか。

 誰から何が届いたのか分からないけれど、よくないものには違いなくて。

 僕が今日、学校を休むだろうと思って、こいつらは。

 

「呪いの荷物だよ、幽霊のガキに懐かれるためのな!」

「呪いの……荷物」

「なんでお前平気なんだよ、あ、もしかしてママ死んじゃいましたかぁ~」

「ギャハハハ!」

 

 笑い声が頭の中をこだまして、目の前がぐるぐるして、僕は。

 殴りかかろうとした瞬間、ヘドロのような何か黒っぽい塊が二人の間にボトリと落ちて、そして。

 

ボリ

        ガリ

  ボリ

 

 二人の手が、足がかじられたみたいになって、そこから大量の血液が噴き出したのだった。

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