一冊の慈しみを分け合いながら。
田舎に残っていた建物を目にして麻衣子はきちんと維持されていたことに驚きを隠せなかった。
古い傷んだ木製の雨戸を外してみると、燻んで古ぼけた白いカーテンが見えた。ところどころに建物の歴史のシミと言うべきなのだろうか、茶色のシミやカビが姿を見せている。
両親から借りた鍵は年代物で今のようなシリンダーキーでも自宅のカードキーでもない、ウォード錠と呼ばれる棒の先に鍵穴の形状に当てはまるように作られた凹凸のある板のようなものがついている。所謂、アンティーク錠というものだ。
鍵を差し込んで何回かカチカチと右左と廻しているとようやく合致した鍵がガチンと音を立てて回り始め、しばらくすると扉の向こうで鍵棒のカタンという音が聞こえてきた。
カーテンを開けると書籍棚の通路の先に小さなカウンターが見える。棚にはなにもならんでいない、綺麗に片付けられた店内があるだけだ。万引き防止の人の目が書かれたステッカーや、付録のおまけを子供が張り付けていったのだろうか、色の禿げたキャラクターシールが貼られているところも見受けられた。
「お邪魔します」
店内へ入り入口の窓を開け放っていく、4枚すべてのガラス戸を右へ寄せて扉入れに押し込み終えると、住んでいた昆虫や爬虫類が驚いて慌てて外へと出ていった。右と左の壁には窓が据え付けられているので、捩り鍵を廻して木製の窓を引いて開くと春の香りが外から室内へと入ってきた。窓の先には立派な桜の木が見えていてピンクの花びらを満開に咲かせて淡い風に吹かれて揺れている。
「さて、掃除しますかね」
車から掃除道具と水入れを下ろして床へと置いていく。自宅から持ってきた古い掃除機も降ろし終えると、愛車の電気自動車をエンジンをかけて車内のコンセントプラグに差し込んだ延長コードを店内へと引き入れた。マスクとアイゴーグルを手早く身につけて作業着のジャンパーを羽織ると、昔ながらのはたきを持って店内をパタパタとはたいて回る。薄らと積もった埃が日の光が差し込んだところに舞ってキラキラと光輝くさまをときよりぼんやりと見ながら、上から下へとかけていった。棚が終わればカウンター回りへ移動した。カウンターの天板だけ比較的新しい板に変わっているのを不思議に思いながら、ふと、カウンター横の棚に小さな写真立てがあることに気が付いた。
「ずっと見守っていたんですね」
私はそう言って微笑んだ。
白黒の歴史を感じさせる古い写真だ。
男女二人が並んで写っている、詰襟の軍服に短剣を下げた男性と和装姿の女性が少し緊張したような面持ちをしてこちらに視線を向けている。
「掃除しますね。ごめんなさい」
写真立てを外してはたきを終えるとコードをつないで床や隙間などに掃除機をかけてゆく。音が店内に響くとそれが人の話し声のようにも聞こえてきて思わず背筋が寒くなったが、春の心地よい風が桜の花びらを店内に散らせるのを見ればどことなしに怖さも収まっていく。
水拭き用の雑巾を絞って拭き掃除を終えた頃には日差しもかなり陰る時間となっていった。
「こんなもんかな」
麻衣子はゴム手袋を外して持ってきたごみ袋に捨て万歳をするかのように両手をあげて背筋を伸ばした。そして、ようやく夢を叶える場所を手に入れたのだと実感した。ここまでたくさん苦労をした分、いや、色々方々に迷惑をかけた分、感慨も一入だった。
高校在学中に絵本作家になりたいと決意を固めてひたすらにその道を走り抜けてきた。幼い頃から自宅の和室には古くても素敵な絵本がたくさんあったし書籍もたくさんあって読み耽った。なかでも、何歳になっても手に取って読んでしまうのが「絵本」だった。
「麻衣子は本当に絵本が大好きね」
高校生になってもそれをじっと読んでいる私を見て、母のきららはリビングでコーヒーを飲みながら言った。隣にいた父の浩平もその姿を見ながら笑っている。
「いいじゃん、良い絵本なんだもん」
少し反抗的な態度をしながらも読んでいることが恥ずかしいとは思わなかった。両親も本棚の本をよく読み返したりしているし、それに仏壇にいるお爺ちゃんやお祖母ちゃんもよく読み聞かせてくれたものだった。その年の暮れに私は絵本作家になる夢を決意して意を決して両親に相談した。
もちろん、答えはノーだった。
ダメではなくノーだ。結局、その話し合いでは言い合いとなって私は最後には部屋へと駆け込んで逃げた。なんで理解してくれないのと悲嘆に暮れているとやがてスマホが父方で我が家で一番長生きである曾祖母からの着信を告げたのだった。
「まいちゃん、あんた、絵本作家になりたいんだって?」
開口一番、祖母はそう言った。スパッとなんでもいう曾祖母の癖だ。いつも電話に出るたびに矢継ぎ早に用件を言う。
「ひいばあちゃん、なんで知ってるの?」
「そりゃぁ、あんたのお父さんが今さっき知らせてきたんだよ。娘の進路を聞いたんだけれども、どうしたもんかと悩んだらしくてね」
「もう・・・」
私は呆れたように言ってため息をつく。
「恥ずかしいとか言わなくて偉いね。それだけでも根性は座ってるようだ」
「だって、恥ずかしいこと口にしてるわけじゃないもん。夢なんだし」
「いいね、そう言えるのは良いことだ、さすが私のひ孫だね」
けらけらと笑っていた祖母はやがて少咽込んだ咳をする。それが止まると曾祖母は真面目な声になった。
「さて、どうしてもなりたいんだね」
「うん」
「そうか、なら応援してあげる。でも、1つだけお願いを聞いてくれるかい?」
「ありがとう。うん、どんなことなの?」
「お父さんのところへ行って、こころ、を貸してと言っておいで。そしてそれを読んでみて、もし、その本と同じくらいに素敵な文を書くことができると誓えるなら、再度、返事をくれるかい?」
「わかった。」
夏目漱石のこころはもちろん読んだことがある。でも、曾祖母はそれを知っているからきっと何か意味があって聞いてきているのだろうということも理解できた。
部屋を出て1階のリビングにいたお父さんにそのことを伝えてみると、本棚の上からそれを取り出して持ってきてくれた。和室の本は部屋に持ち出すことは許されないから、リビングでそれを開くと、最初の1ページ目に英文が流れるような字体でこう書かれていた。
『親愛なる陽子へ、これを君に送ります』
そこからはその世界へと誘われた。
1人の人にここまでの想いを抱くことが、ここまで正直に綴ることができるだろうか。
私は自分の未熟さを恥じた。
愛を抱いて、愛を持ち、そして愛を綴る。
これは誰にでもできることではない、嘘偽りないのはもちろん、それでいて真摯に正直に実直に伝える。自らの想いがどれほどのものであるかを、恥ずかしさやプライドすら必要ない、ただ、純粋な心のみを書ききる、いや、したためる、ことができるのならこの愛の詩になる。
涙と嗚咽を繰り返しながら、私は最後まで、その1文字、1文字に愛おしさを抱き時間をかけて読み終えた。最後のページを閉じて感慨に耽りながら時計を見れば、円形のアナログ時計は時針を4時の位置に指示していた。
卓上に置いた本を見つめてそれから1時間ほど思考を巡らせる。それは曾祖母から言われたことから、今後、私が描いていく、書いていく作品に対してどこまでも、どこまでも、高い理想を抱き続けて、研ぎ澄ましていけるだろうかということを真剣に自身へ問い続けた。
やがて5時が過ぎるとお父さんやお母さんが起きてきたが、それすら気にも留めずただ、こころを見つめたままで、私は思考を続けていた。
開けられたカーテンから朝日が差し込んでくる。そして、卓上の本に光が当たった。
「あれ・・・」
強い朝日がこころの表紙を照らし出す、やがてその光がその下にあった文字を薄く蘇らせてゆく。
『I’m always here for you、我が愛しの妻、陽子へ捧ぐ」
どれほどの想いが詰まっていたか、題名からすべてを悟った。末尾に挟まった2枚の写真、それは軍人の男性と優しい面影の女性で、きっと、この本は軍人の男性が書いたのだ。古い写真だから太平洋戦争あたりのものだろう。戦争の足音に悩まされた時代だ、軍人なら死と隣り合わせだからこそ、遺される者へ持ちうる限りのありったけの想いを書き記したのだ。この本はどれほど陽子さんにとって心の拠り所となっただろうと想像して、再び、頬を涙が伝った。
私は近くに置いていた自分のタブレットを持つ。
タッチペンを走らせて思いのままに、そして、思考するままに筆を走らせて行く。
軍人の想いを、そして、妻の想いを、そして読ませて、いや、拝読させて頂いた想いを。
これほど、愛を教えてくれるものはないのだ。
やがて、私は2人を主人公にした絵本を書き上げた。
題名は『I’m always here for you』
出来上がった絵本を曾祖母へと印刷して送る。そしてそれは曾祖母から家族全員へと渡されてゆき、私は絵本作家の第一歩を踏み出した。そして、それは、私のデビュー作となったのだった。
店舗の掃除を終えて数日後にライフラインの点検などが終わると麻衣子は荷物を運びこんだ。
ここが新しいアトリエ件住居となるのだ、店先に「ギャラリー本屋」と手書きの看板を掲げた。店内を見て店名を決めた。棚には小さな作品を並べると共に駄菓子なども置いてみた。絵本は子供がよく読む、だからこそ、意見も聞いてみたいと思った。過疎地で子供は少ないけれど、麻衣子のファンも多いから、ここに通ってくれる人もできることだろう。
カウンターの写真はあの2人で間違いはなかった。
父を説得して許可を貰い、本をカウンターの後ろに用意したガラスケースに表紙を向けて飾り、その横に写真立てを誂え直した2人を並べる。ここが始まりだと父から教わったとき、いつかは数世代を経た2人の愛の詰まった場所へと連れ帰りたいと考えていたのだ。
下段にかつてこの店舗で並んでいた絵本を表紙が見えるように、どれもこれも私の、いや、家族の思い出の詰まった宝物である。
すべてを並べ置いて浸っていると不意に声が聞こえた。
「麻衣子、きたよ~」
パートナーとなった香奈枝の声が入り口から聞こえてくる。絵本で知り合い、意気投合し、そして愛を育んだ大切な人だ。
「遅いよ!」
私はそう言って店の入り口へと小走りに向かっていく。素敵な笑顔がそこにあった。
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