ep.27 旋律の追走劇

 ウェナとオーラは、ゴンドラに揺られながら観光を楽しんでいた。リムンからバスでおよそ三十分、ここは芸術と創造が息づく街。水路沿いの通りでは、芸術家たちが自らの作品を並べ、即興で似顔絵を描く様子が見られる。ミュージシャンやダンサー、大道芸人たちも己の技を披露し、行き交う人々の目を惹きつけていた。


 今日は、この街に合わせて二人とも念入りにおしゃれをしている。オーラは"色閃しきせんの雫"で染めたホワイトヘアにインナーグリーンを添え、ウェナはベージュに同じくインナーグリーンを合わせていた。ヒップホップの番組に影響を受けたスタイルに、購入したばかりのキャップとサングラスを加え、二人は上機嫌だ。


 彼女たちがこれほど余裕を持って楽しんでいるのには理由がある。リムンで今月発売された新作クッキーサンドが予想を超える人気を博し、常連客の支持を得て絶好調の売れ行きとなり、その対価としもらったお小遣いで二人の懐は暖かいのだ。


「――んー?」

「ウェナ? どしたの?」

「――ねぇ、オーラ。この曲って、なんだっけ? タイトルど忘れしたーもやもやするー」

「えー?――どの曲?」


 幼いころから音楽に心を奪われてきたオーラとウェナ。オーラは音を紡ぎ出すことに生きがいを見出し、ウェナはその音に身を委ね、舞い踊ることで魂が自由になるのを感じていた。


 彼女たちにとって、この世界は、無限の可能性を秘めた舞台だ。音楽は、生き物の心そのもの。悲しみや苦しみに押しつぶされそうなとき、眠れない夜に、心を映し出すような旋律が何度も救いとなった。

 音楽は、自分と同じ悲しみを抱え、分かち合える誰かがいることを教えてくれる――それは痛ましい現実でありながら、同時に深い慰めでもあった。そして、喜びに満ちあふれるとき、心を共鳴させ、同じ喜びを共有する誰かがいることを感じさせてくれるのもまた音楽なのだ。それは、この世界における何よりも美しく力強い真実だ、そう彼女たちは思うのだ。


 外の世界には、その道を極めたプロたちがいる。その存在を知った時、二人の世界は一気に広がった。彼らの奏でる音を直に感じ、その情熱を肌で感じたい――その想いは、やがて二人の"夢"へと形を変えていった。


「――ほらー、ピアノ、聞こえない? これなんだっけ? ラーラララーラララララララ~」

「えーどれー? ピアノー?――あ、それは、イエヴァンポルカ、ね。フィンランド民謡の」

「それだそれだー! すっきりした!」


 ウェナは音に導かれるように漕ぎだし、オーラも揺れに身をゆだねる。


「ほらあそこー!」

「わっほんとだ! すっごく上手。素敵!」

「ねー! もっと近くいこうよ!」


 ピアノの軽やかな旋律がオーラの耳に届いたのは、角を曲がり広場に出た瞬間だった。少し先には、人々が集まり、何かを囲んでいる。近づくと、観客の輪の中心にピアノがあり、その前で誰かが流麗な音を奏でていた。ピアノの音色に合わせて観客たちは足でリズムを刻み、体を揺らし、時折口ずさむ。その光景に引き込まれたウェナとオーラも、気づけば自然に口ずさんでいた。


「おーい!君たちー! こんにちはー!」

「――?? こんにちは!!」

「歌ってくれてありがとうー!」

「こちらこそ――あの、ピアノとっても素敵でした!その曲私も好きです。メロディがすごく印象的で――あなたの音も、すごくすごく好きです! 聞かせてくれてありがとうございます!」

「嬉しい言葉をありがとう。二人の歌声もとっても素敵だね。ねぇ、二人ともいきなりだけど――サンタ・ルチア、歌えるかい?」

「「??――はい」」


 曲が終わると、ピアノを弾いていた男性――二十代半ばほどに見える――が顔を上げ、こちらに視線を向けた。突然の声かけに、オーラとウェナは驚きつつも、笑顔で応じた。


 サンタ・ルチア――ナポリの美しい港町を称える民謡。この曲は、リルファーが故郷に持ち帰った数多くの楽曲の一つだ。海の民として、海にまつわる歌を特別に大切にしていたのだろう。オーラとウェナにとっても、この曲は馴染み深く、何度も歌い、歌詞も覚えている。だからこそ、彼の問いに迷いなく答えた。


「――よかった」


 彼は満足そうに頷くと、椅子に座り直し、鍵盤に指を置いた。もしかして今この場で歌えるか質問されたのであろうか、そう思った時には、前奏が進みだした。戸惑いつつも、慌ててゴンドラを端に寄せた二人は、歌い始める。オーラの澄んだ歌声と、ウェナのやわらかい歌声が溶け合う。その美しいハーモニーに、彼も満足げだ。


 オーラとウェナ、そしてピアニストによる即興のパフォーマンスは、次第に通行人の目を引き始めた。人々が次々と足を止め、彼らの演奏に耳を傾ける。空を舞っていた鳥たちも、軒先や木々に留まっていた鳥たちまでもが、二人の肩やゴンドラの縁に舞い降り、演奏に引き寄せられた。やがて、歌声とピアノ止むと、通りは大きな拍手と歓声で満たされた。


 リムンで店番をしているときも、オーラとウェナはよく歌っていた。常連客には好評で、人前で歌うことには慣れているつもりだった。しかし、いつも馴染みの顔に囲まれていた二人にとって、これほど多くの見知らぬ人々の前で歌うのは初めての経験だった。


「突然のリクエストに応じてくれて、ありがとう。二人とも本当に素敵だね。感動したよ――そうだ。自己紹介させてほしい。僕はフレデリック・ホロヴィッツ。よろしくね、二人とも。気軽にフレデリックと呼んでくれ」

「素敵な名前!! もしかして――。あ、自己紹介ね、自己紹介。私はオーラ・ガーネット。オーラと呼んでください! こちらこそ素敵な時間をありがとう」

「私はウェナ・ガーネット。 ウェナと呼んでください! 私も楽しかったです」

「オーラにウェナね。改めてよろしく――名前のことはよく言われるよ。僕も自慢なんだ」

「フレデリック・ショパンに――」

「――ウラディミール・ホロヴィッツ」

「やっぱり!素敵! まさに音楽家の名前ね!」

「ありがとう、オーラ。二人は姉妹かな?」

「い、いえ、親戚です!」


 ガーネットは本来、マクリスのファミリーネームである。オーラとウェナには、もともと苗字がなかったが、外の世界で生活するためにその名を借りることとなった。まだ新しい名に馴染んでいないため、自己紹介のたびにわずかなぎこちなさが残る。


「――そうなんだ。苗字が同じだし雰囲気も似てるからてっきり。僕は近くの大学院で民謡を研究していてね。時々こうしてピアノを弾きに来てるんだ」

「私たちは、今日は観光です」

「そっか――遠くから? とっても素敵だったからまた是非セッションしたいと思ったんだけど、難しそうかな」


 フレデリックが少し残念そうに眉を下げるのを見て、オーラはすぐに応じた。


「ここにまたくれば会えますか? そんなに遠くないです。また来ます!ね!? ウェナも」

「うん!」


 会話が続く中、やがて観客の中から催促の声が上がった。フレデリックの誘いに応じ、オーラとウェナはゴンドラから降り、演奏の準備に取り掛かる。


「うーん。どうしようか。せっかくだし二人に決めてもらおうかな――」

「――ディー・フォーゲルホッホツァイト」

「ドイツ民謡か、いいね」

「この子達カップルみたいで」


 オーラとウェナは視線を交わし、オーラは肩にとまった小鳥を愛おしげに撫でながら、心に浮かんだ思いをそっと口にする。


「なるほどね。それにしても――慣れてきて思わず突っ込み忘れてたけど、その小鳥たち、本当に人懐っこいな。警戒心ないのかな? 人の肩に止まるなんて、珍しいよ――それじゃぁ、よろしく」


 フレデリックの指先が、生き生きとした旋律を生み出した。その音に導かれるように、オーラとウェナは息を合わせて声を重ねた。鳥たちも呼応するかのように二人の周りを飛び回り、音の波に満たされていく。


 ディー・フォーゲルホッホツァイト――鳥たちの結婚式を祝うドイツ民謡。その明るく弾むようなメロディに、鳥たちはまるで祝福の舞を披露するかのように軽やかに羽ばたいた。二羽はやはりカップルだったようだ――余計なお世話ではなかったと、オーラは密かに胸をなでおろす。


 観客は誰もが、この幻想的で美しい光景に釘付けとなり、息を呑んで見入っていた。




---




「キャーーー!!」


 ウェナとオーラが気持ちよく歌っている最中、鋭い叫び声が通りを突き抜けた。三人は動きを止め、小鳥たちは驚いて一斉に飛び立ってしまう。観客たちの間にも緊張が走り、ざわめきが一気に広がった。


「ひったくりだー!」

「おい!あいつだ! 捕まえろ!」

「誰か! 警察呼んで!」


 怒声が響き、三人はその声に反応して目を走らせた。遠くに男が一瞬見えたかと思うと、彼は素早く走り去り、追いかける人々を振り切りながら、群衆をかき分けていく。スピードを増すその背中は、あっという間に視界から遠のいていった。


 街はざわめきに包まれ、焦りと驚きが通り全体に広がる。瞬く間に混乱が渦巻き、街の喧騒が高まっていった。


「――オーラ、どうしよう。行ったほうがいい、よね? 困ってるみたいだし、取り返すだけなら大丈夫かな?」

「どうだろ? 行く?――本気出しちゃだめだよ?」

「わかってる。ほどほどにする――ちょっと行ってくるね。見過ごせないしね」

「――気をつけて、怪我させないようにね」


 オーラの最後の一言を背に、ウェナは地面を強く蹴り、勢いよく駆け出した。"幻贖げんしょくの力"は公にしてはいけない。しかし、今回は走るだけ。それなら問題ないはずだ。スピードを抑えながら、ただ犯人から盗品を取り返すことが目的だ。サングラスで瞳の色も隠しているし、見破られることはない――そう自分に言い聞かせながら、徐々に加速していった。


 しかし、ウェナの疾走する姿は、通行人たちの視線を次々と奪っていく。抑えているはずの速度は、明らかに常人を超えていた。風のように滑らかに迫るウェナに気づいた犯人は、何度も振り返り、焦りが顔に浮かんでいく。周囲のざわめきがウェナに集中し始めたことに気付いたオーラは、頭を抱えたくなった。


「ねぇ、フレデリック。ピアノ、少し弾かせてもらえませんか?」

「――え? うん、もちろん、どうぞ。いやそれより――あの、彼女は――ウェナ行っちゃったよ、止めなくて大丈夫?」

「ウェナなら大丈夫です! 足も速いし、とっても強いんです!」

「――いや確かに速いけ――って速すぎない? え、それでもピアノ弾いてる場合じゃ――いや、ほんとなんでそんなに落ち着いてるの。心配じゃないの? 僕たちも向こうに行ってみた方が――」

「そうなんです、心配になるくらい足が速すぎて」

「心配するのそこなの――」

「だから正直焦ってます」

「それで焦ってるんだ?」

「だからこっちに注目を集めたくて――」

「どうしよう、全然わからない。これがジェネレーションギャップ――」


 フレデリックが困惑しつつ席を譲ると、オーラは迷わずピアノに向かった。彼女が選んだのは、ヨハネス・ブラームスの『ハンガリー舞曲第五番』。激しく情熱的なリズムが、今の緊張感漂う状況にぴったりだと感じたのだ。


 フレデリックには、ウェナの驚異的な速さも、オーラの突然の行動も理解が追いつかなかった。しかし、オーラの演奏が、彼の音楽家魂に火がつけた。オーラの指は鍵盤を力強く、かつ軽やかに駆け巡り、テンポは次第に加速していく。音は街全体に広がり、渦を巻くような力強い旋律が観客たちの心を揺さぶった。音の波が押し寄せるたび、通りはその圧倒的な音に包まれていく。


 ウェナに注目していた観客たちの視線を再び奪い返すかのように、オーラは熱のこもったパフォーマンスを披露した。ピアノの音が響くたび、観客たちはその場の空気に引き込まれ、完全に飲み込まれていく。


 気づけば、フレデリックも自然とオーラに同調していた。この曲は本来、連弾のために作られたものだ。勝手にピアノに触れようとする指が止められない。二人の指先が次々と鍵盤を叩き、巨大な音の渦が生まれ、ピアノから放たれる力強い音が街を満たしていく。観客たちはその音の波に完全に引き込まれていた。


 最高潮に達したその瞬間、通りの向こうから突如大きな歓声が巻き起こった。ここから姿は見えないが、ウェナが無事にひったくり犯を捕まえたか、盗品を取り返したことは明らかだった。オーラとフレデリックは目を合わせ、次の選曲を決めた。


ウェナの勇敢な行動に敬意を表し――。


「ジョルジュ・ビゼーのカルメンの前奏曲、かな」

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