長編小説 みずみち

阿賀沢 周子

第1話


 砂川市消防団分団長の花村圭二郎は、団員の加藤勝と空知川と石狩川合流地点の河川敷へ向かってワゴン車を走らせていた。昭和43年11月の晦日、長い冬がはじまりつつある午後、加藤が運転し花村は助手席に座っていた。


 花村の職場海北信用金庫へ、昼休みに団員仲間の柿崎誠一から電話が入った。空知太の遠戚の団員が石狩川沿いを車で移動している時に、窓から河川敷に人か物なのかよくはわからないが、いつもそこにはない白い物体を見たらしい。警察か消防に話したほうが良いか、と相談を受けたのが昼少し前だという。

 柿崎は花村と同い年の飲み友達で、地元の公立病院の事務長をしている。

「だいぶ遠くから見たようだし、本人は車を停めて確かめていないので、大袈裟にしたくないと言っていた。無視するにはものが人の形に見えて気になったという。はっきりしない情報だけど、市内らしいから放置するのもなんだし。警察よりお前の方が頼みやすくて……」

 その団員が見たのは、合流地点沿いを通ったなら道道227号線から延びる堤防の間道だ、と頭の中の地図で確かめた。

「昼飯を食べたら定例パトロールへ出るから真っ先に廻ってみるよ。どの辺だ」

「合流地点へ向かって石狩川沿いを北上して、鉄道高架橋の500m手前辺り、道路から数100m入った河川敷だそうだ。マネキン人形だったら済まない」

「人でないほうがいいさ。通報者の電話番号を教えてくれ、詳しく訊きたい。結果は知らせるよ」

 11月は、降雪前の防災パトロールがある。分団ごとに都合して二人一組で、年4、5回定例パトロール、その他必要時に臨時の見回りをしていた。

 昼の休憩後、花村は信金を中途退勤して砂川市消防署内にある消防団の詰所へ入った。消防署は国鉄砂川駅から500m程北側にあり、花村の職場から歩いて10分かかった。

着いてすぐ河川敷経由で廻ることを報告するため、団長の甘利を探した。甘利は消防団の常勤で消防署の無線室に詰めていることが多いが、電話すると昼の休憩で外出してまだ帰署していないと無線室の隊員がいう。

「自宅に戻ったとすると早くても2時くらいに戻ると思います。いつもそうですから」

「わかりました。花村はパトロールへ出たと伝えてください」

 詰所で黒いコートを脱ぎ、消防団の黄色いアノラックを着込んだ。加藤はすでに詰めており、石炭ストーブに塊炭をくべている。通報者への連絡を頼み、消防無線を積み込んだワゴン車を車庫から出した。いつものように毛布や救急箱を確認し、無線のテストをした時、甘利はまだ帰っていないとさっきの隊員が応じた。

 加藤は砂川市の三砂町にある老舗の酒屋『丸加』の四代目だ。今年の新人団員で、痘痕が頬に散らばっている柔和な顔付きの実直な若者だった。花村が指導担当でどこへ行くのも一緒だ。


「通報者は伊藤良夫さんといって柿崎さんの義兄の息子さんです。本日の午前10時ころ、車で札幌方向へ走っている時、合流部の体積地に、人かどうかははっきりしない白いものが転がっているのを見たが、先を急いでいたのでそのまま通り過ぎたそうです。しかし、気になって柿崎さんに相談したと言っていました」

 加藤は車内で目撃者との電話の内容を花村に報告した。

「いつもは使わない道路ですが、急いでいたので近道をしたそうです」

「午前10時に見たということは、柿崎に相談するまで2時間近く悩んでいたのか」

 どんより曇った空模様で、昨日3㎝ばかり積もった雪は消えていたが気温は低いままだ。国道12号線を北上し、北光公園を左折して石狩川沿いの砕石道路に入った。川沿いの雑木はほぼ葉を落とし川面が見渡せる場所がところどころにあった。途中、新十津川町の境界が、石狩川をU字に跨いで砂川市に入り込んでいるところにはいる。

「そろそろ目撃地点だろう。ゆっくり走らせてくれ」

 花村は助手席の窓を開け、目を凝らした。合流地点付近はイタドリやヨシが立ち枯れているが見通しはきく。速度は一杯一杯遅かったが、白いもの、人らしきものは発見できなかった。陸橋の下で逆戻りした。鈍色の雲がますます厚くなり、また雪になりそうな空模様だ。

「勝、車を停めてくれ。通報者は札幌へ向かう途中で見たと言っているから俺は後部座席に移る。今度はローでもっとゆっくり行け。お前も目を配れよ」

 交差するのも難しいほど細い間道だが、対向車の通行はほとんどない。2、3度エンストさせながら遅々と進んだ。

「白いもの、見えます」

 間もなく加藤が素っ頓狂な声を上げ急停車したため、花村はつんのめって左肩を打った。緩いカーブの直前だ。二人は車を降りて路肩に並んで立った。

「どこだ」

 花村には何も見えない。ヨシの枯れ穂が並んだ隙間に灰褐色の河原が見渡せる。視力が低いわけではない。身長は加藤の方が少し高い程度で大差はなかった。加藤は左右に動いて車窓から見えたものを探した。

「あそこだ。分団長、ここに立ってください」

 加藤が動いた後に立って川べりに目をやると、確かに300mほど先の白っぽいものが目に入った。横に倒れた白いものは人のように見えなくもない。車を走らせながらよく見えたものだと感心した。

「確認に行くぞ」

 花村が先に立って枯れたイタドリを手で押し分け、長靴で踏みしだきながら路肩から降りていくと、目当てのものは見えなくなった。川の流れる小さな音を頼りに方角の見当をつけて、近づいて行った。ヨシ原をかき分けていくのは、結構骨が折れた。水の流れる音がはっきりが聞こえてくるようになり、いきなり視界が開け玉砂利の上に立った。

「分団長、あそこ。人だ」

 加藤が指さす上流の堆積した砂地と空知川の縁に、白いものは後ろ向きに横たわっていた。二人は走って側に寄る。白い肌着に紺色のズボンをはいた女だった。あお向けにして肩を揺さぶり、頬を叩くが反応はない。頸動脈を探したが脈が触れない。胸に耳をつけると、風の音や川音に紛れぬかすかな響きがあるような気がした。体は冷えきって、顔は白く唇もその周りも紫色になっていた。黒い髪は短く切られ頭に張りついている。

「勝、人工呼吸。俺は胸部圧迫をする」

 女の腹を跨いで両手で胸を押し始めた。加藤は、実際の人間に人工呼吸をするのは初めてだ。団員になった当初、札幌の消防学校で4日間の研修を受けて任務に就いたが、学校では心肺蘇生の理屈を聴き絵図を見ただけだ。花村にタイミングを指示されながら、無我夢中で吐息を吹き込んだ。

加藤の人工呼吸と交互に、10分くらい押したところで、手を止めた。

「どうだ」

「わかりません」

 再び胸部を圧迫する。加藤は首の脈を見ながら、口元に顔を近づけ息を確認している。

「顔色が少し良くなったように見えるが。勝、ダメか」

「自分の指が冷たくてはっきりわかりません。分団長が脈を見てください。僕が胸押します」

 場所を入れ替わり、花村は首の両横を人差し指と中指で触るが、確とした脈は触れない。二の腕、手首、どこを触っても脈拍はなかった。かすかな響きと聞こえたのは錯覚か。

「よしもうひと踏ん張りしてみよう」

 加藤が胸を押しはじめる。今度は花村が女の顎を強く引き上げ息を吹き入れる。更に10分ばかりたった頃、先刻より口の周りに薄く赤みがさして見える。こちらの体温が移っただけだろうかと、口元に自分の眼を近づけてみた。結膜に刺激があって思わず瞬きをした。呼吸かもしれない。

「勝、ちょっとやめ」

 もう一度眼を口元に近づけると、やはり吐息が感じ取れた。胸に耳を当てると弱いが心拍がある。頸動脈を両手ではさむと、今度はかすかに脈打っているのがわかった。加藤が同じように確認する。

「生き返りましたね」

 興奮で加藤の声は裏返っている。心臓マッサージをし続けた頬は赤く斑で、額に汗が滲んでいた。

「勝、車へ戻って救急車を手配してから、毛布を持ってきてくれ」

 加藤は「了解」の言葉と同時に動き出し、時々ヨシに引っ掛かりながらも、すごい速さで車に駆け戻っていった。

 アノラックを脱いで女に掛け、その上から身体をごしごし擦った。女の唇はまだ紫だが色は薄くなっている。よく見ると頭の中から右額にかけて10㎝ぐらいの裂傷があった。血は止まっているが、一部分濡れているような暗赤色だ。


「救急車手配しました。10分かからないで来るでしょう」

 備品の重たい綿毛布を2枚広げ、2人で女を抱え真ん中に乗せてくるむ。その上から体を摩り続ける。

「若いですね。流されてきたのでしょうか」

「空知川からだと、滝川、赤平か。石狩川だと滝川、深川ということになるか」

「雨竜川ということもあるかも」

「水量が多くない時期だからここに留まったのかもしれん。どこから来たかは警察が調べればすぐにわかるさ」

 遠方から救急車のサイレンが聞こえたと思う間もなく、ワゴン車の傍に点滅する紅いライトが見えた。

 加藤が「こっちだ」と大声をあげて両の手を振る。合図を何回か繰り返しているうちに、白い担架を抱え紺色の制服を着た消防隊員2人が小走りでやってきた。花村は、年配の相馬とは顔見知りだった。

「発見当初、心肺は停止。呼びかけに反応はなし。蘇生20分位で微弱だが脈と自発呼吸が戻った。頭部に外傷あり。血圧が下がっているのか、出血はない」

 花村の報告を聞きながら若い隊員が、酸素マスクを取り出して女の口に当てた。消防の毛布でさらに包み込むと相当な重さになった。搬送中の落下を防ぐためにロープで体を担架へ括りつけた。酸素ボンベは女の足元に置く。加藤と相馬の二人が前の持ち手を、後ろは若い隊員が一人で受け持つことにして三人で声を掛け合って担架を持ち上げた。花村は隊員の荷物を全部抱えて、足元を確認しながら後ろをついていく。途中で振り返り、ピンネシリとの位置関係を確認し女が倒れていた川べりを目に刻み込んだ。

『どこから流れ着いたのか』

 間道へ上がるところでいったん担架を置いた。3人とも呼吸が幾分荒くなっていた。花村は荷物を置いて4人で担架を道路へ曳き上げることにした。女から酸素をいったん外してボンベを間道へ上げた。頭側から揚げるために担架の向きを変え、掛け声をかけて押し上げた。

 毛布にくるまれた女は、再び酸素マスクをするため頭を持ち上げられると、首はぐらぐらとして頼りない。真っ白な頬には薄らと紅が差し、今更に若い女の顔が現れていた。


 救急車の後ろをついていくが、速度違反が出来ないため北光沼辺りで完全に離された。加藤は初めての体験で気持ちが昂り、車中でずっと多弁だった。花村は、落ち着かせるために消防署のそばで車を停め、休憩をとるように言い渡した。30分後に詰所で待ち合わせ、パトロールを再開することにした。加藤は不満げに鼻を鳴らしたが何も言わずに車を降りた。総領の何とかで素直で気が良いのが取り柄だ。

 花村が砂川市立病院に到着したとき、女はすでに救急玄関から運び込またのだろう、救急車の後ろ扉は開け放しで空だった。救急玄関の下駄箱でスリッパに履き替えて中に入ると、若いほうの隊員が担架と酸素ボンベを抱えて濃い緑色のリノリウムの廊下に立っていた。横のガラス戸の上に外科外来と書かれた札が下がっている。

「分団長、お疲れさまです。要救護者は外科外来に収容されました」

 ボンベを下に置いて花村に敬礼をした。丸眼鏡の奥から好奇心がのぞき見え、口元をもぞもぞさせている。丁度、相馬が毛布と書類を抱えて診察室から出てきて、花村に気づき頷く。

「お疲れ。あの子、助かればいいですね。毛布をお返しします」

 書類ごと毛布を渡され、相馬は書類だけを手に戻した。

「我々は引き揚げますが花村さんはどうするのですか」

「団長へ報告書を出して、パトロールに戻ります」

 相馬は、敬礼をして事務室へ入り、若い隊員は救急車へ戻っていった。受け取った2枚の毛布は、濡れた綿と雪の臭いがして重たい。

 消防団にはもうすることがない。救助のいきさつを書類にして、甘利に届ければこの仕事は終わりだった。警察に照会する件も病院と消防署が手配するだろう。消防団としての立場はともかく、救った女が今後どうなるのかは気になるところだ。

 相馬が入っていった事務室の扉から柿崎が出てきた。

「ワゴンが見えたから来ていると思ったよ。ホントのことになってしまったな。患者は外科が診ている。今は、てんやわんやだよ」

 柿崎は高い頬骨から顎にかけて、髭剃りが下手なのかいい加減なのかいつも疎らに髭が残っている。右の指で伸びた髭をいじるのは癖だ。リノリウムの上で、皮サンダルの右足先をトントン叩いているのも癖で、座っている時は貧乏ゆすりになる。以前、花村が柿崎の気ままな独身生活が癖を定着させたと揶揄すると、どの癖も気持ちを落ち着かせてくれると本人は暢気だった。

「俺はこの件の報告書を提出してからパトロールを再開する。終了後もう一度寄ろうと思っているが」

「当直外来は早坂先生だから、様子を聞いておくよ。消防の報告を小耳にはさんだけど、蘇生させたそうだな。お前に頼んで正解だった」

 外科医早坂は、この4月に配属になったまだニキビが残っている北大医学部の研修医だ。若いが腕は良いという評判で、人柄も親しみやすく気さくだ。

 柿崎は事務室に戻る前に、花村に向かって右手の親指と人差し指を丸め飲む仕草をした。小さく頷いて返し病院を後にした。

 花村が詰所に戻ったのは午後3時を過ぎていた。規定の報告書を作成していると、勝が大判焼きを買って戻ってきた。

「熱々です。食べませんか」

「俺は甘いものは苦手だ。勝は酒屋で甘党か。結構酒も強いから両刀遣いということか」

 詰め所のストーブの上に置いた薬缶が音を立てている。大判焼きをくわえたまま加藤が立って茶を淹れようとするので、替わって小さな食器棚から焙じ茶をだして急須にいれ、湯をそそいだ。食器棚の横の小窓からは灰色に暮れ泥む住宅街が見渡せる。まだ雪にはなっていなかった。

「残りのパトロールを終わらせたら、病院へ寄って様子を見ようと思っている」

「気になりますよね。残念ですけど僕は店番があるので行けないです。あの人を助けて、なんか、トンボのこと思い出しました」

「トンボ?」

「秋になると道端に落ちているトンボを、掌に載せて息を吹きかけたら、蘇って飛ぶことがありますよね。あれです」

 加藤は花村の眉間に皴が寄るのを見て、湯飲み茶わんに眼を落し、熱い茶を飲み込み噎せた。

「勝、それ以上言うな。今回のことは他言無用だぞ。出発するから早く食え」

 花村の注意に頷きで返し、4個の大判焼きをあっという間に平らげた。舌を焼いたのか茶に水を足して飲んでいる。満ち足りて興奮が治まりいつもの加藤に近くなった。先刻反抗的に鼻を鳴らしたことは全く後を引いていない。食べ振りも、気持ちが落ち着いたのも、女をトンボに見立てた分別のなさも、若気だなと一人納得して報告書を仕上げた。


 パトロールへ出る前に、消防無線室にいる甘利へ報告書を提出しに行くと、見るからに機嫌が悪いのが見て取れた。傍によって書類を甘利の前に置くまで振り向きもしない。肩で息をするたびに突き出た腹が机の縁にめり込むのが見える。

「合流地点で発見した女性の報告書です。早い方が良いと思い持ってきました」

 甘利は見栄や妬みに動かされ、感情の起伏が激しくて子どものような行動をすることがあった。消防団は地域の自治組織だから、甘利の言動に立腹して退団する若い者もいる。普段被害を受けるのは、直にやり取りをする分団長や長年消防団にいる強者だから、やり過ごされて甘利は団長の立場でいられるのだった。よほどのことがない限り、甘利の立場は動かない。

 今日は何が気に入らないのか。パトロール時間が少ないのもあり慮るのもばからしく、部屋から出ようとすると甘利が呼び止めた。

「蘇生したのは知っている。無線で聴いていたからな。よくやったと言って欲しいかもしれないが、パトロールの道順決めてあるだろう。変えるなら上司に報告してからにしてくれ」

 話すに連れて、口角から唾が飛ぶほどの勢いになっていく。同じ無線室の隊員がいたたまれず、外していたヘッドホンを装着した。

「不在でしたが」

「少し席を外しただけだ。書置きを残すとか、事務方に伝えておくとか方法があるだろう」

 無線で知ったということに腹を立てているのが分かり、確かに団長という立場はないなと考えた。今後そうする、と言おうとした時、部屋の電話が鳴った。怒りの矛先を収めて甘利は電話に出た。

「消防団長甘利です」

 受け答えを聞いて、警察署からの電話だと分かった。

「いやなに、我々はいつも切磋琢磨していますから」

「お褒めにあずかり光栄です。今後も団の取りまとめに最善を尽くします。ありがとうございました」

 顔つきがにやけて、先刻と豹変した様子は解かりやす過ぎて腹を立てる気にもなれない。

「報告書を急ぐそうだ。私が届ける」

 木で鼻を括るということを体現して、報告書を手にして振り払うようにふくよかな手を動かした。出て行けというのだ。


 豊沼までの住宅街の区画と、線路の東側と西側をパトロールして、吉野を回って戻った頃は真っ暗になっていた。加藤は、後ろ髪を引かれているのか渋々帰宅準備をしている。

「あの件で何かわかったら教えてください」

 初めての人命救助は強い印象に残っただろう。パトロール中も何かと、女がなぜあそこにいたのか何があったのか、想像をたくましくしていた。帰り際もう一度「女については他言するな」とくぎを刺したが、話すほどに興奮がよみがえり、このまま返していいものか心配になるほどだった。

 経験で成長するといっても、こんなことは滅多にあるものではない。心肺蘇生自体が導入されてまだ10年たっていない。花村は、消防団2年目で分団長に昇格したとき、札幌市消防学校の幹部研修の実習で学んだ。学校敷地のすぐそばの明治時代に作られた人工河川新川を使って、子供が溺れたという設定で救助方法とアメリカの蘇生用の人形を使った口対口人工呼吸と胸部圧迫を体験した。

 砂川の現場では、石狩川と北光沼を抱えた地域だということもあって、何回か溺れた人間の蘇生行動をしたことはあるが、救命に結びついたことはなかった。


 パトロールを終えて詰所に戻ると甘利からの伝言が机の上にあった。

『戻ったら連絡を下さい。無線室に居る』

 報告書が不備だったのか、と電話をした。

「今日はご苦労様でした。さすが分団長、柿崎君の話だと女の子は助かったそうだ。用件だが、警察が一度概況を聴きたいといってきた。どこから流れてきたのか検分することになる。女の子の捜索願が出ているかもしれんから、ということだ」

 不機嫌が影を潜めると、おもねるような口調になのはいつものことだった。

「分かりました。担当は誰ですか」

 すぐに返事がなかった。何かまずいことを言ったのかと自分の言葉を思い返していると、荒い鼻息とともに「行けば分かる」と言うなり電話を切られた。

 受話器に向かって了解したと呟いたが、腹立たしい思いが残った。時間の無駄を省くために互いの報告には、いつだれが何をという基本を忘れるなというのは甘利の一家言のはずだ。

 砂川警察署は、国鉄砂川駅をはさんで消防署の南側、2.5㎞先にある。花村は女がどうなったのかが気になり、一刻も早く病院へ戻って、柿崎から話を聴きたいと思っていた。加藤の興奮ぶりを心配している場合ではないなと苦笑しながら、警察署へ向かった。

 砂川署に着くと玄関の横にワゴンを停めた。所内はひっそりとしており、受付の窓が締め切られている。窓を引き開けて奥へ声をかけると、もぐもぐ口を動かしながら若い巡査が出てきた。立場と要件を伝えても意味が解らないのか曖昧な眼付で花村を見、口の中のものを飲み込んだ。

「誰か、上の人はいませんか」

「川で見つかった人の件で、市立病院へ行っています」

「私が言っているのはその件ですよ。担当は誰ですか」

「自分は聞いていません。病院へ行ってください」

 内心、やれやれ今の若いものはどんな教育を受けているのかと溜息をついた。もう少し気の利く人間を巡査にしてくれと言いたい気分だったが、自分が年寄りのような考え方をしているのに気づいて苦笑した。

 再び国道12号線を消防署まで戻り、ワゴンを車庫に入れて徒歩で病院へ向かった。駅から西へ進むと、途中下り坂になっている。右手の八百屋と肉屋の明るい店内に数人、仕事帰りと思しき買い物客がいた。揚げ物の油の匂いが漂ってきて、花村は空腹を覚えた。


 砂川市立病院は下り坂が終わると左手にあり、正面からは見た目2階建ての建物だ。その奥には川の堤防に沿って平屋の精神科病棟がある。敷地全体が、歌志内市の辺毛山から流れてくるパンケウタシナイ川に囲まれて建っていた。今は穏やかな清流だが、春は雪解け水で勢いが増し急流になら、西豊沼へ下って石狩川にそそぎ込む。

 先刻、救急車が乗り入れた救急搬送口に常夜灯が瞬いていた。病院玄関は駐車場をはさんで正面にあり建物は全体が腰高で、駐車場も緩やかに上り坂になっていた。地下部分は実質1階で、厨房やランドリー、職員風呂、霊安室などになっている。駐車場の真ん中に1本立っている外灯は歩行者にとっては幾分小暗い。

 車寄せに、エンジンの掛かったパトカーが1台停車していた。空いた窓から、たばこの煙が漂っているのが、玄関の明かりに反射してぼんやり見える。


 正面玄関を入り、まっすぐ柿崎のいる事務室に向かった。扉を開けると丁度、柿崎が右奥の外来につながっている扉から入ってきたところだった。花村を認め近づいてきた。

「警察の担当者と話をしなければならない」

「外科病棟で早坂先生と話しているよ。階段を上がって2階の左側だ」

 待合室の奥の階段を上がって左へ進む。壁のパネルには右側は内科病棟と書いてあった。廊下の真ん中ぐらいにガラス張りの看護婦詰所がある。その中に、警察の制服の黒いジャンバーを着た大柄の男が、早坂だろうか若い白衣の男と立ち話をしているのが見えた。

 すぐに入るのはためらわれた。男が出て来るのを待ち、病室を出入りする患者や看護婦を見るともなしに眺めていた。夕食が終わったのか、廊下の配膳車に膳を下げに来る患者が何人かいた。

 

 体格の良い警官が詰所から出てきた。花村は初対面だった。金融関係は転勤が多いが、警察官も転勤の頻度が高い。消防団の関係で見知っても、いつの間にかいなくなる。

「私は、砂川消防団の花村と言います。団長から、連絡を取るように言われてきたのですが」

「ああ、発見者の花村さんね。ご苦労様です」

 男が敬礼をしたので花村も返す。男は佐藤警部補と自己紹介した。威圧感のない喋り方で、雰囲気は制服を着ていなければどこにでもいる中年男だった。

「本日はもう暗いので、明日一緒に現場を検分したいと思いまして。何時ごろ都合いいですか。警察車両で迎えに行きます」

 手に持った手帳を開きながら、思い出したように「海北信金でしたね、勤務先」と続けた。自宅住所は把握していないようで花村に尋ね、手帳に記入していた。

「では昼休みどうでしょうか」

 今日半日職場を空けたため、明日は書類が山ほど溜まっているだろうと考えて言うと、佐藤は困ったような顔つきになった。

「できるだけ早く近隣に問い合わせたいので、出来たら午前中に」

 最初からそう言えばよいのにと思いながら、明日の予定を頭の中で組み立てる。

「それでは職場の朝の打ち合わせが終わるのが9時ですので……」

というと佐藤は悠長に首を振る。都合を聞かれたわけではなかったのだと急に気付いた。若者が二人の後ろを通り、白衣を翻して軽やかに階段を下りて行った。

「仕事が始まる前の6時にしますか。私も早い方がいいです」

 考えてみれば、早朝一番に現場を確認して、近隣の警察へ問い合わせるのが順当なのだ。佐藤の親しみやすさに惑わされたわけでもないだろうが、自分が事態の重要さを見失っていたのは確かだ。

 佐藤はまたしてもゆっくりと首を振り、困ったものだというように眉間を上げて見せた。花村はこれ以上どうしろというのだとむっとして、思わず顔をそらした。外科病棟の廊下のベンチソファーで患者が2人、食後の一服をしている。

「明日、7時にお宅へ迎えに伺います。信金の始業に間に合うようにお送りしますから」

 再度敬礼して佐藤は階段を下りて行った。花村は恥じ入って顔が赤らむ。むっと顔が出てしまったのは疲れているからだと、自分を慰めしばし立ち止まっていた。

 気を変えて患者となった女を一目見たいと看護婦詰め所へ行きかけたが、思いとどまった。加藤のような好奇心めいた感情ではないが、自己満足ではという後ろめたさがあった。無事を確認したいが、家族ではないのだ。

 階段を下りていくと柿崎が、待合室で待っていた。

「早坂先生が外科外来で仕事をしている。会ってみるか。了解は取ってある」

「様子が訊けるのはありがたい」

 柿崎は黒革のサンダルを引きずるように前を歩く。廊下を回って外科外来へ行った。外来のカーテンをくぐり、中の扉をノックすると、「はい、どうぞ」とすぐに返事がある。

 診察室の中は、診療時間内とは様子が違っていた。机や椅子の上にカルテやレントゲンの袋を拡げ、電気が点いたパネルに何枚ものレントゲン写真が下がっている。先刻の白衣の若者が早坂だった。二人分の椅子を開けるために、椅子の上の書類を診察台の上に移している。柿崎が「患者さんを救助した花村分団長です」と紹介すると早坂は手を止めず軽く頭を下げた。

「忙しいのにすいません」

 思わず出た言葉だったが、片づけに手を出すとどこに何があるか分からなくなり、かえって邪魔をすることになるかもしれないと思い、椅子が空くのを待った。カーテンをしていない窓辺は真っ黒で、くまなく室内を写している。

「忙しいというわけではないです。家に帰ってもすることないから、カルテ見ているだけ」

 そう言って人懐っこい笑顔を柿崎に向けた。笑うと両の頬が少しくぼむのがわかる

「早坂先生は、いつも外来で勉強しています」

「事務長に飲みに誘われないときはね。柿崎さんの飲み友達だそうですね」

 また笑う。人を惹きつける温かな笑い声だ。花村を見てどうぞと椅子を指す。柿崎はその横に座った。

「患者さんは名前がわからないので、病院では便宜上、砂川福子さんと呼ぶことにしました。警察の方にも伝えてあります」

「水から生き延びたからミズエとか言ってる声もあったけど、可哀相と早坂先生が福子にしたんだ。回復の復ではなくて幸福の福」

 まだ意識が戻っていないのだと想像した。

「この名前は少しの間のことですから。ところで、花村さん、救命成功したのは素晴らしいことです。病院でも、救急ABCが定着していないところがたくさんあるのに」

 救急のABCという言葉は研修で習ったが、病院で定着していないところがあるというのは意外だった。

「私は6年前に札幌で教えてもらいました。消防団としてはまだまだです。いろいろ難しいです」

「消防は進んでいると感心しました」

「できる範囲でいいですが、患者さんの状態は教えてもらえますか」

 花村は一番気になることを問うた。

「意識はまだ回復していません。低体温の方は少しずつ戻っています。外側からと中から温めていますが平常体温に戻るには時間がかかります。バイタルサインは少しずつ戻ってきています。それと、低酸素症予防のために酸素テントに入っています」

 中から温めるということはどういうことかと花村は訊ねた。

「点滴をほんのちょっと温めて入れるのです」

 早坂医師は言いながら、散らかったレントゲン写真の整理を始めた。じっとしていられない性格のようだ。長居は出来ないと分かっていたが次々聴きたいことが出て来る。

「頭のけがはどうですか」

「16針縫いました。皮膚は挫滅状態で、結構強く何かにぶつかったと思います。頭蓋骨骨折はなかったので、後は中で出血していないと良いのですが。と、今の段階では大体こんなところです」

 丁寧に説明を受けるほどに、容態の深刻さが理解でき、砂川福子が不憫になってきた。早坂の口調に、そろそろ引き上げなければと思いながらも訊いてしまう。

「年齢は何歳くらいですか」

「推定15歳かな。歯の具合や、骨盤、皮下脂肪の感じから言うとね」

 まだ聴きたいことはあったが、立場的には何の権利もない。礼を言って柿崎と診察室を出ようとしたときに、早坂が呼び止めた。

「そう、これは私の考えですが、レントゲン上、肺に水はなかったので砂川さんは川に落ちた時点か、すぐ後で頭を打ったと思います。それで意識を失って、流されて溺れずに済んだということです。低体温が幸いすれば、意識が戻ると思うのですが。もう少し発見が遅れたら間に合わなかったかもしれない」

「すみません。それはどういう意味でしょうか。低体温が幸いするというのは」      

 冷たくて柔らかい唇の感触をまざまざと思い出した。

「つまり、体に必要な酸素が少なくて済んだということです。意識が戻ってみなければ、何とも言えません。脳がどの程度のダメージを受けているかは」

 早坂は話し終わって再び書類に向き直ったので、再度礼を言って部屋を出た。

 外来の廊下は足元灯と小さな常夜灯だけになっていて静かだ。待合室は暗いが、病棟のある2階はまだ明るく、人の話し声が聞こえている。

「俺の仕事は済んだ。行けるだろう」

 長かった1日の終わりを柿崎と過ごすのが嬉しくて笑顔を返した。

 柿崎は職員玄関へ回り、花村は正面玄関へ向かう。脱いだスリッパを下駄箱に戻した時、横の公衆電話が眼に入った。妻のフミに連絡をしておこうと、ポケットを探り小銭を出す。

「俺だけど、今日は柿崎と飲むから夕食はいらないよ」

「いつも言うけど、もっと早く連絡下さると嬉しいのよ。夕飯の準備の前が最良」

 フミはいつもと同じことを言って電話を切った。怒っているわけではない。接待で遅くなることが多い仕事柄、不在に慣れ切っていた。その上小学校の同級生だったということもあり、思ったことをストレートに言い合うのは互いに普通のことだった。中学生の男の子が2人いるので、食べ物が余って困るということもない。

 外へ出ると柿崎が、職員玄関から廻ってやってきた。空気の透明感が増したのが、街灯の瞬きでわかる。日暮れと共に気温がぐんと下がったのだ。2人で並んで駅前へ向かう。

 花村が、札幌から空知地方の海北信金の拡大のために滝川市に赴任したのは10年前。2年後に砂川支店の立ち上げで移動し、地元での顔つなぎと、会社としての奉仕活動も兼ねて消防団員になったのも同じ頃だ。すでに団員だった柿崎とはそれ以来の付き合いだ。 

 出た大学は違うがどちらも経済学部卒業で同い年だ。裏表がない上にあまり無駄口を言わないところも似ている。柿崎はいわば不愛想な男、花村はかなり温和な方だ。特に、柿崎は地元出身だが、花村とは仕事上の関わりが一切ないのが良かった。


 砂川駅に向かって右側、線路沿いの通りは、150mほどの飲み屋街だ。2人がいつも行く焼鳥屋『串いち』は、通りの中ほどにある。古くて裂け目の入った大きな赤ちょうちんが、北風に揺れていた。柿崎が引き戸をガラガラと開けると「いらっしゃい」と煙の向こうから店主の活きのいい声が聞こえてきた。夫婦でやっているL字のカウンターに15席だけの小さな店だ。カウンターに面して大きな炭火のグリルがあり、換気扇に煙が吸い込まれていた。サラリーマン風の先客が3人、焼肉を肴に日本酒を飲んでいた。奥の角を過ぎた席に腰を据える。

「今夜も降るかもしれない。かなり冷えてきましたね」

 おかみが突き出しの小鉢を2人の前に置きながら言う。

「焼き鳥盛り合わせとビールで始めますか」

 揃って頷いた。いつも、2杯目で日本酒に変わり、漬物と、季節の焼き魚、日替わりのおかみの煮物。最後はお茶漬けというのが定番だ。

 この日の突き出しは、いかの塩辛と大根おろしの和えものだった。柚子だろうか、柑橘の薄切りが上に載っている。

「お疲れ様」ビールで乾杯した。

「お前のお陰で早坂先生と話せてよかったよ。容態が気になるのはもちろんだが、確かに助かったというのは消防団にとっては大きい」

 塩辛をつまみに2人はビールを飲み干した。やはり柚子だった。口の中にさわやかな風味が残った。柿崎はおかみに熱燗を2本頼んでいる。さかづきを開けるピッチはいつも速いが、酒に強く酔った姿を見たことがない。

「あの時、良夫君の相談を真に受けずに聞き流していたら、と思うとぞっとするよ」

「団員から柿崎へ、柿崎から俺へ。お前だから俺に繋いだんだな。必然か、偶然か」

「必然さ。飲み友達だというのが一番大きいよ」

 柿崎は重い話を笑い飛ばして冗談にしてしまった。この話はおしまいということだ。


 店主が、まだビチビチと音を立て、煙が上がっている焼き鳥の盛り合わせを2人の前に置いた。空腹にしみる匂いが充満し、2人同時に手を出した。

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