第2話 行き詰まりの生活

 都市の片隅、陰気な背割り長屋の端にある一部屋が、アストン家に嫁ぐ前のチェリー・ワイルダーと甥のノエルの棲み家だった。

 ドアに向かって右側の部屋は、子沢山で常に怒鳴り声と泣き声の聞こえる一家。左側は、清掃の行き届いていない共用便所である。

 環境は、すこぶる悪い。


 ワイルダー家は、数年前まで農村部の一軒家に住んでいたのだが、両親が二人娘を連れて仕事を求めて都市に出てきた後、戦争が始まった。

 当初は工場で働いていた父は、招集に応じて戦地に赴き、戦死の知らせの紙一枚となって帰宅をした。


 チェリーの姉、ラモーナは赤毛に青い瞳で美しい容姿と歌声の持ち主であり、酒場で「歌姫」の仕事を得ていた。しかし、戦争の激化に伴い、その仕事内容は戦地への慰問に変わっていった。

 やがて、仕事先でひとりの兵士と恋に落ち、ノエルを生んだ。「相手は貴族の若様なのよ」と目を輝かせて言っていた。

 産褥の床から起き上がるなり、ラモーナはノエルをチェリーと母親に預けて戦地へと舞い戻った。

 そこで、意中の相手と一緒に手榴弾に吹き飛ばされて命を落とした。


 残されたチェリーとその母は、絶え間なく稼働している工場で、昼夜のシフトで分担しながら勤務を続け、なんとかノエルの世話をしていた。だが、ノエルが三歳になった矢先、無理がたたった母は、風邪をこじらせてあっけなく死んでしまった。


 残されたのは十九歳のチェリーと、三歳のノエル。

 母の葬儀を出したものの、食べるものもお金もすぐに底をついてしまい、明日の暮らしにも困る有り様だった。


 長引く戦争のため、工場は人手不足にあえいでいて、未熟練な労働者を次々に投入しているだけに、仕事はある。

 しかし、賃金の支払いは渋い。親はなく「子持ち」のチェリーは足元を見られ、未払の憂き目を見るかもしれない。そもそも、三歳のノエルをひとり家に残して出ていくのは難しい。

 実際、おそるおそる出勤してみたが、一日目は乗り切れたものの、二日目でトラブル。

 帰ってきたら、ノエルがチェリーを探して家を飛び出して迷子になっていて、探すだけでずいぶん時間を浪費した。


(「雨が降ったら土砂降り」ね。悪いことは重なると言うけれど)


 疲れ切ったノエルと、具のないスープを分け合って飲んで午後まで寝た。

 まだ明るい時分、ドアを乱暴に叩く音が響いて目を覚ました。


「おい、いるんだろチェリー。お前、乳飲み子抱えてひとりで、ずいぶん苦労しているみたいじゃないか。相談乗ってやるから、このドアを開けろよ」


 どん、がん、と戸を叩かれるたびに、パラパラと天井から埃が落ちてくる。

 声の主は、戦場帰りの傷病兵。同じ長屋住まいであるが、昼夜問わず酒浸りで問題行動を起こしている、鼻つまみ者だ。

 急な訪問理由は、どう考えてもまともな内容ではないだろう。


 チェリーとしては居留守でやり過ごしたかったが、「なに、どうしたの?」とノエルが騒ぎ出したために、そうもいかなくなった。

 嫌々ながらドアに近づき「なんの御用でしょう」と尋ねる。


「ああ? よく聞こえないな。ドアを開けろよ。娼婦の妹が、お高くとまりやがって」


 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。


(姉さまは娼婦ではなく「歌姫」よ! 戦場で恋に落ちたのも、子どもを孕んだのもすべて本人たちがそう望んだからだわ!)


 カッと、頭に血が上る。

 それでも、ここでドアを開けるのだけはいけない、とよくわかっていた。

 チェリーはノエルを守らなければならない。恐ろしい目に遭わせてはいけない。

 だが、男の強引な殴打に、建付けの悪いドアはあえなく壊れて、蝶番の音をキィっと虚しく響かせながら開いてしまった。


 シャツのボタンはずれたままいびつにとまり、ズボンのずり下がっただらしない服装をした、赤ら顔でにやりと笑った男。片側の袖に通す腕はなく、布だけがはためいている。

 ノエルを背後にかばって立つチェリーを見て、相好を崩した。


「姉に比べて妹は芋臭いと思っていたが、まぁこんなもんか」


 舌なめずりをしながら、一歩踏み出してくる。


「なんの用ですか? 家の中に、勝手に入って来ないでください」


 この期に及んで、男の狙いがなにかわからないほど、チェリーはおぼこくはない。


(これだけ騒いでいるのに誰も駆けつけないってことは、大人たちはみんな留守か、見て見ぬふりか……。片腕とはいえ、力押しをされたら厄介ね。どうにか隙をついて、逃げ出さないと。せめてノエルだけでも)


 腹に力を入れて、大きく息を吸い込む。

 発声には、自信がある。

 チェリーは「歌姫」として人前で歌を歌ったことはないが、ラモーナの練習に幼い頃から付き合ってきた。

 いつかあなたも歌姫になればいいのに、とラモーナはさかんに褒めてくれた。

 ラモーナの美貌、華やかさをまぶしく見ていたチェリーは「自分には無理だと思う」といつも話を濁してきたが、いざとなれば姉に教えてもらった呼吸法がすぐに思い出された。


「誰かー!」


 大声を上げた瞬間、男が「てめぇ」と凄みながら突進してくる。チェリーはかわそうとしたが、スカートの裾にノエルがしがみついていて、うまく身動きがとれなかった。


(殴られる……!)


 覚悟した瞬間、咳払いが響き渡った。


「ん。んんっん」


 男はぎょろっと目を剥きながら、勢いを殺しきれずにバランスを崩してその場に膝をつく。瞳には「何をした?」という疑問が浮かんでいたが、チェリーだってわからない。

 ノエルを抱き上げながら、一歩後退した。

 そのとき、男の背後に立つ人影があることに気付いた。


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