偏屈サンバ

南雲

第1話 

 

 昼下がりの図書館は、安穏とした空気に包まれていた。

スミは名簿整理の手を止め、館内を見渡した。

のそりと立ち上がり、ニスが剥げ、ささくれ立った窓の木枠を、ぐっと押しだす。

図書館に、ギ、ギギィーっと悲鳴のような音が鳴り響いた。

取り憑かれたように机にかじりついていた顔が、一斉にバッとこちらを向く。

スミは首を竦めると、窓から流れてくる生暖かい風に背を向け、すごすごと作業へと戻っていった。


 平日の昼間ということもあって、館内は数えるほどの利用者しかいなかった。

広辞苑と見まがうほどの厚みのもった名簿をめくっていると、じわりと汗が滲んできた。

いくら古いとはいえ、クーラーくらいつけてくれればいいのに。

汗を拭いながら、ブラウン管のようなパソコンに、一心不乱に打ち込んでいく。

小さな図書館とはいえ、やらなければならないことは山ほどある。

館長から「名簿をデータ化してほしい」と言われたときは、比喩ではなく立ち眩みがした。

図書館奥の倉庫内には、戦後から受け継がれてきた名簿が、何百冊も保管されているのだ。

書籍のジャンルも多種多様で、専門書だけでなく、小説や児童文学、絵本もあるので、画面から表が、はみ出しそうな勢いだ。

「また、このパターンか……」

スミは舌打ちしそうになったのを、すんでのところで止めた。

手書きの名簿に書かれた『近藤さんが寄贈した本』の文字を、睨みつける。

近藤さんが寄贈した本なのはわかるが、タイトルや作者名がどこにも記載されていない。

どうしろって言うのよと独り言ちながら、あとで聞く用リストに振り分けた。

ふと今年の名簿が目に入る。

B5の薄いノートは、利用者の減少を如実に表していた。

ここが潰れてしまったら、どうすればいいのだろう。どうしていくのだろう。

湿った匂いが鼻先をくすぐる。

雨を含んだ大きな灰色の雲が、空一面を覆っていた。



 「司書にすれば」と母に言われたのは、高校二年の夏だった。

朝のホームルームで、進路希望用紙が配られ、初めて『将来』というものを、突きつけられた。

スラスラと空白を埋めていく級友を横目に、ペンを握りしめたまま、隠すようにカバンにしまった。


 帰宅したあとも、制服のまま頭を悩ませていたら、

「司書が良いと思う」と呟く声がした。

顔をあげると、後ろから顔を突き出した母が、用紙から目を離さずに続けた。

「うん、司書が良いよ。だってスミちゃん、本好きでしょ?」

有無を言わせないような響きに、思わず小さく頷いた。

「うん。嫌い、じゃない……」

「じゃあ、それで決まり!さっさと書いちゃって早く着替えちゃいなさい」

そう言うと、鼻歌を歌いながらキッチンへと消えていった。

モヤモヤする気持ちに蓋をするように、勢いよくボールペンを掴むと、用紙の上

に滑らせた。

やりたいことも、得意なことも、――何ももっていない自分から、早く目を背けたかったのだ。


 『夢』を書いた日から、スミの人生は変わった。

というのも、母が大いに張りきりだしたのだ。

「はい!集めるの大変だったのよ?」

ずらっとダイニングテーブルに並べられた資料を、呆然と眺める。

「あと、これも。スミちゃんのために、お母さん徹夜して作ったんだから。しっかり頑張って、司書になるのよ」

ずしっと手に乗っかる冊子の表紙に目をやると、『司書になるためのロードマップ』の文字が、燦然と輝いていた。

「これ……」

「あーあ。お母さんももう少し若ければ、司書になれたのに。ちゃんと感謝しないといけないよ?お母さんの時代なんて、先生になるか嫁にいくかしか、選択肢がなかったんだから」

言葉を失い、冊子を見つめたまま立ちつくした。

既にレールは敷かれてしまった。

沸きあがる閉塞感に、息が詰まりそうだった。

それでも、他の選択肢など、空っぽのスミにあるはずもなかった。


 母が敷いたレールに乗ったスミだったが、司書への道のりは想像していたよりも、ずっと大変だった。

紆余曲折を経て、三十手前にしてようやく採用の連絡が来たときは、喜びよりも安堵の方が大きかった。

やっと肩の荷を下ろせる、そう思った。

受話器越しに放たれた「これからはどれだけ長く、そこで働いていけるかだね」という言葉を聞くまでは、ゴールを迎えられたと本気で信じていた。

でも、終点なんかではなかった。

日常は滞ることなく続いていって、これから先は、一人で進まないといけなくなっただけだった。

燃料を失った列車は、戻ることも、進むこともできず、出口のみえないトンネルの前で佇んでいた。

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