ep.9 悪夢

 ロロは小麦粉をボウルに入れると、ぬるま湯を注ぎ込んだ。混ぜ合わせ、生地がまとまり始めると、作業台へ移し、全身で圧をかけるようにして捏ね始める。押し込む、引き寄せる、畳み込む。この一連の動作を繰り返しながら、ロロの手の中で生地は次第に滑らかさを増し、柔らかくなっていった。


 力を込めて持ち上げ、台に勢いよく叩きつける。生地がしなやかに手に馴染むまで、ロロはこの作業を続けていた。


「――ねぇ、ロロ、ほんとに大丈夫?」

「――え、何?」


 窯にフォカッチャを収めたパニーが、立ち上る薄い煙を手で払いながら、ロロに声をかけた。


「――ここ、隈、できてるよ」

「え? ほんと?!」

「うん、よく見ないとわからないくらい、うっすらとだけど――今日も魘されてたよね? 眠れない?」

「んー、眠れないわけじゃないけど――今日は夢見が悪くて」

「疲れてる? 体調は?」

「体はね、全然元気だよ!」

「そう? それならいいんだけど――今日はって言うけど――また、同じ夢?」

「――うん、同じ夢。やっぱ、なんか変だよね? 何度も同じ夢見るって――パニー姉は、見ることある?」

「同じ夢ねぇ――ないこともないけど」

「え、見たことあるの? どんな夢?」


 ロロは生地の表面がしっとりし始めたのを確認し、オリーブオイルを全体に塗り広げた。生地がオイルを吸い込み、艶が出たところでボウルに移し、布で覆う。


「――親指に、追いかけられる夢」

「――え? お、親指?」

「そう、無数の親指が、ほんとに親指だけなの。しかも服? 着てて――ねぇ、ちょっと笑わないでよ。列をなして私を追いかけてくるの。しかも螺旋状にくるくるーって。ねぇ、ほんとに怖いんだよ?」

「――何それ、怖すぎない?」


 思わず口元を手で押さえ、笑いをこらえたロロだが、目が笑っている。パニーはそんなロロに気づくと、わざとらしく眉をひそめてみせた。


「ほんとーの、ほんと―に、怖いんだよ? この夢見るとき、だいたい途中で目覚めるもん。ねぇ、半笑いやめて」

「――ごめん、ごめん、――でも、パニー姉も同じ夢見てて、ちょっと安心した」

「――で?ロロの夢はどうなの? 聞いてなかったけど、親指の行列より変?」

「うーん、どうだろ? 親指には負けるかも――行ったことのないはずのね――知らない場所がたくさん出てくるの」

「知らない場所が、たくさん?」

「――うん、ここじゃないから、外界だとは思うんだけど」

「えーそれって、昔行ったことあって、覚えてないとかじゃなくて?」

「うーん、その可能性が高いとは思うんだけど、本当に全然まーったく記憶にないとこばかりで」


 ロロはリンゴを小さく角切りにし、ボウルに入れ、その上にレーズンをぱらぱらと加えた。フライパンを中火にかけ、バターをじわりと溶かし始める。


「ふーん――知らない場所が出てくるだけ? 怖いことでも起こるの?」

「うん。知らない人もたくさん出てきてね。それで――」

「それで?」


 バターが溶けると、ビートシュガーとシナモンを加え、混ぜ合わせ、さらにレモンを絞り加える。


「――知らない人が、いっぱいいるんだけど――亡くなるの」

「――え、亡くなるの?! なにそれ怖い!!しかもいっぱい?!」

「でしょ?怖いよね?知らない場所で、知らない人が大勢亡くなる夢なんて――怖すぎるよね?」

「なにそれ、親指より全然怖いじゃん」


 寝かせておいた生地を台の上に取り出し、布巾を広げ、その上に小麦粉を振った。生地を置き、薄く伸ばしていく。透けるほど極薄に広げ、溶かしたバターを刷毛で隅々まで塗り込んだ。


「――え、待って、それ何回目だっけ?」

「この夢?今回で――三、じゃなくて、四回目かな?」

「全部、知らない場所で知らない人で、でも状況は同じなの? まったく一緒?たくさんの人も固定なの?」

「――うーん、どうだろ? わかんない。夢見てるときは、リアルに感じてるんだけどねぇ。起きるとほとんど忘れちゃってて――たぶん一緒だとは思うんだけど」

「――まぁ、夢だしね。そういうもんよね」


 生地にリンゴのフィリングを丁寧に広げ、くるくると巻き上げていく。フィリングが中に包み込まれていくと、生地はずっしりと厚みを増して、丸みを帯びた一本の円筒状に変わっていった。


「エム姉にも相談した? 夢の内容も」

「うん、三回目の時に話したよ」

「なんか言ってた?」

「――パニー姉と同じ感じ? かな」

「――うーん、何か意味あるのかな?」


 パニーが窯を開けると、フォカッチャがちょうどいい焼き加減に仕上がっていた。芳ばしい香りが辺りに広がり、熱気と共にふわりとパニーの顔を撫でた。入れ替わりにアプフェルシュトゥルーデルを鉄板に乗せ、窯の中へと滑り込ませた。




---




「どうだ?調子は」

「あ!リンディ、もう着替え終わってるー! ばっちりじゃん!」


 窓越しにリンディが立っていた。今日のための正装をまとったその姿は、窓を通しても引き締まって見える。


「――リンゴだ」

「そう!いい香りでしょ?お腹すくよねー! ちょうどケーキ焼いてるところ!そっちは?」

「こっちはもう準備終わった。オーラたちも料理作り終ったって。着替えに行った」

「早いね! 私たちもあと少しだから――」

「――焼き終わりまであとどのくらいだ? 俺、あとやるよ。着替えてこいよ」

「いいの? ありがとう。ちょっとまって、えっと、あと――二五分!」

「わかった」

「ありがと。じゃぁ、お言葉に甘えて――ロロ、行こ」

「うん、ありがと! また、あとでね!」




---




「ペーオ、おめでとう!」

「ママ、ありがとう!」


 今日はペオにとって待ちに待った七歳の誕生日。海の民が大切にしている、スコットリスの祝福を受ける日だ。海の力を授かるこの日を、ペオはずっと待ち望んでいた。


「――よしっ、大丈夫ね」

「おばあちゃんとおじいちゃんに後で御礼言おうね――じゃぁ、これ着てきて」

「はーい」


 エムスタは、今日のために用意された特別な衣装を手に取った。柔らかで流れるような質感、光にかざすと繊細な輝きを放つ生地は、祖父母が心を込めて縫い上げたものだ。デザインは代々受け継がれる伝統を基にしながらも、ペオのために新たな工夫が加えられている。襟元や袖口、裾にはサンゴの刺繍が細やかに施されており、淡紅色や橙色、そして金色の糸が、サンゴの自然な色合いをそのまま表していた。ズボンの裾は動きやすく絞ってあり、サンゴ模様が美しく浮き立っている。パンツ全体に深い青のグラデーションが入り、上着と一体となっている。


「――ペオ、どう? 着れた?」

「待って、あともう少し――着れた!」

「見せて、見せて!」


 ペオはエムスタの前で軽く回ってみせた。刺繍がひときわ際立ち、歩くたびにその布が風を抱き揺れた。


「――どう? 似合う?」

「うん、とーってもよく似合ってる。最高に素敵ね」

「そう? なら、よかった」

「ペオの感想は?」

「――うん、動きやすいし、軽くていいと思う」

「――もっと、おしゃれな感想はないの?」

「それはパニーとロロに聞いて――ねぇ、シェルトのところ行ってきていい?」

「もちろんいいわよ――あ、でも少しま――」

「いってきまーす!」


 準備が整ったペオは、エムスタの声を聞く間もなく駆け出した。袖や裾が長く伸びて空を舞い、煌く光の粒が彼を追いかけるように辺りを包み込む。海の香りが頬を撫で、彼の行く先に広がる蒼い大海が、果てしなく彼を迎える。遠くで母の声が聞こえたが、ペオの心は既に彼方の海へ飛んでいた。


「シェルトー! シェルトー!」


 大声で名前を呼ぶと、波の向こうからスコットリスの姿が現れた。


「シェルト、おはよう。今日はよろしくね」


 シェルトはくるりと泳ぎ、尾鰭を海に叩きつけた。水しぶきが、波紋が広がる。軽快なリズムで水面を打つシェルトの尾が、ペオを呼び寄せるように見えた。


「これから、もっとたくさん遊べるね!――どこまで行く? 海のもっと深いところまで行ってみたいな――どっちが早く泳げるかも競争したいよね?――さっそく明日どこ行く?――えぇ?まずは練習って? 僕大丈夫だよ。今だって結構泳げてるし。心配ないよ?――えぇぇぇ。大丈夫だってば。ママみたいなこと言わないでよ――」

「ペェェェーオォォォー!!!」


 シェルトと話し込んでいると、遠くからエムスタが駆け寄ってきた。その姿に気づいたペオは、さっと身を縮めて振り向くと、すぐにシェルトに向き直りまた話を続けた。


「――まったく。ちょっと待ってって言ったのに」

「ちゃんと行っていいか聞いたよ」

「途中だったでしょ!――おばあちゃんたちに御礼言おうねって言ったのに」

「ごめんね?わかってるよ。ちゃんと後で御礼するから。ね?――ねぇ、シェルトの近くまで行きたい! 今日、僕誕生日なんだよ。ね?いいでしょ?」

「――まったくー」


 エムスタが冷気を放つと、海面に薄氷が次々に広がり出し、シェルトのいる場所まで銀の道ができていく。


「――ほら、行っておいで」

「ママ! ありがとう!大好き!」

「――ったく、調子がいいんだから」

「シェルト、おはよう。今日は、ペオのことよろしくね」

「ねー! シェルト、改めてよろしくねー!」

「ずっと、待ち遠しかったもんね。ここ一カ月楽しみすぎて大騒ぎだったんだから」

「だって、早く泳ぎたいよ!明日も早速どこか行こうかと――」

「いきなり一人で遠くまで泳ぐのはだめだからね? いい?誰かに必ず声かけるのよ」

「――えー、わかってるよー」

「練習が必要なの。練習に練習を重ねて――そうね、ロロやロディくらい泳げるようになったら一人でもいいわよ」

「大丈夫だってば―。僕泳ぐの得意だよ」

「――ペオ?」

「――わかってる――ん???」


 シェルトと夢中で戯れていると、ペオの頭上が重たくなった。彼の頭の上に着地したのはリリーだった。ペオが頭に手を伸ばそうとするが、リリーは素早く避けてかわす。それを見てエムスタが、手を差し出してリリーをペオの前に持ってきた。


「――ペオ、リリーよ」

「リリー?」

「――呼びにきてくれたの?」


 ペオの視線が広場の方に向かう。そこでは、彼の誕生日を祝う準備がすでに整えられ、海岸は賑やかさで満ちていた。チャソタパスやサイデンフィルの姿も見え、主役のペオを待ちきれずに、皆の歓声と笑顔が広がっていた。


「ペオ―!! おめでとうー!!」

「準備できたよー!! おいでー!!」


 ペオに気づいたラリスとロディが、海岸から大きく手を振り、満面の笑顔をこちらに向けている。それを合図に、周囲の人々も次々に手を振りながら、温かな祝福の声を贈っていた。


「――ほら、いきましょ」

「はーい! シェルトまたね」

「シェルト、ありがとね。またあとで声かけるから、みんなに伝えておいてくれる?――ありがとう」


シェルトは深い蒼にゆっくりと身を沈め、海の彼方へと姿を消していった。その姿を見送ると、ペオはエムスタと共に駆け出し、祝福へと向かっていった。

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