十二 八重の日常

 曇天の水無月(六月)二十七日。

 越後屋の夜盗の一件が解決し、与力の藤堂八郎に休みが与えられた。だが、いつもの習慣で、八郎は朝五ツ(午前八時)に北町奉行所へ出仕したが、非番だったと気づき、日本橋元大工町の長屋に戻った。

「旦那様。どうしました」

 朝餉の片づけを終えて呉服を仕立てはじめた八重は、仕立ての手を休めずに八郎に微笑んでいる。

「奉行が、今日は事件解決の褒美だと言って非番にしてくれたのを、忘れておった」

 畳の間に上がった八郎は、刀(打刀と脇差)を外して刀箪笥に入れた。


「それは良うございました。そしたら、旦那様にお願いがあります。

 聞いてくださいますか」

 今日一日、八郎様とともに過ごせる・・・。そうと思うと、呉服を仕立てしながら八郎を見る己の顔が次第に笑顔になってゆくのが、八重はわかった。

「わかった。聞こう」

「今日一日、八重が何をしているか、見守ってくださいな」

 呉服を仕立てながら話す八重の顔から笑みが絶えない。

「見ているだけで良いのか」

「はあい。見ていてくだされば、その場が引き締まりまする」

 己の言葉に、八重は納得したように頷いている。


「お目付役のようだな」

「はあい。お目付役にございます」

 八重は朗らかに甘えるようにそう言った。

「どこでお目付をするのだ」

「ここです。

 朝五ツ半(午前九時)から昼四ツ半(午前十一時)までと、

 昼九ツ半(午後一時)から昼八ツ半(午後三時)までです」

「手習いと算盤だったな・・・」

 八重が長屋で読み書き算盤を教えているのは知っているが、実際にどうやって教えているか聞いたことがなかった。書き物机もないこの長屋の六畳で、どうやって読み書きを教えるのだろう・・・。


「一度に五人です。朝と昼過ぎの刻限で一日十人。

 三日に一回の割りで来ますから、全部で三十人。

 この長屋の子どもたちに読み書き算盤を教えられまする」

 そう言って八重は微笑んだ。そして、柳行李に仕立て物と針道具を入れて部屋の隅へ押しやり、もう一つの柳行李から、反物の切れ端を縫い合わせて作った敷物を出して畳に拡げた。どうやら、この敷物の上で書き物をさせるらしい・・・。

 それにしても、なぜこれほどまでにして、読み書き算盤を教えるのだろう・・・。

 八郎がそう思っていると八重は語った。


「陸奥の国の山背(やませ)(冷害)による飢饉で苦しんだのは、百姓や町人でした。読み書きができなかったばかりに、悪徳商人の証文に騙された者も多ございました。

 読み書きができれば、借金の証文を熟読したはずでした。騙されて田畑の借用証文や家を手放すことも、娘を売ることも、己の命を絶つこともなかったはずでした・・・」

 八郎の疑問に答えるように、八重は涙ながらにそう話した。



 朝五ツ半(午前九時)頃。

 三々五々子どもたちが集った。土間に立って挨拶する八郎を見ると、子どもたちは、

「こんにちは、八重お姉ちゃんの旦那様」

 と礼儀正しく挨拶して畳の間に上がった。八重の指示に従って敷物に正座し、持ってきた風呂敷包みを開けて硯箱を取りだした。

「さあ、今日の練習は・・・」

 八重は衣紋掛け(えもんかけ)に、今日練習する文字を書いた和紙を吊して、子どもたちに和紙を渡した。

 八郎が八重の長屋から出仕するようになって三ヶ月近くになる。長屋の子どもたちとは顔見知りだ。日頃は腕白な子どもたちも、八重の前では態度が違う。八重は礼儀作法も教えているらしかった。八郎は土間から、衣紋掛けに吊された和紙の文字を読んでその字を和紙に書き写す子どもたちを見続けた。


 午前中の教授が終わった。子どもたちは来た時のように礼儀正しく挨拶して帰っていった。

「今日は旦那様がいたので、皆が静かに無駄なく学びました。

 いつもは、にぎやかなのですよ」

「なるほど、お目付役の意味がわかった」

 この狭い長屋で読み書きの練習は大変だ。こんな事を、八重はこの長屋で暮すようになって以来、ずっと続けてきた・・・。仙台での冷害による飢饉を体験しただけに、百姓町人への思い入れが強いのだろう・・・。

 この日、八郎は八重の成す事を黙って見守り続けた。



 翌日。曇天の水無月(六月)二十八日。

 出仕後、八郎は従叔父の吟味与力藤堂八右衛門に、昨日の八重の様子を報告した

「うむ。読み書き算盤を教えるきっかけが、読み書きできぬ百姓が飢饉の際に悪徳商人に騙された事だったとはな・・・」

 八右衛門は驚くと同時に、八重の思いに感銘を受けた。

 なんとしても八郎の正妻にしたいものだ・・・。しかしながら、八重を組屋敷に閉じこめたのでは、八重は思いを果たせなくなってしまう。そうなっては、これまで八重が行ってきた事が無駄になる。八重の才を埋もれさせてはならぬ。八郎の正妻としても、読み書き算盤の教授者としても、才を活かす方法はないものか・・・。

 八右衛門は思案に暮れた。

「八郎。北町奉行に話してみよう」

「はい」

 八右衛門は北町奉行所の世話役に、北町奉行へ話を取り次いでもらった。


 八右衛門の話を聞いて、北町奉行は感銘を受けた。

「夜盗事件解決といい、読み書き算盤の教授といい、殊勝な行ないだ・・・。

 何とかして八郎の正妻にしたいものじゃな・・・」

 そうは言ったが、北町奉行にも、とんと妙案は思い浮ばない。

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