第3話
頭が痛いし、寒い。額がずきずきと痛む。どうして、と思って目を開けた。一面にモヤがかかって、良く見えない。頭の上でシーと小さな音が続いている。遠くから話し声が聞こえる。右腕が痛くて持ち上げてみると、肘に針が刺さっていた。そこから、どこかへ透明の管が延びている。寒くて全身がぶるぶると震える。
ここはどこなの。私はどうしちゃったのだろう。おしっこがしたい。おしっこがしたくて我慢ができなかったので起き上がった。体のあちこちが痛かったが、一番痛いのは頭だった。右肘の針が抜けた。裂けるような痛みがあり、みるみる血が出てきたので慌てて押さえた。視界がぼやけて、頭がぐらぐらする。
「あら、砂川さん、起きちゃだめですよ。点滴が抜けているじゃない」
ぼやけたモヤの一部が広がって、頭に白い帽子を乗せた白衣の女の人が姿を見せた。看護婦さんだ。よく見ると、私は大きなビニールの袋の中にいて、看護婦さんはチャックを開けて隙間から入ってきた。顔にたくさんそばかすがある。声が優しい。髪は男の人みたいに短い。
おしっこと言おうとしたけれど言葉が出ない。看護婦さんは私を寝かせ、血の出ている腕に絆創膏を貼ってくれた。どうしよう。洩れそうになって股を抑えた。
「おしっこへ行きたいのね」
看護婦さんの動きは素早かった。私はおむつをしていた。看護婦さんが、パチパチとボタンをはずしてカバーとおむつをひろげた。ベッドの下から白い容器を引きずり出し、蓋を取って私の腰とおむつの間にあっという間に差し入れた。
「ここにしてね」といって、紙を股に充てて毛布を掛けてくれた。すでにおしっこが勢いよく飛びでていてあちこちに撥ねた。看護婦さんの手も濡らしたと思う。
「砂川さん、終わったらこれで拭いて」
チリ紙をたくさん渡されたので撥ねたところもきれいに拭いた。
スナガワさんって呼ばれた? 誰のことなの? おしっこが終わると寒くなって震え始めた。
「寒気が来た? 毛布と布団をを掛けるわ。さっき湯たんぽを取り換えたばかりだら、じっとしていると暖かくなってくるからね。パンツを持ってくるからちょっと待っていてね」
あったかくなってきた。自分のぬくもりと湯たんぽにに包まれてる。
「先生に意識が戻ったって報告するわ。じっとしているのよ」
ビニールのチャックを開けて、おしっこの容器を持って看護婦さんは出て行った。先生って、ここは病院?
またモヤがかかっている気がする。ビニールの囲いのせいだった。シーっと音がする方を見ると、頭の上に機械があって、そこから音がする。ビニールもそれにくっついていた。
白衣の男の人が入ってきた。頬っぺたにニキビがある。さっきの看護婦さんが傍らに立っている。
「診察しますよ」と言い、私の唇に触り、瞼を捲り、お医者さんの耳に当てるあれで胸の音を聴いた。お腹をムニュムニュと触り、枕もとの何かの板を見ている。きっとお医者さんだ。傍に丸い木の椅子を持ってきて座った。
「君の名前を教えてくれるかな」
私の名前? あらっ? 思い出せない。さっきのスナガワって。私の名前だったの? 看護婦さんがスナガワさんって言っていました。話そうとしたけど声が出ない。先生は、メガネの中から私をじっと見るので、困って私は横を向いた。ほかにもいろいろ聞かれたが何も応えられない。舌が、口が動いてくれないし、頭がモーっとして働かない。疲れた。
あたたかくて眠くなってきたから目を瞑った。
肩がチクリとしたので目が覚めた。看護婦さんが私の肩に注射したみたいだ。揉んでいる。さっきの人とは違う。この人は何も言わないで、寝巻の袖を下へ引っ張り黙って傍を離れていった。さっきの看護婦さんは優しかった。
モヤは晴れていた。部屋が広くなっている。隣に一つだけベッドがあるけど誰も寝ていない。ビニールの被いも音もなくなって、足元の壁に頭の上にあった機械が置いてあった。
寒いし熱い。手先は氷のように冷たいのに、頬はかっかとほてっている。足を延ばすと湯たんぽに触れた。あったかい。
目が覚めた。体中から汗が噴き出ていた。こんなに汗を掻くなんてどうしたのだろう。
無口な看護婦さんが入ってきて私の腋に体温計を入れた。上からぶら下がった空瓶を黄色い水の入った瓶に取り換えた。よく見ると足の方へ瓶から管が延びていた。
看護婦さんが、手首をもって腕時計を見ている。長い間に感じた。重さを預けないように腕を持ち上げているのでだるくなった。
私の方を見て、股のところを指さしている。見ていると何度も何度も指さす。意味が解らない。言えば分かるのにどうして口をきかないのだろう。いつの間にかパンツを履いていた。
今度は体温計を抜き取った。枕元にある台の上の、さっき先生が見ていた板の紙に何やら書いて扉から出て行った。それで気が付いたのだけれど、その扉にガラスがはまっていて、向こう側に看護婦さんが何人もいるのが見えた。もう一つ足側にも両開きの扉があって、上の方に小さなガラス窓が付いている。
体を動かすと全身が痛い。運動し過ぎた時の筋肉痛みたいな、くじいた時の関節痛のような。どうにかなっているの? 私。とてもだるくて眠い。
眼を開けると、先生が傍に座っていた。後ろに、二本の線が帽子に付いている看護婦さんが立っている。太っている。
「聞こえるかい? 聞こえたら頷いて」
ニキビの先生だ。じっと私を視ている。頷いた方がいいの? 見られているのが嫌なので横を向いた。
「君の名前は何というの。お父さんやお母さんを探さないと帰れないよ」
お父さん。お母さん。帰るって……。
私はどうにかなっている。何か変だ。頭の中は真っ白で何も出てこない。
涙が出て来た。顔を覆って泣いていると、先生がハンカチを貸してくれた。ハンカチがぐしょぐしょになってしまった。涙は止まってくれない。
二本線の看護婦さんが、布団を捲った。こっちは泣いているのに、先生が立ち上がって私の身体を調べ始めた。体中の曲がるところを次から次へと曲げたり伸ばしたり。一渡り済むと、ポケットから玄能のようなものを出して膝を叩いたり、肘を叩いたりした。何のためにこんなことするのか。習字の筆を出して、あちこちをサラッとこすった。自分の体のあちこちに擦り傷やら打ち身の跡があるのが見えた。だから体中痛いんだ。
お医者さんの仕事ってわからない。いつの間にか涙が止まっていた。目玉に眩しい電灯を何回も当てられた。全部終わったのか二本線さんが寝巻を直して布団をかけてくれた。
また別の看護婦さんが、ピカピカの台車を持ってきて、先生の手伝いを始めた。先生は私のおでこの絆創膏をはがした。痛かった。手で触ろうとすると、二本線さんが私の腕を抑えた。痛いぐらい強い力だ。
おでこにピンセットで冷たいものを塗った。触ると痛いのに2回も。看護婦さんが白い布を置いて絆創膏で留めた。
手当が終わっても、先生はもう質問しなかった。どんなことを聞かれても、私の口から声は出てこないし、聴かれたことに答えを持っていないのをわかってくれたのだろうか。
「傷に触っちゃだめですよ。黴菌が入ったら大変なことになりますよ」
手当を手伝った看護婦さんが耳元で、子供に言って聞かせるようにゆっくりと説明してくれた。傷があるのですね。わかりました。
無口な看護婦さんが「いっても無駄ですよ。何にもわからないみたいだから」といって、台車を押していなくなった。
「そんなことないわよね。まだ話せないだけだわ。そうだ」
部屋に残っていた二本線さんが、そういうなり出て行って間もなく帰ってきた。手に帳面を持っている。私を座らせ、膝の上にそれを広げて置いて鉛筆を持たせた。
「名前を書いて。字なら書けるでしょう」
紙を見ると、何かいやな気分になってきた。なんだか困った。書けません。鉛筆を投げ出したかった。黙っていると二本線さんも困り顔をしている。眉間にくっきり「ル」の字の皴が寄った。
「絵でもなんでもいいから書いてみて。急がないから書けたら見せてね」
帳面も鉛筆も置いたまま部屋から出ようとして、振り返った。
「そうそう、今日、これからお部屋を移ります。今度は6人部屋でにぎやかよ。それとお昼から重湯が出ますからね」
二本線さんは、のっしのっし部屋から出て行った。部屋が変わる。にぎやかになるの? それより私が変なのはいつ治るの?
「何か書いているの?」
水色の服を着た人が足側の扉を両方、開けっ放しにして入ってきた。膝の上の帳面を私から取り上げて、ぱらぱらとめくった。
「何も書いていないじゃない。部屋移動するので片付けますよ」
鉛筆も持っていかれた。
大きな車が付いた椅子を傍に持ってきて、ここへ移ってという。裸足で下に降りると水色さんはスリッパを持ってきてくれた。立つと頭がズキンズキンと痛いので、そうっと車の椅子に座ると、水色さんは、勢いよく動かして、部屋から出た。
廊下を左へ曲がり、看護婦さんの部屋を過ぎ、その二つ向こうの部屋にいきなり入った。
「皆さん、砂川さんですよ。よろしくお願いします」
手前の左のベッドに寄って、急ブレーキをかけた。頭痛は音が聞こえるくらい強くなった。
「降りて」
言われたままに降りて、真っ白いシーツを敷いたベッドに座った。寒いので掛け布団の中に潜り込んだ。横になると頭痛が弱まった。
「スナガワさん、若くていいね。いくつなの」
誰かが私に話しかけたみたいだ。
「口きけないの。話しかけても返事できませんから」
私が言ったのではない。水色さんが言いながら、私のベッドの頭のところに何かぶら下げて、車の椅子を押して部屋からいなくなった。下がったものを見上げると、マジックで砂川福子15歳と書いた名札だった。名前の下に、血液型O型、入院日、昭和43年11月30日と書いてある。今日は何日だろう。周りを見回すと、中年の女や、年寄りが物珍しげにこちらを向いているのが目に入る。
みんなに聞きたい。今日は何日ですか? 私の病気は治りますか? 私は誰ですか? 私はどこから来たのですか? 私はなぜ喋れないのですか? 考えると頭が重くなり気が萎える。何も考えないように布団にもぐり、丸まってじっとしていた。
多分眠っていたのだと思う。つつかれて目が覚めた。真っ白な髪の、小さな太ったおばあさんがベッドの横に立っていた。
「ご飯だよ。起きて食べなさい」
おばあさんは食べ終わって空の食器を片付けるところだった。横の木の台の上に、お膳が載っていた。今初めてお腹がすいているのに気が付いた。起きて座るとまたみんなが私を視る。気にしないで食べよう。蓋つきの丼と、汁物と黄色い何か、だった。お膳には箸も匙も乗っていない。辺りを探したけれどどこにもなかった。どうしよう。
部屋へ戻ってきたさっきのおばあさんは、洗った箸と湯飲み茶わんを持っていた。私の様子を見ていて、自分の引き出しから匙を持ってきた。
「私はもう一本持っているから、これを使って」
私は思わず頭を下げた。
「困ったことがあったら手伝うからね」
おばあさんは私の斜め向かいの真ん中のベッドの人だった。私が丼の蓋を取るのを見てから、窓の方へ向き直って何かをし始めた。他の人は私をじっと見ている。
丼には半分ほど、とろとろしたお湯が入っていた。一口飲むと甘かった。美味しい。匙でゆっくり食べたが、あっという間になくなった。黄色いものは卵のなんだっけ、たまごの、たまごの。汁は味噌汁の上澄みみたいで味気ない。思い出した、炒り卵の味だ。
お腹が満たされると、眠くなった。ベッドにもぐりこもうとすると、おばあさんが近づいてきた。
「歩けるならお膳を下げに行くよ。歩けない人は下げてくれるけど、ここの助手さんはあまり気が利かないから」
おばあさんの手招きに、起き上がってお膳を持ってついていった。体中の痛みで動き方がぎくしゃくした。部屋の前にお膳を乗せた台車があった。膳を乗せると、おばあさんが匙だけとって私に渡してよこした。また手招きされ、ついていったところは洗面所でそこで匙を洗った。
「朝起きたら、ここで歯を磨いて顔を洗うの。便所はこっち。教えてもらっていないみたいだね」
おばあさんは指をさしたり、顔を洗う真似をしたりしながら教えてくれた。急に尿意を催して便所に入った。匙を口にくわえて用を足した。出るとおばあさんがくわえた匙を見て笑った。私も笑った、と思う。
部屋へ戻ると、台の上に錠剤の入った薬の袋が置いてあった。袋にマジックでスナガワとカタカナで書いてある。どうすればよいかわからなくておばあさんを見た。おばあさんは同じように置いてあった薬を持っていて、私に飲むふりをして見せた。意味が解って、私も飲もうと思ったけれど、水がなかったので、洗面所まで歩いて行って薬を飲んだ。洗面所から部屋へ戻ろうとした。部屋がわからなくなった。どうしよう。うろうろ歩いた。
看護婦さんの部屋があった。誰もいない。この近くの筈。二つ目? 三つ目? さっきはおばあさんの後をついていったから部屋番号なんて見なかった。しっかりしなくちゃ。洗面所に戻りもう一度歩いてみた。ここ、と思った部屋の外に名前が書いてあるのを見つけた。”砂川福子”私の部屋だ。202号室。
部屋へたどり着き、おばあさんの顔を見ると、目を丸くして私を見てから、にっこりした。心配してくれていたのかな、嬉しい。
「何にも持っていないみたいだね。古いけど洗ってあるから使って」
おばあさんはバスタオルと小さめのタオルを持ってきてくれた。ピンクの花柄でとても柔らかかった。私は深く頭を下げ、気持ちを伝えた。
「いいからいいから」といいながら自分のベッドへ戻った。
嬉しいし安心したせいか、タオルを抱いたままベッドに潜った途端眠ってしまったのだと思う。眼を開けたらもう外は暗かった。起きると体の痛みが少し減っていた。頭も少し痛いだけだった。
おばあさんが点滴をしていた。具合が悪いのだろうか。傍へ行こうと思った時、水色さんが薬缶を台に乗せて運んできた。皆にお茶を配って歩く。おばあさんの番は抜かされた。
私のところで、湯呑み茶碗がないのを見て廊下へ出て、すぐに茶碗を持って戻ってきた。茶を入れてくれた。
「茶碗は家族の方が持ってきたら返してくださいね」
昼の水色さんより優しい。鼻の横に黒子がある。おばあさんは黙って横になったままだ。
「ご飯ですよー」
廊下で声がすると部屋の何人かがお膳を取りに行った。私とおばあさんだけが部屋に残った。水色さんが私のお膳を持ってきてくれた。おばあさんには持ってこない。みんなが食べ始めてもおばあさんは起き上がらない。心配になって近くへ歩いて行った。
「あんたかい。どうしてご飯がないのかってかい? 私は明日手術だから絶食なの。心配しないで食べなさい」
シュジュツ。元気そうに見えるけど、私の病気より重いのだろうか。心配だ。おばあさんのベッドの名札を読んだ。”椿原ふゆ”と書いてある。そう、ふゆさんが言うように席に戻って食べ始めた。ふゆさんは何でも分かっている。心配しないで大丈夫。
朝、ふゆさんが台車に載って部屋から運ばれていった。シュジュツのためだ。
「すぐ帰ってくるからね」と私に手を振った。待っています。
お昼になってもふゆさんが帰ってこないので、看護婦さんの部屋まで歩いて行った。看護婦さんは忙しそうで私を気に留めない。ふゆさんは大丈夫ですか。
何日も何日も経ったのに、ふゆさんは帰ってこない。どうして?
部屋の入り口に貼ってある名札もベッドのも手術の日になくなったから、どこかへ移ったのだろうけれど「すぐ帰ってくるからね」といっていたのに。どこにいるの? いつ帰ってくるの?
看護婦さんの部屋へ行った。どうしたのか聴きたい。聴けるだろうか。
「砂川さん、何か用?」
二本線さんが部屋から出てきた。ドアの側で少し待ってくれたけど、口をもごもごするだけで何も言えない私に焦れて、眉間の皴がルの字に入った。私はそこを離れて仕方なく202号室へ戻った。入口のところで部屋の中の話し声が聞こえてきた。
「今朝、集中治療室で椿原さんが亡くなったそうよ」
私が部屋へ入ると声はピタッと止んだ。嘘よ。私はベッドに潜り込んだ。亡くなったって死んだことだよね。本当? なぜ? どうして何でも分かってくれるふゆさんがいなくなってしまうの? 頭が痛い。寒い。もう嫌だ。丸くなれるだけ丸まったけど、震えは止まらない。
お粥のご飯粒とおかずがだんだんに増えていく。何日たっただろう。今日からご飯になった。私は治ってきているということなのだろうか。でも思い出さないし、話せない。治っていないと思う。頭真っ白。お先真っ暗。一人で笑った。
着替えが少ないから、自分で洗濯をするようになった。親切な看護婦さんや、退院する人が、たまに下着や寝間着をくれた。洗面所の石鹸で洗う。その隣にボイラー室と書かれた部屋があって、狭いスペースが物干しになっていた。一晩で乾く。
部屋の人たちは出入りがある。もう何回も入れ替わっている。名前を覚えないうちに退院していく人もいる。退院の時、大体の人がお菓子を置いていくが、それは私のたった一つの楽しみだった。
羊羹、栗饅頭、どらやき、中でも、バターの味がしていろんな果物のジャムやナッツが乗ったロシアケーキが大好き。色も形もとっても可愛くて、貰った時初めてで珍しくて眺めていたら、同室のおばあさんが「これなんというお菓子なの」と水色さんに訊ねていた。
「ロシアケーキというのよ」
「外国のケーキかい。すごいごちそうだ」
おばあさんは喜んであっという間に食べてしまった。私はもったい無くてすぐに食べられなかった。形や匂いを思い残すところなく楽しんで、それでも夜、歯を磨く前には食べ終えていた。生まれて初めて食べた……と思う。
病院の一階に売店がある。レントゲン室へ行く途中だ。寝巻や、お菓子、雑誌、玩具、飲み物、何でも売っている。一円も持っていないので、何も買うことは出来ない。
わかってくれる人は一人もいない。ふゆさんに会いたい。それだけ。
二本線さんが、私を一階の外来というところへ連れて行った。ニキビの先生、もう名前は知っている、早坂先生、とお年寄りのやせ細った男の先生が待っていた。
痩せ先生がいろいろ私に質問したけれど、何も応えなかったので早坂先生の方を向いた。
「アムネシアとアフエイジアと考えると、時間が必要です。うちで見ましょう」
うち? このおじいさんのおうち? 私はどこへ行くのだろう。おじいさんと暮らすのか。どっちにしてももう仕様がない。
おじいさんのおうちでなくてよかった。新しい部屋は8人部屋。どの人もみんな同じ顔に見える。丸い体つき。なんとなくぼんやりしているけれど、よく笑う。眠そう。前にいた所みたいにじろじろ見ないのがいい。みんな、それぞれのことをしている。黙って宙を見ている人。両手で布を揉みしだいている人。横になって天井を見ている人。ベッドのシーツに手アイロンをかけている人。本を読んでいる人。同じページを、ずーっと。
私は端っこの窓際のベッドを与えられた。窓から、土手が見える。残り雪の隙間にフキノトウが咲いていた。窓の外には鉄の格子がはまっている。ガラス窓は開いていて湿った空気が春の匂いを運んできた。格子越しに、薄青色に連なった山々が遥か遠くに見えた。川だろうか、水が勢いよく流れている音が聞こえている。
気が楽。何も聞かれない。関心を示されない。たまに痩せ先生、そう、北川先生の話を聞く。あの人が一人でしゃべって終わる。
朝ご飯を食べたら、天気が良くて暖かい日は、中庭の小さな運動場でバレーボールとか三角野球とかみたいなものをする。別の日はベンチで日光浴。雨の日は自由時間。
お昼ご飯の後は、麻雀、塗り絵、折り紙、習字、何でも好きなことを選んで参加する。
私はいつも、何もしないで部屋にいる。窓辺に寄りかかって、毎日変わっていく窓の外を見ている。フキノトウの背丈が延び、花が枯れて、脇から小さな笠のような葉を伸ばし始めた。雪は姿を消し、土手の樹々は若葉色に染まる。天気の良い日には、茶色の犬を散歩させる腰の曲がったおじいさんが通る。ここでぼうっと外を眺めていても、誰にも責められない。
時々、下着や服の洗濯をする。どれもこれも、よれよれになってきている。あるだけありがたいと思う。乾燥室で干す。すみっこにマジックでスナガワフクコと書いてある。ここの看護婦さんが書いてくれた。
お部屋の人が退院するということがないので、お菓子を食べる機会は無くなった。ロシアケーキ、もう一度食べてみたい。
夕食の後は週二日お風呂。ない日は歯磨きと洗面をして自由時間、そして眠る。
私は誰なのだろうと考えることも少なくなった。時々ふゆさんを思い出す。私のことをわかってくれた唯一の人だから、宝物の思い出。
「砂川さん、面会の方が来たので、面会室へ行きますよ」
帽子に二本線がついているのは婦長さん。私を呼びに来た。婦長さんが私のところへやって来たのも、面会人も初めてのことだ。
「あなたの命の恩人の花村さんのこと知っていますよね。その奥様が来てくれたのよ」
「命の恩人の花村さん」って、初めて聞いた。私を助けてくれたのは花村さんという人で、面会に来たのは奥様。何もかもが初めてのことばかりで、頭が痛くなった。このところ治まっていた頭痛なのに。
婦長さんの後ろをついていくと、遊戯室の奥の面会室に、女の人が座っているのが見えた。一生懸命何かをしている。
部屋に入ると女の人は飛び上がって立ったように見えた。
「砂川さん、この方が、花村さんの奥様よ。あなたに会いたいって来てくださったの。ご挨拶してください」
私は奥様を見た。私より少し背が高い。頬が高く、目がぱっちりして、なんだか元気そうに見える。視線を合わせた。薄茶色のきれいな目だ。
「初めまして、今日は」
笑顔で言ってくれたから頷いた。
「持っていらした下着のことなど、砂川さんに話してあげるといいと思いますよ。帰る時は詰所に声をかけてください」
そういうと婦長さんは部屋から出て行った。奥様は困ったように手を振り回していたけど、何に困っているのか、私にはわからなかった。
「座りましょう」と言ってくれたので前の椅子に腰かけた。初めての人に会っているのに先生と面談するほどには固くならなかった。きっと笑顔が優しいからだと思う。
両手を膝に置いて、とりあえず机の上の白い服を見た。
「私は女の子がいないし、あなたの好みもわからなかったので、白ばかり買ってきたの。下着は替えがあったほうがいいと思って。どう?」
多分、私は頷いた。新しい下着を私に買ってきてくれたということ? 本当?
「でもハンカチや、靴下はいろんな色があるから、迷ったわ」
奥様は白い下着をよけて、黄色、桜色、水色、黄緑色の四枚のハンカチと、白に赤や紺色の線が入った靴下4枚を、私の目の前に広げた。
「婦長さんが名前を書いた方がいいというので、カタカナで、できるだけ小さく書いたのよ」
奥様は靴下の裏側やハンカチの隅を見せてくれた。
「あまりうまく書けなかったの。ごめんね。今度持ってくるときは、糸で名前を刺繍して来ようと思っているわ」
奥様がまた、まっすぐ私の目を見た。こんな風に私の目をじっと見るのは先生たちだけだ。
隣の部屋でガタガタと音がし始めた。麻雀を終わって片付けている。終わるとみんな一列になって遊戯室から出ていった。奥様に目を戻すと、私と同じようにみんなを見ていた。一人一人を見ている。奥様は、こんな風に誰をでもまっすぐ見るのだろうか。
「そうそう、雑誌も持ってきたのよ」
奥様は、みんなから目をそらし風呂敷の中から本を出した。表紙の絵は桜の花に囲まれた女の子だった。くるりと回して私の方へ向けてくれた。
表紙を眺めた。懐かしい気持ちが沸き上がってきた。見たことがあるような感じ。奥様を見ると、その眼差しは嬉しそうで恥ずかしそうだ。何故だろう。
「福子さんへのプレゼントよ。うちは男の子しかいないから、冒険王しか買ったことがなかったの。ちらっと見たけど、面白そうね」
その言葉で気持ちがわかって思わず笑った。女の子がいないと買わない。
奥様は手を差し出して「どうぞ」といった。私は恐る恐る指をあてて表紙を開いた。そこからは、我を忘れてページを捲った。ページが進むにつれて、物語の中に引き込まれた。半分ほど進んだ時、はっとして奥様を見た。何故かとても懐かしい女の子の雑誌、これを私に?
「裏表紙に、スナガワフクコって書いておいたから、お部屋へ持って帰っても大丈夫よ」
私は嬉しくて、思わずゆっくりと大きく頷いた。
「私の名前はカタカナでフミ。花村フミです。縁があって知り合えたのよ。仲良くしましょうね」
やっと名前がわかった。花村フミさん。
「また来るわ。何か必要なものがあったら、考えておいてね」
フミさんは、詰め所の看護婦さんに手を振った。立ち上がって私の肩に手を置き、優しく撫でてくれた。手のひらから温かいものが流れ出て、私の身体に入り込んできた。
「また会いましょうね」
フミさんが看護婦さんに送られて、面会室を出て玄関へ廻っていく間、私は雑誌を胸に抱きガラス窓越しに姿を追った。肩はまだじんじんと温かかった。
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