ライラの図書館〜聖典の原書と真面目騎士〜

紳士やつはし

第1話 魔術師騒ぎ

 聖典。

 政治と裏で深く結びつき、実質的に大陸を支配する鐘塔しょうとう教会、その教えを記した書物。

 その中のとある一ページに、こんなことが書いてある。


『そして管理者たちは、それぞれが持つ性質に従って対立し、争いを始めた。この戦いに勝利を収められたお方こそが、我々が尊ぶべき〈主〉である。

 〈主〉は世界を管理する権利を獲得なさると、我々人類から魔性アヴァリウムの穢れを取り除き、神聖なる人性ソムニウムで満たしてくださった。

 しかし、人間にはいまだに僅かな魔性アヴァリウムが残されている。原因は、滅ぶべき〈主〉のかたき、その生き残りがこの世に存在するからであり、そのせいで人は迷い、苦しみ、魔術師へと堕ち、時に醜い獣のように変貌する。

 故に私たちは、魔性アヴァリウムとその元凶たる憎き敵を、決して許してはならない』


 ライラはそこだけ読むと、目を瞑った。長旅に疲れたから、というわけではなかった。

 パタン。

 聖典を閉じると、周囲の喧騒がライラの耳に入り込む。石材と靴底が擦れる音。市場通りの商談や呼び込みの声。遠くの方からは闘技場の歓声。もう少し遠くからは鳥の声が聞こえた。

 ライラは聖典を自分の横に置いた。ちょっと腰掛けて本の一ページを軽く読んだくらいでは、長い長い旅の疲れは少しも癒えなかった。柔らかい椅子ならまだわからないが、ライラが腰掛けているのは、銅像の足元にある石段である。

 ライラは深緑のマントに聖典をしまい、石段に手をついて顔を上げた。

 ゼルべ州名物の大市場通りは大変な賑わいだった。色とりどりの出店でみせと、行き交う大勢の人々の明るさは実に見事だ。しかし、何かおかしい。

 何人かの通行人が同じ方向を見ていることに、ライラは気づいた。それはライラの後方、初代帝王像の向こう側のようだった。

「貴様が魔術師だな」

 人々はざわつき、不安そうな顔で例外なくその方向に視線を向ける。

 ライラは頑張って振り返ると、背筋をぐいと伸ばして台座の向こう側を見た。

 視線が集まる場所には、三人と一人がいた。

「連れて行け」

 後ろの二人にそう指示するのは白いサーコートを着た男。前部にある紋章は鐘塔教会の官吏かんりであることを意味している。

 後ろにいた二人が前に出る。黒いサーコートと軽装の鎧という姿で、腰には直剣をぶら下げている。

「ち、違う! 私は————」

 たじろぐ男性は、茶色の貫頭衣チュニックを着た一見普通の成人男性だ。あっけなく二人に両腕を掴まれる。

 ライラはその男性の姿を見て、小さく息を吐いた。つまり本当に彼が魔術師なのか否か分かったということだが、実際のところそんなのは些細なことだった。もう男性の運命は決まってしまった。

「私は魔術師ではありません!」それでも男性は続けた。官吏の男に向けて必死に訴えかける。「私はただの商人です! たった今も商いをしていただけで……妻と子が居ます……お願いです、正当なご判断を————」

 だが、返されたのは拳だった。

 男性はよろけて尻餅をついた。口の端に血が滲む。

 官吏の男が言った。

「こやつは魔術師だ。主がそう告げられたのだ。そうでなければ、こやつの店だけ異常な利益をあげている説明がつかん」

 まるで、群衆に向けて説明するかのように。

 ライラは人々の視線を見渡した。さっきまでの不安にまみれた視線から一変していた。

 敵を見る目だった。

「そんな……あんまりです……私は今まで精一杯教会に尽くしてきたのに!」

 立ち上がろうとする抵抗意思の顔面に、さらにもう一発。

 男性は倒れ伏した。続けて、横たわった腹に一撃。

 群衆は沸いた。

「殺せ!」

「人間に紛れていた報いだ!」

「魔術師を許すな!」

 ライラは振り向くのをやめると、正面を向いて重い体を起こし、群衆の視線とは反対方向に歩き始めた。同じ方向を見つめる集団の間を異質な少女が縫い、立ち去っていく。でも誰もライラのことを見たりしなかったし、ライラも遠くの地面だけを見ていた。

 殴られた男性は、倒れたまま血液まじりの呼吸をしていた。官吏の男はその胸ぐらをつかんで起こした。

「私の言葉がまだ不満かな?」

 ひどく無感情な声だ。男性はゆっくりと官吏に目を合わせる。抵抗の意思は、明らかに燃え続けていた。

 官吏は鼻で笑い、拳を振り上げる。

 男性の両脇に立っていた二人はその様子を黙って見ていたが、

「なんのつもりだ」

 一人が耐えられなくなり、官吏の腕をつかんで止めた。官吏から圧をたっぷりと込めた言葉が贈られる。

 掴んだのは灰色の髪の青年だった。もう一人は強そうな女上司で、

「おいよせ!」と言葉で制するが、灰の髪の青年は手を離さない。青年の瞳は揺れていた。官吏の方が青年の手を振り払う。

 青年は拳を握りしめ、男性を庇うように腕を伸ばして言った。

「それ以上は、やめてください」聞くと、ライラは少し上に瞳を向けた。でも歩みは止めなかった。

「なぜだ。貴様に指図されなければならない理由はなんだ」

「彼が魔術師だという確証はありません!」

 一瞬、場が静まり返った。官吏は軽蔑の真顔、女上司は目を見開き、群衆はわけがわからないと言うようにこぞって口を開けた。

 何も当然な反応であるが、殴られた男性が異質な反応を示した。彼は数秒間驚きを示した後、拳を握り締めて眉間に皺を寄せ、歯を食いしばった。それは人が怒っている時に示す反応だった。

 それを見ていない官吏は青年を睨む。

「騎士風情が教会に歯向かうか」それから青年の顔をまじまじと見た。「ほう、さては貴様、どっかの武闘大会で群衆を沸かせた例の若造だな?」

 青年も官吏を睨み返した。その名の意味に賞賛はなく、皮肉しかこもっていないことを青年は知っていた。

断罪官イウデクスじゃないあなたは、魔術師の断定なんてできないはずです。貴方がやっているのはただの暴力だ」

 青年の震えの理由は、恐怖や怒りではない。彼は自分が何をしているのかわからなかった。彼は耐えるつもりだった。束の間の正義感よりも大切な正義が彼にはあったから。それは帝国騎士団という立場である。しかし、彼はその大切な正義に反する行動をしていた。

「ほう」

 官吏が言った。凍えるような視線だった。女上司が仲介のために声をあげる。

 だが、

「ちがう」

 先に声を発したのは男性だった。

「ちがう。ちがう。論点がちがう」

 男性はその場に座し、ぼうっと前を見ていた。全員が男性を見た。様子が豹変していたからだ。

 まるで宣教師が教えを説くように、男性は言葉を並べていった。

「魔術師かどうかではない。前提がおかしい。私たちは悪魔などではない。お前たちは」

 突如、言葉はぷつりと途切れた。男性の顔を見た青年が、一歩後ずさる。怨嗟や怒りをふんだんに込めた視線で、前方の何もない一点を見つめていた。

 言葉が続く。

「なぜ私たちは生まれてきたのだ」鉄の塊みたいに、無機質で冷たい言葉。「なぜ私たちは戻れないのだ。なぜ私たちを見捨てたのだ」

 静まり返った市場通りには、男性の低くか細い声でもよく通った。

 男性は空を仰ぎ見た。

「我が管理者たちよ」

 消えた。言葉が、ではない。

 男性が消えた。音もなく途切れるように。

 その場が一気にざわめいた。

 女上司は二歩あと退り、青年は五歩あと退った。

 官吏は特に動かなかったが、顔はその場にいる人間の中で最も青ざめていた。

「嘘だ……まさかそんな……どうして今なんだ」

 直後、全員が地面を見た。小さく揺れていた。

 状況を異変だと認識した一部の人々がその場を離れようとしたが、揺れが一気に大きくなったため足を取られた。

 縦に大きくブレる大市場通り。周囲の果物や武具などの売り物が散乱する。

 そして強烈な破裂音が響いた。多数の悲鳴が後を追う。三人の場所より少し外れた位置で、群衆がもう一つの円を描いた。群衆の注目は既にその中心へと移っていた。

 青年は、石材の地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走っているのを見た。

 ライラはハッと顔をあげた。ライラはもうとっくに人の群れを抜けてしばらく歩いていたのだが、異変を感じて立ち止まった。

 そして振り返った。

「やば」

 揺れが収まり始めると、雨が降り始めた。頭が空っぽになっていた青年は、何も考えずに手のひらで受けた。

 そして目を見開いた。それは赤い雨だった。足元が赤みを帯びて濡れていく。血の臭いはしなかった。

 官吏が悲鳴をあげ、騎士の二人を置いて一目散に逃げ出した。ひどく焦っている様子だった。

 青年は働かない頭で群衆を見た。彼らを囲むようにして並んでいた群衆だったが、まるで三人への興味が完全に失せたかのように、いつの間にか全員が亀裂を囲んだ円の方に参加していた。

 そして誰も声を発しなくなっていた。赤い雨に沈黙しているのかと青年は考えたが、直後にそれを否定した。

 群衆は亀裂を茫然と眺めた状態で直立し、静止していた。口元はほんの少しだけ笑っていて、目は無表情。両手は体の前で組んでいた。群衆を構成する人々全員がである。

 降り続ける赤い雨の中佇む彼らに、青年は恐怖した。

 また大きな音。亀裂が一つ広がった。赤い雨が強くなる。

 走っていた官吏が叫び声を上げた。

 青年が彼の方を見ると、官吏は浮いていた。

 官吏の体は、青年の身長三つ分くらい上空を直線的に移動し始めた。

「なんだこれはッ! 誰か降ろしてくれッ頼む!」

 本人は暴れ叫ぶも一切の効果を示さない。

 魔術だと思った。人の体が浮く現象を、青年はそれ以外に知らなかった。しかし直感的な違和感を覚えた。青年の奥の奥に根ざした感覚がその違和感を示した。

 女上司が小さく言った。

「魔獣だ……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る