第6話 予期せぬ招待②
かさつく唇から発せられた言葉は、これ以上ないほどに掠れていた。通常であれば大変無礼なことである。王家の次に高位である公爵に対し、座ったままでろくに礼もとらないなどあってはならない。
でも膝に力が入らず立ち上がれない。本当だったら一目散にこの場から逃げ出したいというのに、一歩も動けない。そうこうしているうちに、公爵は私の隣に近づいてきた。
あ、あ、と言葉にならない声が漏れる。公爵に対する前世からの恐怖と、無礼であると叱られる恐怖から、私は椅子に座ったまま後ずさった。
しかし公爵はそんな私の無礼を咎めることもなく、そっと椅子の背に手をかけた。がたがたとバランスを崩しかけていた椅子が落ち着きを取り戻してしまい、誤魔化しきれず私も慌てて姿勢を正す。
「失礼、驚かせてしまったようで申し訳ない。まさかヅィックラー嬢が私をご存知とは思わなかったもので、取次ぎもなく押しかけてしまった」
「え……あ、はい……い、いえっ」
「不躾なのは承知しておりますが、少々、お相手を願えませんか?」
「な!」
なんでしょう、という声はおそらくとんでもなくひっくり返っていただろう。その証拠に向かい側の椅子に腰かけようとしていた公爵は目を丸くして動きを止めた。切れ長で鋭い目つきだったのが一瞬だけひどく幼くなった。
幼い、といっても公爵はたしか私より二つほど年上だったはずである。私が処刑されたときは確か二十七、八であの当時はご婚約されていたはずなので、現在は二十二歳とか二十三歳くらいか。それであれば、あの頃の顔つきよりまだ若く幼い感じがしてもおかしくはない。
そう考えるとやっと私の体から力が抜けた。
そうだ、私は今聖女でもなければ王子の婚約者でもない。年齢が近い王子の側近だったこの公爵とは縁もゆかりもない状態だ。いきなり取って食われることもないのだ。
でも、と私は首を傾げた。知りもしない一学生である私に、公爵はなぜ声をかけてきたのだろう。
「大変ご無礼を致しました。エルネスタ・エマ・ヅィックラーでございます、ヴォルフザイン公爵閣下」
「ああ、楽になさってください。学生の卒業に伴う祝賀会で非公式の場ですし、しかも貴女は今夜の主役の一人ですから」
「お心遣い、ありがとうございます……」
涼やかにほほ笑む公爵に対し、座ったまま軽く会釈をして心の中でまた首をかしげる。今夜の主役、というセリフといい、こんなに配慮ができる方だっただろうか。
前世の記憶では王子の側に呼ばれるようになってから出会った方だけれど、常に王子の傍らにいて御前に召された私を毎回ものすごく冷ややかに見つめている姿を強烈に覚えている。身分の違いを弁えろとでも言いたげに、王子に贈られたドレスを着た私を蛇か蛞蝓でもみるような目で睨んでいたっけ。
ほとんど口を利いたこともないというのに、なぜあのような対応をされていたのか今をもって謎である。
が。
これはこれで調子が狂ってしまう。
一体何の用なのだろう。
二人の間に流れるわずかな沈黙すら恐ろしい。
「あの、それで公爵閣下が私に一体なんの御用でしょうか」
二人きりで黙っているという状況に耐えられなかった私は、テーブルの一角に目を落とした。こういうとき、女性の方から口を開いて良いかどうか、それは失礼にあたるのかどうかもよくわからない。
しかし下手をすれば叱られるかも、という私の心配をよそに公爵は特に何を言う事もなく懐から紙を取り出した。テーブルの上に置かれたそれは、彼の胸に輝く公爵家の勲章と同じ紋様が刻印されている封筒だった。
「ここは冷えますし、手短に済ませましょう。ヅィックラー嬢は、明日のご予定はおありですか?」
「い、いいえ」
明日中に寮を出なければいけないが、まだ行先については決めかねている私は首を横に振った。ここにハンナが居れば私が答えるより先に「男爵領へ帰ります」とでも言っただろう。
「ご卒業後はご実家に?」
「いいえ……あ、いえ、まだ決めておりません」
「お戻りにならないのですか? 失礼ですが、ご結婚のご予定は?」
「い、いいえ、そのっ、本当は、一回戻って後日に官人の試験を受けようと思っていたのです。なので結婚は予定していなくてっ、でも、……今年と来年は試験がないと、先ほど陛下がおっしゃっていたので……その」
「試験の件は既に昨年の夏ごろに発表があったと記憶しているのですが」
「え? 本当ですか? あれ?」
私は急いで昨年の夏ごろの記憶を引っ張り出す。何をしていたかと言えばそのころは、卒業論文に関わる研究の真っただ中のはずだ。夏から秋にかけて人の血を吸う小さな虫が人の病気を伝えるのでは、とそこらじゅうの吸血虫を取って腹の中に蓄えられている血液を集めていたような……。
そうか、あれだ。その作業に熱中しすぎて人の話を聞いていなかったんだ。
「お聞きではなかったんですね?」
う、と言葉に詰まった私は頬を押さえてうつむいた。
「では、明日からは」
「……無職、ということに……」
語尾を濁すと、ああ、と公爵は頷いた。そしてテーブルの上に置かれた封筒をぐいっと私の方へと差し出した。
「ならちょうどいい。こちらをお受け取り下さい。我が家への招待状です。明日の昼に、我が屋敷へおいで下さいませんか」
「……え?」
「詳細はおいで下さった際にご説明しますが、大学を首席で卒業した貴女にぜひお願いしたい仕事があるんですよ」
「はい?」
「屋敷の場所はご存知ですか? いや、明日、大学寮に迎えの車をやりましょう」
「ちょ、ちょっと待ってください、一体何のお話でしょうか」
見目麗しく独身の公爵閣下の御屋敷にお招きされる、なんていうのは年頃の令嬢たちからすれば天にも昇るような心地になるのだろう。けれど何の接点もない、田舎生まれの、どちらかと言えば貧乏な男爵家の娘にとっては敷居が高すぎる。
訳が分からないまま招待状を突き返そうとするが、公爵の手はそれを許さずぐいっと封筒が押し戻された。
「大学長や国王陛下より、とびぬけて成績が良い男爵令嬢がいると伺っていたのですよ。稀に見る才女である、と」
「いえ、そんな光栄ですが、でも……」
「そして先程、貴女は明日以降は無職になるとおっしゃった。そんな貴女に一つ、大事な仕事を頼みたいのです」
でも、と見上げれば公爵は不敵にほほ笑んでいた。にやりと口角を上げた公爵の顔は、何か企んでいるような悪戯っぽい表情に見える。
何か断る口実があれば、断れたのかもしれない。
けれど、「仕事」と聞いて私の手は止まった。気が進まない帰省と、おそらく地元に戻ったら繰り広げられる縁談との攻防を、この仕事を引き受けたら避けられるかもしれない。そう思ってしまったのだ。
まだ王都に留まれる。仕事さえあれば部屋を借りることもできるかもしれないし、王都にいれば官人の空きを待つこともできるかもしれない。
私は公爵の手からゆっくりと封筒を受け取った。裏を返すと、ずっしりとした肉厚の封蝋が艶やかに輝いていた。
「そのお仕事、とは……? いったい」
「私には妹がおりましてね。その家庭教師をお願いしたいのです。大学首席の貴女には造作もないことでしょう」
公爵に妹がいたとは初耳だった。家庭教師と聞いて幾分ほっとしている自分がいる。それならばなんとかなるだろう。いや、やらなくてはいけない。
「……かしこまりました。お招きいただき、ありがとうございます。明日お伺いいたします」
受け取った招待状を手に恭しく頭を下げ再び顔を上げると、そこには満足そうな笑みを浮かべる公爵の姿があった。何かを企んでいるのか。不穏な気配が漂っているが断るという選択肢を捨てた以上、腹をくくるしかない。
公爵の短い黒髪が、夜風に煽られわずかに揺れた。風に乗って小さく聞こえてくる広間の喧騒と音楽の中、静かなテラスで柔らかい月灯りに浮かび上がった公爵の姿は妖しげだけれどなぜか美しく見えたのだった。
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