猫は神の洲にまどろむ
丹寧
序章 猫ぼらけ
猫ぼらけ
東京と比べ、壱岐の日の出は三十分ほど遅い。だが
海の湿気を含んだ風は柔らかく、走るあいだじゅう柔らかく頬に触れる。暖気の中、ランニングシューズがアスファルトに弾む音が、軽やかに響いた。頭の後ろで束ねた髪が揺れ、ときおり首筋を撫でる。
早朝に家を出たのは、島の東にある
あの頃より少し遅い朝なら、瑠唯でも起きて備えることができる。だから今日は、一日の始まりを見届けるため、海で朝陽を望んでみたかった。年の初めに壱岐へやってきて数か月、桜の季節に晴れて開業する――その初日だったから。
昨年まで、都内の旅行会社で馬車馬のように働いていた瑠唯は、あるきっかけがあって東京を離れようと決めた。そして、母方の祖母がいる壱岐でゲストハウスを開業しようと、ほぼ身一つで郷ノ浦港に降り立ったのである。
ゲストハウスを開くのは、大学在学中からの夢だった。旅行業界で六年働き、一通りの業務は経験した。稼いだお金を使う暇はなかったから、貯金は積みあがっていた。壱岐では生前の祖父が民宿をやっていた物件が、遊休資産になっていた。そしてよりによって、祖父が突然亡くなる前に、かなりの費用を突っ込んで改装されていた。祖母いわく、小倉競馬場で万馬券を当てたからできたことらしい。
もったいないけど一人では切り盛りできないから、と祖母は民宿を畳んだ。
処分するにも費用がかかるので、建物はそのままの場所に、そのままの状態で鎮座していた。祖父が瑠唯にデザインの助言を求めながら、若い人も来てくれるようにと造りかえた宿だ。居抜き物件として買われるのを待っていたものの、リフォームしたてのぶん価格が高いのもあって、買い手がつかなかった。
だから祖母としても、瑠唯がゲストハウスをやりたいと言ったのは、渡りに船だったのだ。
物件を用立てる費用が必要ないなら、自分程度の貯金でも開業できる。そう目算が立った。
それに、一度はあらゆる許認可をクリアした建物だ。再度申請の必要があっても、祖父が残していった書類を発掘すれば段取りはわかる。役所の人々と祖母は顔見知りだったから、必要なことはだいたい教えてもらえた。
かくして、初心者にしては順調すぎるほど、とんとん拍子に開業準備が整った。どこかに落とし穴がないかと不安になるくらい。
本当は、不安になる必要などない。祖父は瑠唯が自分の宿を持ちたがっていたのを知っていたし、たぶん継がせたい気持ちもあっただろう。瑠唯は彼らの唯一の孫だったから。きっかけが何であれ、瑠唯が壱岐で宿を開業することは、正当化の必要がないくらい自然なことだった。
道の両側に広がっていた田畑が途絶え、木立が道沿いに続く。瑠唯は足を速めた。ここは鬱蒼と木立の茂る斜面が両側に迫っていて、やや見通しが悪い。
友人たちは、瑠唯が壱岐で開業すると告げると一様に驚いた。当然だと思う。まあまあ安定した身分を捨てて自営業になろうなんて、よほど夢を追っているか、よほど現実から逃げたいかのどちらかなのだから。
じっさい一部の人は、瑠唯が逃げで起業するのではないか、と思っていた。口には出さなくても、そういうのは雰囲気で何となくわかる。
壱岐で宿を開くための条件がどれほど整っていて、そうするのがどれほど当然なことなのか、瑠依は懇切丁寧に説明した。すると、大抵の人は安心した顔をした。
良かった。この人は現実逃避で闇雲に、全財産を失おうとしているわけじゃない。
もちろん瑠唯にそんなつもりはない。だから大丈夫だ。瑠唯にはない島内の人脈は祖母が持っているし、広告やオンライン広報の戦略なら、瑠唯が心得ている。商売の行く末を決めるのはゲストだが、満足を得るのは並大抵のことではないと業務で学んだ。だからこそ、せいいっぱいやるつもりだ。逃げではないかと疑われることなどないほどに――自分でも、そんな疑いを持たずに済むように。
畑の広がるなだらかな斜面と、その先の内海が見え始めていた。普段は真っ青な海が、今は朝焼けに染まっている。小さな湾の真ん中に、小島神社を抱く島がぽつりと浮かんでいた。
内海と呼ばれるこの湾は、引き潮なら歩いて回れるほど水深が浅い。だから船は入ってこられず、いつも静かな海面がたゆたっていた。湾内の小さな島には、潮が引いたときのみ参拝できる神社がある。昼間は観光客が多いが、今は無人だ。
海辺に辿り着いた瑠唯は、走るのをやめてゆっくりと歩いた。まだ足の筋肉が走る感覚を保っていて、地面から目いっぱい弾もうとする。その弾力を静めつつ、腰の高さのコンクリート塀に手をついた。鏡のように凪いだ水面を見晴らす。
薄紅に染まった海の前で、小さく息をついた。月並みな表現だが、美しい。優雅にうねる海面を見ていると、心が穏やかに宥められていく。微かな海風が、首筋の汗を冷ましていった。小さなくしゃみをしたとき、心地よい沈黙が不意に破られた。
「珍しい人間だな」
奇妙な言い回しに眉をひそめ、瑠唯はあたりを見回した。やや高めの男の声だった。しかし舗装された道にも、背後に広がる畑地にも人影はない。車もなかった。
しばらくきょろきょろしていたが、やがて気のせいと結論づけた。どこをどう見ても人っ子一人いないし、何よりあんな台詞を誰が言うだろう。
「お前、聞こえるのか」
納得しかけたところに、また声がした。さすがに今度は、気のせいではない。しかし、やはり人の姿はない。はるか離れた畑地で初老の男性がひとり作業しているが、声が聞こえるわけもない距離だった。
「早起きなだけじゃなく、本当に珍しいな」
いったい、何なんだ。
半ばパニックになった瑠唯の目は、視野の端で動いた陰に吸い寄せられた。華奢な手足を優雅に運び、コンクリートの塀の上を瑠唯に近寄ってくる。朝焼けの光に映える、一頭の白猫だった。
いかにも眠そうにあくびをした猫は、口を閉じるなりまっすぐに瑠唯を見据えた――ように見えた。
声の主は彼だろうか。いや、そんなはずはない。猫は通常、日本語を話さない。
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猫は神の洲にまどろむ 丹寧 @NinaMoue
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