収蔵庫から聞こえる音について

今度の企画展について


今度の新しい企画展は「美術館 秘蔵の名品展」というタイトルになりました。


今回の企画は、館に収蔵されている作品の中で、特にこれまであまり展示されていなかった作品や資料たちを、「秘蔵」という枠組みで展示するものです。


この展覧会は私が主担当です。日の目を見ていなかった作品に日の目を当てると言うアイデアも、私の提案がベースになっています。自分のアイデアがベースになっているという喜びと責任感から、私はいつも以上に張り切って準備に取り組みました。朝から晩まで業者と打ち合わせを行い、イベントの他にも、展示レイアウト、作品の配置、PR戦略など、細部にわたって議論します。スタッフとの打ち合わせでは、「企画自体は面白いが、有名な作家の作品を借りてくるわけではないから集客に苦戦しそうだね」という話になりました。来場者を呼び込む為に、ワークショップなどのイベントを企画することになりました。正直、あまり効果があるかはわかりませんが……やらないよりはマシでしょう。


そんなある日、いつものように感じで慌ただしく事務所で展示の準備をしていると、同じ館で働く先輩の様子が、なんだか少しおかしいことに気づきました。普段は学芸員として、落ち着いていて頼りになる先輩なのですが、その日はどこか落ち着きがありません。私が資料に書かれていることについて質問をしても「うん……」と呟くだけで、どこか上の空です。じっと事務所の入り口の方を眺めたり、玄関ロビーから展示室の方を覗き込んだり、ずっと何かを気にしている様子でした。先輩の不安の正体は、私にはわかりません。しかし、その不安は私にも伝染してくるようで、それは傘のない帰り道に急に夕立が来る直前のような、妙な現実味を持って、仕事をしている私の意識を侵食していくのでした。


「あの……先輩、大丈夫ですか?」


どうにもたまらなくなり、私は先輩に声をかけました。「何か気になることでもありますか?」先輩は一瞬驚いたように私を見ましたが、すぐに「大丈夫」と答えました。その顔はどこか引きつっており、先輩の言っている「大丈夫」が嘘なことだけは、はっきりと伝わりました。「そうですか?けど先輩さっきから


コンッ……コンッ……


突然の物音に、私と先輩は、目を見合わせました。


音は、廊下の奥の収蔵庫の方から聞こえてきます。壁越しに、乾いたもので、何かを叩くような音。最初は微かな音だったそれは、次第にはっきりと、その音を聞き取れるようになってきました。それは先輩も同様のようで、じっと音がする方を見ています。美術館では、古い建物特有のきしみ音や、年式の古い空調の音が響くことはよくありましたが、明らかにそれとは違う乾いた音が、断続的に聞こえてきます。私はなるべくその音が気にならないように努めましたが、先輩ははっきりとその音に怯えているように見えました。彼女の顔は青ざめ、どうしていいかわからない様子でした。


私は、私にまとわりつく恐怖という感情にこれ以上支配されないよう、自分のしていた仕事を思い出すように努めました。


ここは山奥にある美術館なので、たぬきやハクビシンなどの動物が入ってきてもおかしくはありません。しかし、もしそうじゃなかったとしたら、あの音はなんなのでしょうか。私は自分のデスクPCの画面に視線を移し、デスクトップに広がった煩雑なフォルダの整理を始めました。その音は収蔵庫から鳴り続けています。先ほどよりも、音はどんどん大きくなっているように感じます。気にしないようにしようとすればするほど気になってくる。そんな悪循環に、私は陥っているようでした。


それからしばらく時間が経つと、その音は次第に小さくなり、やがて事務所には静寂が戻ってきました。隣の先輩を見てみると、少し落ち着いた様子でしたが、結局その日は体調不良ということで、すぐに早退してしまいました。結局のところ、あの音はなんだったのでしょう。収蔵庫に入り込んだ野生動物の足音でしょうか。もしくは本当に何かがいたのでしょうか。それとも疲れが生んだ幻聴だったのでしょうか(しかし、幻聴を二人同時に聞くことなんてあるんでしょうか)。


翌日は、私と副館長の2名体制での勤務でした。昨日の一件を、それとなく副館長に相談してみると「それは動物かもね。ひどいようだったら、駆除業者を呼びましょうか」と言ってくださり、私はすっかり安心したのでした。その翌日に出勤してきた先輩は、いつも通りの笑顔を取り戻しており、しばらくすると、そんな出来事があったことも私はすっかり忘れてしまったのでした。


それから数日たったある日、私は事務室で、一人で資料の整理をしていました。他の職員はすでに全員が帰宅し、館内には私一人しかいません。館内は普段よりも静けさを増し、非常灯だけが薄暗く光るホールは、昼間の賑わいとは対照的に不気味なほど静まり返っていました。紙の資料をめくる音が、いやに大きく聞こえます。


コンッ……コンッ……


また“あの音”が聞こえてきました。2回目ともなると多少の余裕が出てくるようで、「動物だったら棒で追っ払ってやろう!」とか「古い空調が変な音を出してるんじゃないか?」とか、そんなことを私は考えていました。


コンッ……コンッ……


その音は、収蔵庫のほうから聞こえているようです。音は一定のリズムで、微妙に位置を変えながら響きます。その音は、収蔵庫には分厚い耐火ドアの奥から聞こえくるようでした。スチール製のドアの隙間から漏れ伝わる音は、低音が嫌に響いていて少々不気味でしたが、不思議と恐怖を感じることはありませんでした。


その時、ふと、大学生時代に聞いた怖い話を思い出しました。それは、とある大学生の男の子が地下室に閉じ込められ、そのまま誰にも気が付かれずに死んでしまうという話でした。


収蔵庫は、窓がなく、真っ暗で、入り口は重い防火扉で閉じられています。もし、誰かが閉じ込められていたら?今も助けを求めて、開かない扉の内側を掻きむしっているとしたら?そんなあり得ない想像が少しだけ頭をよぎりましたが、すぐにかき消しました。……普通に考えて、そんなことはありえません。収蔵庫の中には警備システムが入っているので、誰かが入り込んでもすぐに警備システムが作動するでしょう。そもそも内線が通っているので、閉じ込められたらそれで事務所まで電話してくればいい。


コンッ……コンッ……


そう思い込もうとする私を邪魔するように、扉の奥から音は鳴り続けます。「中に誰かがいるかも?」という想像は、一度引いた海の波が、前よりももっと深くこちら側に流れ込んでくるように、だんだん大きくなってくるようです。合理的な理由を頭の中に思い並べるほど、隠そうとした悪い予感がよりリアルに輪郭を帯びていくような気がしました。


……そういえば、私もこの美術館に勤め始めてすぐのころ、一人で収蔵庫に閉じ込められたことがありました。誰かが、私が中にいることに気が付かず、間違ってドアを閉めたのでしょう。真っ暗な収蔵庫の中で、手探りで内線の受話器を探り当てた私は、何とか事務所にいた副館長に助けを求めることができたのでした。私を助けた副館長は「みんな一度は収蔵庫に閉じ込められるんだよ。災難だったね」と笑っていました。懐かしい思い出が蘇り、思わず笑みがこぼれました。


あの音は、いつの間にか聞こえなくなっていました。

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