第14話 少女と美食と後悔と(1)


「おはよう、グライン」


 昨夕の出来事が嘘のように静かな朝。魔獣が襲撃した場所よりここは少し離れているからだろうか。穏やかに一日の始まりを迎えていた。


 グラインと声をかけられた、がっしりとした体つきの男は馬の世話の手を止め、振り返った。


「ああ、おはよう」


「今日も早いな」


 何気ない会話を続ける。近くに住むこの男は毎日この時間に散歩をするのが日課のようで、グラインの家の前で出会うと、こうして世間話を少ししていく。今日の話題は昨夕の魔獣騒ぎだ。


「グラインは見なかったのか?」


 塀に囲まれた平和な街にはかなりショッキングな出来事だった。解決したあと人々はすぐに夜を迎えるという時間でありながら、あっという間にこの事件を広めた。友人、知人に。帰宅時間でより多くの人の目に触れたというのも大きかったのかもしれない。


「何を? 魔獣か?」


 男はにやりと唇を歪めた。


「そうそうお目にかかれないくらいの美女だったそうじゃないか」


 長い間、ここコルテナの街の殆どの住人は魔獣を見ることさえなかった。ぐるりと高い塀で囲まれていること、朝晩の区別なく守っていてくれる守護隊がいること、そして魔物自体が姿を見せなかったからだ。


 しかし突然にその守りが崩された。


 昨日、安心を具現化していた街の塀が越えられたのだ。それだけでも驚くのに、侵入してきた大きな魔獣を討伐したのは、そのいつも守ってくれていた守護隊ではなく、息を吸うのも忘れるほどの美しい女だったという。


 配達を生業とするグラインなら何か知っているかも。仕事柄噂を聞くか、もしかして既にどこぞで遭遇していたりして。


 男がそう考えても仕方がないことだった。


「本当にそれほどなのか、お前なら噂の真相を知っているかもって思ってさ」


 実物がいるわけでもなく、容姿を聞いたとしてどうするという話ではあるが。グラインは手にしていた馬用のブラシを桶に入れながら笑って言った。


「あぁ、それか。俺はさっきパン屋に教えられたとこだ。残念だがそんな美女の話はちっとも聞いたことねぇよ。そんな噂になる程の女なら、そりゃあ俺も是非見てみたいもんだぜ。昨日は早めに配達が終わってな、騒動があった時にはもううちへ戻ってきてたんだ」


「なんだ、そりゃお前も残念だったな。その美女、美しすぎてひと目見れば寿命も延びるかもってもう女神みたいに言われてるんだぜ」


 流石にそれは嘘だと思うが、と男が笑ったのと同じにグラインもわははと声をだして笑った。人懐こそうな顔の目元に皺が寄る。


「本当かぁ。確かにそりゃあ残念だ。だけど人が死んだんだろ? それを聞くとなぁ」


 グラインの台詞セリフと残念そうに首を振る仕草に、笑っていた男の顔も曇った。 

 魔獣はあのレベルにしては被害を出さなかっただけで、犠牲になった人は確かにいるのだ。遭遇していない人からすれば単なる好奇心を誘う話だが、出会った人にしたらとんでもない事件のはずである。


 二人とも声をあげて笑ったことをバツが悪そうに眼を伏せた。


「でも、まあ、あれだ。あんな街のど真ん中あたりで暴れやがったにしては、被害が少なかったっていうのが救いだよな」


 男はグラインに言った。


「あんな?」


「これも知らないのか?」


 ゲートを破って入ってきた魔獣は、ゲートを守る守護隊やそこにいた旅人などには見向きもせず、街の中央に向かって駆けて行ったそうだ、と男は続けた。


「被害にあったのは中央広場に続く道とその辺りにいた人だけらしい」


 この街は過疎の街ではない。いつも活気に溢れ、あちこちに人がいたはずなのだ。しかし魔獣に遭遇した多くは疾風のように走り去る後ろ姿を見ただけだった。


「な? なんか釈然としないよな」


「……へぇ」


 グラインは顔を伏せたまま言った。


「なら、目当てのもんでもあったのかもな」


 

────

 

 脱兎の如くその場から走り、秘密を知った人間をそのままにして逃げ出したのは正解だったのだろうか。


 すっかり日も昇り人も増え、街は賑わい、忙しい朝にベンチに蹲る少女を気にする人はいない。昨夕の魔獣襲撃事件の話があちらこちらで噂に上っているのが耳に入った。自分のしたことがこんな風に噂されることに、心底うんざりした顔で眉間に皺を寄せる。

 

 あの後、力の限り走った。坂を上り角を曲がり、そして下った。塀で囲まれた街は総じてある程度の大きさがある。そう、この街はそこそこ大きいのだ。住んでいる人の数も、この前の村に比べたら段違いの桁違いだ。だからきっともう会うことはない。会うことがなければ荒唐無稽な話、誰かに話したとて証明のしようもないじゃないか。


「……あ~、はいはい。私が悪いですよ。は? うつけ? なにそれそこまで言う?!」


 誰かと話すようなひとり言を、ぼそぼそと少女は続ける。


「あのね、私だってもっと食べたかったんだ! 何日ぶりのまともなご飯だったと思うんだ。食べないあんたはいいよね……そもそもさ、身の程を弁えず私に懸想しだしたあいつらにこそ非があるじゃないか。そうだろ。それがなかったら、あんな急いであんたに頼むこともしなかったんだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る