第12話
「何て言えばよかったのかねぇ、ミツルちゃん」
カナが去っていった後、そのまま帰る気になれず、ミツルが働いている居酒屋へ押しかけた。客がまばらな店内で、カウンターの一番端の席に座り、酒を片手にかれこれ一時間ほどくだを巻いている。
「珍しく酔っぱらってるねえ」
ミツルはカウンターの向こう側で、せっせと下ごしらえをしながら、困ったように眉尻を下げた。
「カナちゃんは癇癪屋さんなところがあるからねえ。明日には案外ケロっとしてると思うけど」
「そうかなあ……」
トンっとジョッキを机の上に戻すと、ガラスの表面にくっついていた水滴が流れ落ちた。
そういえば、昔からカナは予想外の出来事に対して耐性が弱かった。
嫌がらせを受けても、悪口を言われても、あっけらかんと器の大きさを見せたかと思いきや、電車の遅延や急な天候の変化など、どうしようもないようなことで、怒り狂っていた。
まるで世界が崩壊するほどの大惨事に見舞われたかのような言い様に、ミツルと二人で文字通り言葉をなくしてしまった。
しばらく見ていなかったから、すっかり忘れてしまっていた。
「へい、いらっしゃい!」
ガラガラと扉が開き、仕事終わりのサラリーマンがどかどか入ってくる。
店内に響く活気のある声から逃れるように、身体を小さく丸める。こんな意気地がないから、カナから何が出来るって聞かれた時に何も答えられなかったのだろうか。
ぐいっとビールを煽る。
「ミツル~。スミさんは、役立たずです」
「ああ、もう。普段そんな飲まないのに」
握りしめていたジョッキを奪われ、遠ざけられた。
「ほんと珍しいね。ここまで酔うの」
はい、と目の前に水が差し出される。
くたびれた顔が、氷の浮かんだ水面に揺れながら映る。
大人になれば、小説やドラマの中の主人公のように、多くの人と関わり合いながら、充実感に満ち溢れた日々を過ごしているもんだとばかり思っていた。
でも実際は、ちっぽけで未熟なまま、責任ばかりが増えている。
「家事に、育児に、仕事。そりゃあ、大変だ」
「そうねぇ」
「やっぱり空いてる時間とかに、送り迎えとか買い出しだけでも、やってあげた方が良いかな」
「うーん。でもスミちゃんは、今それどころじゃないでしょ?カナちゃんには旦那さんもいるんだし、僕もサポートするから大丈夫だよ」
「でも出来ることするって言ったのに、その気持ちは嘘じゃないって思ってたのに、何もしないってことは……」
『スミにはわからない』
カナが放ったその言葉が、毒のようにゆっくりと身体中に広がり、胸を締め付けてくる。
私にはカナみたいに、守るべき存在も、キャリアも、目標もない。
すっと引かれた一線は、何もない、空っぽな自分を突きつけられたような気がした。
カランと氷が落ちる。
それどころか、いつも自分のことばかりで、困った友人を快く助けることもできない。
ぐっと握りしめた手のひらに、爪が食い込む。
「こんなやつに、生きている意味なんてあるのかな」
ずっと頭の隅にあった想いが、ぼろりと涙とともにこぼれ落ちる。
頭上から小さく息を吸う音がして、慌てて涙を拭う。公共の場にいることを忘れていた。こんなことを言われても、ミツルも困るだけだ。ビールジョッキを手繰り寄せ、かかえるようにして顔を隠す。
「なんて…」
「あるよ」
ミツルの声が、静かに、明瞭に響く。おどけようと動かした口角が、中途半端に上がったまま、ジョッキの裏で固まる。
「ある。生きててくれなきゃ困る」
低く毅然とした声が、だんだん震えてくる。
「スミちゃんが居なかったら、誰が僕の事を慰めてくれるのさ……」
ミツルは涙声で吐き出すと、ビールジョッキを抱えたまま震える私の背中を、押すように、何度もさすった。
「僕、自分のお店出そうと思ってるんだ」
ようやく顔をあげられるようになった私に、おしぼりを渡しながらミツルは言った。
「え?」
貰ったおしぼりをまぶたに当てながら、ミツルの方を見る。
「前から興味はあったんだけど、お金も時間もかかるし、彼氏もいい顔しないだろうなって、諦めてたの。でももう別れたし、やりたいことやっちゃおうって思って」
照れ隠しなのだろう、キランと言ってポーズを決めるミツルに、思わず苦笑する。
「いいじゃん、ミツルの新しい夢。ということは、夢のマイホームならぬ、夢のマイ料理店?」
「いや、マイ料理店って。せめてマイレストランって言ってよ。やっぱりスミちゃんの使う言葉って、古臭いというかダサいよねえ」
「何だって?」
すっとジョッキを持ち上げる。
「わわ!鈍器!」
目を合わせて、同時に吹き出す。
「あ、でもマイホームの方も諦めてないから。僕は二兎を追って二兎とも得るからね!」とミツルがニッと笑って続ける。
「だからさ、スミちゃんも遠慮してないで、もっと堂々とわがままになってもいいと思うよ。もう、頑固なくせに人の言うことを真に受けやすいんだから」
爽やかな笑顔のまま、急に毒づき始めたミツルに眉間に皺を寄せる。
「それは、どういう……」
「あと嘘をつくのも下手!適当に合わせちゃえば楽なのにさ。バカ正直というか、一周回って天邪鬼というか……」
「あ、なるほど。喧嘩を売られてるのか」
再びジョッキに手をかける私を、ミツルが慌てて止める。
「つまり、真面目に考えすぎだってこと。スミちゃんの気持ちが嘘か嘘じゃないかなんて、人や何かで測ることじゃないと思う。何が相手のためになるかなんてわからないんだから、スミちゃんのやりたいようにすればいいんだよ。相手の求めるままに応えてたら、この間の僕みたいになるよ。それを教えてくれたのはスミちゃんでしょ?」
ミツルの言葉に、頭にかかっていた靄が晴れる。
「僕ももう後悔するのは嫌だから、これからは思う存分、わがままに生きる!」
そう言って手を突き上げる姿が、記憶の中のそうちゃんの姿と重なる。
『わがまま、我がままに生きる』か。自然と口角があがる。
「いやあ、さすが数多の恋に破れてきた人は、言うことが違うねえ」
「そうでしょ!って大きなお世話だよ!」
コップをみると、氷はすっかり溶けていて、コップの下には水溜まりが出来ていた。濡れたコップを掴み、一気に飲み干す。ぬるくなった水が、じんわりと乾いた身体に染み渡っていく。
「ミツル。ありがとう」
ミツルは照れくさそうに後頭部を摩ったあと、小さく「ぬん」とへんてこな返事をした。
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