ep.16 航海の幕開け

「前にね、私――おばあちゃんと大喧嘩した時あったでしょ? あの時、『考えなんてないんでしょ!』って、強く責めちゃったんだよね――ちゃんと考えてくれてたのにね」

「しょうがねぇよ。俺たちは知ること自体、禁じられてたんだから」

「そうだよ。パニーだけじゃないよ! 私だってずっと――幻贖の民の生き残りだって聞かされてきたのに、今になって――」

「――実は他にもいるかもしれない、だなんてね」

「でも、すっごく傷ついてた――謝りたかったな」


 世界が未だ覚醒せぬうちに、パニーたちは出航した。蒼穹がゆるりと目を覚ます頃には、既に出航から一時間が経過していた。漆黒の闇を覆う空が、徐々にその濃淡を変化させ、世界に新たな色彩をもたらしている。その上を滑る船は前進を続けていた。


「――でもなー。結局、五年間も進展無しなんだろ?」

「うん、まぁ。そう書いてあるね」

「手掛かりについても詳細は書いてないもんね――他に入ってたりしない?」

「んー、しないよ? ほら」

「――全てはマクリスに聞くしかないってことかー」

「その縁を辿れば――パパとママに近づくのかな」


 パニーは、出航時に祖母から手渡された手紙に視線を据えたまま、ぽつりと呟いた。封筒の中身を再度確認したが、そこにはカモミールの薫りがしっとりと染み込んでいるだけだった。


 手紙には、今から五年前、マクリスが外界で幻贖の民の痕跡を発見したことが記されていた。彼はその痕跡を追い求めているものの、未だにその道筋を辿り着くには至らず、現時点では進展が無いと綴られていた。かつて、『時期が来たら教える』とアイガが言っていたのは、このことだったのだろう。今も尚、進展がないために教えられなかったに違いない。


 そして、最後には、祖母からの深甚しんじんなる愛情が、パニー、エイディ、ウェナ、オーラの四人に向けて綴られ、しみじみと締めくくられていた。




---




 風に靡く髪をかき分けると、パニーの視界の中にアームレットが映り込んだ。


「――もー。おばあちゃん、素直じゃないんだから」

「パニーもな」

「――私はすっごく素直じゃん」

「要するに、自分のことなんも解ってねぇってことだな!」


 パニーは船の縁に腰を下ろし、蒼海を見下ろしていた。独り言になるはずだった言葉が、隣に座るエイディに拾われた。オーラとウェナは、携えた色閃しきせん香閃こうせんの雫を取り出し、本日のテーマに基づき、それぞれの美意識を表現し始めた。


「セルーノー! 疲れたらちゃんと教えてねー! 休憩入れるから!」

「そうだぞー! 教えろよー!」


 頷くように、船の前方から大きな水飛沫が弾け飛んだ。


 この船の本来の動力源は、側面に装着されたオールである。しかし、今回の長きにわたる航海では、四人の力だけでは心許ないため、スコットリスのセルーノが、マクリスとの合流地点までの道標を兼ねて船を推進していた。


 セルーノの腕に装着されたアームレットと、パニーたち四人の腕に巻かれたアームレットには、引寄いんせんの雫が埋め込まれている。これは磁力を宿す磁縁じえんの蔦と呼ばれる植物から生成されたものである。この引寄の雫の力で、物理的な接触を要さずに船とセルーノを結びつけ、船を引き寄せている。セルーノの泳ぎに合わせて、船は水面を滑るように進み、彼らの旅路を導いていた。


「サリーもねー! 疲れてきたら教えてよー!」

「そうだぞー! 教えろよー!」


 後方では、サリーもまたアームレットを装着し、見守るように船の後を追随している。


 それぞれのアームレットは、出航前に祖父母から贈られた品であり、パニーの腕にあるものにはスコットリスが、エイディとウェナにはチャソタパスが、そしてオーラにはサンデンフィルが、幻贖のランプと共にデザインされている。さらに、祈俸きほうの雫を混ぜた色閃しきせんの雫で染められた真珠が嵌め込まれ、お守りとしての役割を担っていた。




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 しばらく何事もなく船は進み、昨晩遅くまで起きていたウェナとオーラが夢路に就き、エイディも釣られて微睡み始めた頃、パニーは一人、海を眺めていた。




---




 夜明け前の漆黒の闇が広がる中、皆が立ち並び――共に夜を明かしたはずのニウスだけはその姿を見せなかったが――手を振って船出を見送ってくれたのは、ほんの一時間と少し前のこと。その光景は、まるで遥か昔の出来事のように感じられた。


 ついに出航し、闇が次第に皆の姿を飲み込んでいく中、パニーはどうしてもアイガから目を逸らすことができなかった。これからしばらく会えなくなるというのに、終始どこか不満げで寂寥の色を帯びた面持ちに、パニーの心も沈静することなく、波立つ感情を抱えたまま、ついに皆の輪郭が溶け込んでいった。




「――気をつけて! 元気でね! いつでも帰ってきていいのよ!」




 パニーたち四人が、進む先に向き直ったその刹那、アイガのこれまで聞いたことがないほどの大音声が、船と岸辺とを繋いだ。




「――いつも、いつでも、いつまでも、愛してるわ! 忘れないで!」




 パニーはその声を耳にした途端、心臓が大きく跳ね上がった。


「おばあちゃん――」

「おいっ! パニー!?」

「えっ! ちょっと、パニー!?」

「えー!? 船戻す? 戻す!?」

「――ごめん、自力で戻るから、大丈夫。そのまま進んで!」

「進んでって――ったく」


 心臓が高鳴る中、パニーは反射的に船の縁に飛び出していた。彼女の中に流れる幻贖の力が瞬時に呼び覚まされ、海の上に氷の足場を創り出した。


「――おばあちゃんっ」


 パニーは祖母のもとへ疾駆した。エイディたちの声に振り返る余裕もなく、ただ前方を見据えて進み続ける。氷の足場を踏みしめる度に、波がその周りでさざめいていた。


「――おばあちゃんっっ!!」


 パニーはそのまま疾駆して、祖母の前で足を止めることなく、その胸に飛び込んだ。アイガは僅かにふらついたものの、すぐにしっかりとパニーを抱擁し返した。祖母と抱擁を交わすのは、もう何カ月も前のこと。パニーはその胸の中で、溢れ出る涙を堪えきれず、ただただ鼻の奥が痛むのを感じていた。


「――なんで、いま、なの?――別れの、あい、さつは、さっき、終わった、ばっか、じゃん」


 アイガの顔を見上げ、声を震わせつつも、パニーは数多の感情が籠る言葉を紡ぐ。二ヶ月ほど前、祖母と大喧嘩をした日が蘇る。互いの言葉は感情の衝突で鋭くなり、一時は必要最低限の会話しか交わさなかった。冷ややかな空気が漂う日々が続き、パニーの心に影を落としていた。


「――おばあちゃん、が、わかんない、よ」


 一ヶ月程前、遂にアイガはパニーの旅立ちを渋々ながらも承諾するも、どこかぎこちない態度が残り、二人の間には緊張感が漂ったままだった。アイガは時折、パニーの瞳を避けるようにしていたし、パニーもまた、祖母の心情を察しつつ、どう声をかけてよいか分からず、ただ黙していることもあった。互いの胸には言葉にならない思いが渦巻いていた。


「――なん、どうして、今、泣く、の――怒って、た、でしょ――わたし、おばあちゃんが、いやがる、ことして、いっぱい責め、ちゃって――」

「――声を出したら、今度こそ気持ちが止まらなく、なりそうだったのよ――私の可愛い、パニー――ねぇ、よく聞いて」


 二人は似た者同士であった。頑固で、時に率直さを欠く性格が災いし、互いの気持ちを伝えることができていなかった。二人の間には無言の壁が築かれ、感情がすれ違う日々が続いた。心底に秘めた思いは、多くの言葉に埋没し、霧消してしまい、伝えたかった本心が届かぬまま時だけが過ぎ去った。


「私たちは、いいえ、私は、ね――息子と娘を諦めてしまったの」

「そ、そんな、こと――」

「――いいのよ、パニー。本当のことだもの」


 アイガの瞳が、寂しそうに揺れ動く。


「――いい? よく聞いて。あなたたちが生きていてくれれば、もう、それでいいと思っていたわ――これ以上、失うくらいなら――もう耐えられなかったの、耐えたくなかったのよ――でも、あなたは違った。決して諦めなかった」

「――それは、だって、だって――皆とやく、約束したの。私、約束しちゃって――」


 パニーはアイガにだけ届くくらいの声量で、長い間胸に秘めていた不安を吐露した。幼い頃に交わした約束が、成長したパニーに重くのしかかっていた。


 パニー自身、本当に叶うとは思っていないのかもしれない。約束が破られたとしても、誰一人としてパニーを責める者はいないだろう。使命感だけが、自分を突き動かしているのかもしれない。もしかしたら、両親は――。感情が複雑に絡み合い、どれが真の想いなのかすら、分からなくなってしまっていた。


 唯一確かなこと、それは――両親と過ごしたあの幸福な日々に戻りたいという願い。家族を想い涙する自分も、皆の泣き声も、もう聞きたくなかった。夢から覚め現実に戻り、再び夢に逃げ込むのも、もう嫌だった。この地が愛おしく、皆と共に暮らすことを夢見ていた。そうすればきっと――。


 パニーはアイガの腕中で、その温もりを全身で感じていた。アイガの手が彼女の背を優しく撫でるたび、パニーの心に安寧が広がった。


「ありがとね――息子たちを信じ続けてくれて、ありがとう、ありがとね」

「――おばあちゃん」

「伝えたいことは、それだけよ――ほら、いってらっしゃい。マクリスとの約束に遅刻してしまうわ」

「おばあちゃんの、せいじゃん」

「――ほらっ、いってらっしゃいな」


 アイガはパニーを引き離し、彼女の止まらない涙を拭いながら微笑んだ。祖母からの『いってらっしゃい』を、その言葉を、パニーはずっと待っていた。アイガはそのままパニーの背を海へと押し出した。


「気をつけるのよ、パニー。エイディと、ウェナと、オーラと――皆で無事に帰ってくるのよ」

「うん、必ず帰ってくる――だから、待ってて」

「その言葉が聞けて、良かったわ――いってらっしゃい、パニー」

「いってきます――ありがとう、おばあちゃん」


 二人はお互いに前を向いたまま、顔を見ずに再び挨拶を交わした。パニーは最後に一度だけ振り返り、皆に手を振り、別れを告げた。そして、再び船へと戻るために、海上に氷の足場を創り出そうとした。


「――いってきまーす!」

「パニー、待って! 僕たちが連れてってあげるよ!」

「パニー! バランスしっかりとってね!」

「パニー! 元気でね!」

「――え?」

「僕たちからの"追い風"の餞別! 縁起がいいだろ?」

「――え、うそっ?!――うっそでしょ!?」


 気がついた時には、パニーは既に宙を舞っていた。ナットとラリス、さらにエルまでもが愉しげに風を呼び起こし、彼女を船へと送り出した。一気に背を押され、そのまま滑るように船に近づいていった。



「「「「パニー!! いってらっしゃーい!!」」」」



 空中を滑るように進むパニーは、風の勢いに圧倒されるまま、両腕を広げ、必死にバランスを保とうとしていた。


「ねぇ、ナット!ラリス! ちょっと、待って早いかも!――きゃあああ!」


 さらに強烈な風に押し出され、髪や服を激しく翻しながら、一直線に船へと突き進んでいく。視界には、急速に近づいてくる船が広がり、今度は違う意味で心臓が高鳴った。後方からナットとラリスたちの笑い声が聞こえた気がした。先ほどまでのしんみりとした空気が一変し、涙も引っ込んでいった。


「速いって――ばぁぁぁぁぁ!!」


 海の上を叫びながら飛ぶパニーの姿は、船上の仲間たちの目にも鮮明に映り、三人は身を乗り出し、慌てふためいた。


「パニーが戻って――え? ちょっと、パニー、え?早すぎない?」

「うそっ!ほんとに早いじゃん! ちょっ、エイディ、任せた!」

「――お、おう!」


 パニーは叫び声を上げながら、急降下して船に向かって一直線に進んでいった。風の勢いがさらに増し、彼女の髪と服が激しく翻った。視界には急速に近づく船が広がり、パニーの心臓は激しく鼓動していた。


「――ま、任せろ、パニー! 俺が受け止め――れないぃぃぃぃ!」

「――エイディィィィィィィィィ!!」


 パニーはそのまま下にいたエイディに巻き込む形で勢いよく転がっていった。数度転がり続け、ようやくその勢いが収まった。


「よかった! 無事だね!」

「よかった! 安心した!」

「無事――か? これ」

「――エイディ、ごめん、ありがとう」


 再び進みゆく船上から、遠ざかる皆の姿を見つめながら、パニーは心中で最後にもう一度『いってきます』と呟いた。


 彼女の冒険は、今度こそ本格的に幕を開けた。

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