第十二話 俺達と女の子達が家族と別れて第二の故郷を出発する話
十七日目の朝、ユキちゃんの家の前には、馬車が停まっていた。そこには、早くにもかかわらず、イリスちゃんやアースリーちゃん、村の女性達が、見送りに集まっていた。男性達は、飲み明かして酔っ払った挙句、家で寝ているか、中央広場の地面で寝ている。
俺達は縮小化して、ユキちゃんの白い外套の中、左腕に巻き付いている。彼女はすでに、家の中で母親と笑顔で別れの言葉を交わし終わっていた。
「ありがとう、みんな。こんなに集まってくれて嬉しい。最後のお別れでも、長いお別れでもないから、普通に笑顔でお別れするね。みんな、またね! また帰ってくるから! その時は、昨日みたいに、またみんなで笑い合おうね! あ、広場で寝ている人を馬車で轢かないように、遠回りするから安心してね! それじゃあ!」
ユキちゃんはユーモアを交えた別れの言葉を言うと、手を振りながら馬車に乗り込んだ。アドの合図で、馬車も進み出し、家を離れていく。
見送っていた人達が、その馬車にずっと手を振っているのを、監視用の触手から俺達は見ていた。馬車の中で、俺達はユキちゃんの左腕から離れ、縮小化を解いた。彼女の様子を伺うと、彼女の目には、今にも溢れ出さんとするほどの涙が溜まっていた。
そして、彼女の瞬きで、その涙が頬を伝った。俺達は、その涙を舐め取った。
「おかしいね……。何でこんなに涙が出てくるんだろう……。普通にまた会えるのに。やっぱり、大好きな人達とは少しでも離れたくない、って無意識に思ってるのかな。
私、『勇運』があれば、もう一生泣くことはないのかなって思ってたけど、全然そうじゃなかった。自分から行動してるのに、お父さんやお母さんの前で泣いたし、昨日だって、みんなの優しさに泣いた。ついさっきも、みんなとの別れで泣いた。
きっと、悲しくて泣いたわけじゃないからだよね。これからの私にとって、必要な涙だったんだ。その分、いっぱい笑えるし……。これが『私』なんだよね。また、分かっちゃった。泣いて笑えるからこそ、『セフ村のユキ』だってこと。ちゃんと受け継がれてるんだ……。よーし! 頑張るぞぉぉぉぉ!」
ユキちゃんは、気合いを入れて、かわいく両手を握り締めた。彼女は、セフ村の人達の想いを背負っていると同時に、自分自身もその内の一人だと自覚することで、これからのやる気を、より引き出すことができたようだ。それは、ユキちゃんの行動力に繋がり、『勇運』に繋がるから、彼女にとっても俺達にとっても大事なことだ。
特に今回は、生まれて初めての旅だ。不安になることもあるだろう。そんな時は、村のことを思い出して、元気になってくれればいいし、俺達もいる。完全な一人旅ではない。一緒に頑張っていこうと俺も心に誓った。
レドリー邸では、皆、朝食をすませ、一度部屋に戻ったクリスが、辺境伯の部屋に契約完了報告に向かおうとしていた。
「クリス、私も行こう」
「私も行きます」
シンシアとリーディアちゃんが、真剣な表情でクリスの後ろに付いた。クリスは振り返って、二人を見つめた。
「二人とも……。どうして……」
「シュウ様の教えの通りだ。リディルお父様を信じていないわけではないが、『万が一』があっては困るからな」
「もし、お父様がクリスお姉様を否定したら、私はその場で怒り狂って、家も出て、お二人に付いて行く覚悟です。どんな出自であろうと、お姉様はお姉様ですから!」
「……ありがとうございます。それではお言葉に甘えて……。一緒に付いてきていただけますか?」
『もちろん!』
三人は手を繋いで、辺境伯の部屋に向かった。
手を繋ぐ前までは、クリスの手は震えていた。しかし、今ではその震えも、二人の温かい手によって完全に収まっている。彼女の一歩一歩にも恐れはなかった。
「失礼します」
辺境伯の部屋の扉をノックし、入室を促されると、三人は辺境伯の前まで進んだ。彼もまた、椅子から立ち上がり、彼女達に近づいた。
俺達は棚の上に移動し、様子を見守る。
「クリスだけを呼んだはずだが……。少なくとも、リーディアは出ていきなさい」
「いえ、私もここでクリスお姉様と一緒にいます」
リーディアちゃんは、てこでも動かないぞというほどの真剣な表情で、真っ直ぐ辺境伯を見つめている。
「では、シンシア。君が聞く必要はない話だから、退室してくれるか?」
「いえ、私もここでクリスと一緒にいます」
リーディアちゃんと同じ言葉を辺境伯に返すシンシア。リーディアちゃんとシンシアの目を、真剣な表情でしばらく見ていた辺境伯。
「はぁ……分かった。そのままでかまわない。クリス、時間がかかるとも思えないので、このままの立った状態ですまないが、口頭で報告を頼む」
「はい。契約書別紙の通り、レドリー領居住可能域拡大のため、同領北東部に、それぞれ国内最大級の結界を期限までに四つ張りました。また、別紙には、その個数によって報酬は変わるとあり、追加で一つ張りましたが、委託者の許可を得ずに張ってしまったため、その分の報酬は受け取らない予定でしたが、委託者と話し合った結果、今後の契約受託者の報酬に上乗せするということで一致しました。上乗せ方法については、一任します。
次に、新たに締結した覚書に、定められた期間の屋敷の防衛任務が追加されましたが、それを無事に遂行しました。期間中に確認した不審者はすでに簡易報告済みですが、今後の動き次第で、こちらから改めて報告することになっています。その場合の報酬は、本覚書には含まれていないので、別途請求することになります。
最後に、ご相談を受けた催眠魔法への対処ですが、丁度この街を訪れる予定だったセフ村のユキ=リッジさんに連絡をしました。今日中には街に到着し、伝言の通り、ここに向かってくるはずなので、その件は彼女とご契約ください。ただし、その契約には、交通費、護衛費、宿泊に伴う費用全てを含め、宿泊場所はこの屋敷にしてください。
当該契約で、もし私に紹介料をいただけるのであれば、彼女の報酬に上乗せしてください。私の分の依頼達成証明書は、私が直接、城下町ギルドに持っていきます。
以上、本契約に定められた任務を全て遂行し、昨日二十三時五十九分を持ちまして、契約終了となりました。ありがとうございました」
「素晴らしい報告だった。こちらこそ、ありがとう。また何かあれば、その時はよろしく頼む」
「はい……。あの……、まだお伝えしなければいけないことがあります」
シンシアとリーディアちゃんが、まだ握っていたクリスの手に優しく力を込めた。
「何だ? なぜそんなに怯える必要がある」
辺境伯がクリスに話の続きを促した。
「レドリー辺境伯に、お伝えしたいこと……は……わ、私が……ジャスティ国の敵国であるエフリー国出身者だということ……です。これまで黙っていて申し訳ありません! ただ、私にはもちろん敵意などなく……」
「待て! もういい!」
辺境伯が大きい声を上げ、クリスの言葉を遮った。
彼は、厳しい目で彼女を見た。一方、彼女は泣きそうな顔をしている。その場の空気が張り詰めたようだった。
辺境伯は大きく息を吸い、言葉を続けた。
「クリス! 報告は終わったんだから、私のことは『お父様』と呼びなさい!」
辺境伯を除いたその場の全員が、彼の放った言葉を解釈するための時間を要した。
「……え? ……だって……まだ……、辺境伯から許可を……」
戸惑うクリスに辺境伯は詰め寄ると、彼女の肩に手を置いた。
「誰がそんなこと言った! 私がこの場でお前を認めるまで家族じゃないと誰が言った! 違う! お前が私達を家族だと思った時点で、もう家族なんだ! 私はもう答えていた、認めていた! お前も、そう思ってくれているんだろ⁉ あと、『お父様』な!」
辺境伯の、今まで見たことがないほどの熱く感情のこもった表情と言葉は、彼がどれだけ本気でクリスのことを想っているかを物語っていた。
「はい、お父様……。みんなの家族になれて嬉しいです!」
クリスは泣いているのか笑っているのか分からない表情で、辺境伯の問いに答えを出すと、辺境伯がクリスを抱き締めた。
「本当は、薄々気付いていたんだ……。クリスがエフリー国の出身だということを……。『エフリー国エクスミナ消失事件』を起こしたのは、クリスではないかと。それをカレイドにも写影してしまった。彼女にクリスの面影が何となくあったのは、そのせいかもしれない。
天涯孤独になった、ということだよな? さらに、罪悪感に押しつぶされそうになりながら、贖罪の旅をしていたんだろ? 今まで辛かっただろうな。私ではお前の心を癒せなかった。パーティーに参加してくれれば、あるいはと思ったが、それも断られ……。
しかし、今ではこうして、元気になっている。本当に良かった。そして、話してくれて、ありがとう。私達は、クリスのもう一つの、本当の家族だ。家族を亡くしたクリスだからではない。同情などではない。
改めて言おう。『君』だからこそ、家族になりたかったんだよ」
「ありがとうございます……。私の……お父様……うぅ……」
クリスの涙は止めどなく溢れ、彼女を抱き締めたままの辺境伯の肩を濡らしていた。俺達はクリスを救うことができた。ただ、失った家族は戻らない。その傷を完全に癒やすことはできず、傷跡は残ったままだった。
もしかすると、これでその傷跡も薄くなっていくのかな。それとも、古傷が痛むことになるのか。それは誰にも分からないが、これだけクリスのことが大好きな人達がいるんだ。きっと大丈夫だろう。いや、大丈夫にしてみせる。
「シンシアとリーディアも、ありがとう。クリスを心配してこの場に来てくれて。シンシアは、あらかじめ私に打診するような質問までしてきたな。素晴らしい質問とタイミングだったよ。でも、それを聞いたのなら、私のことを信じてくれても良かったはずだが……」
「万が一のことがあっては嫌ですからね」
クリスから離れた辺境伯は、不満そうな顔を見せたが、答えたシンシアは涼しい顔をしていた。
「ねえ、お兄ちゃん。辺境伯が『家族』にこれだけ執心するのって何か特別な理由があるんじゃないかな? 多分、過去に何かあったんだと思う」
ゆうが、おそらく前から気になっていたことを指摘した。
「それは、俺も気になってた。これまで何回、『家族』と言ったのか分からないほどだもんな。同じ口癖の『宝』とは、わけが違うし、気持ちの入りようも違う。この際、聞いてみたいところではあるが……」
そう思っていると、シンシアは、質問があるかのように手を挙げた。
「ここに来たのは、もう一つ目的があります。今はあえて、レドリー卿と呼ばせてもらいますが、レドリー卿は『家族』に対して強いこだわりをお持ちのように思えるのですが、何か深い理由があるのでしょうか」
シンシアが俺達の思っていたことを聞いてくれた。もうほとんど俺の分身と言ってもいいぐらいだ。
「それは私からお話ししましょう」
リーディアちゃんが一歩前に出た。すると、辺境伯が手を軽く挙げて、彼女を止めた。
「リーディア、ありがとう。しかし、私から話しをさせてくれ。私の精神がそれを克服できているか確認したい。とりあえず、座ろうか。理由自体は、そんなに長くはない」
全員が部屋のソファーに座った。
「さて、いきなりで申し訳ないが、私は兄弟と母に裏切られて殺されかけたことがあるんだ。当時伯爵だった私の父もね。
まともな人間は、私達と一部の給仕だけだった。暗殺者や毒を仕掛けるなんて日常茶飯事、敷地内や出先で事故を装われたこともあった。このままでは父を守りきれないと判断し、エトラスフ領に避難させ、私が伯爵を継いだら、ついには、自ら私を殺しに来たよ。そこで返り討ちにして、終幕。
このようなことを二度と起こさないようにするには、どうすればいいかと考え、普段から家族の絆を大事にしようという結論に至った、というのが理由だ」
これまた壮絶な話だ。貴族社会での異常な跡目争いということか。辺境伯の危機意識が高いのは、ずっと昔から、それも家族に命を狙われていたことによるものだった。
そして、父親がエトラスフ伯爵に世話になっていたことも、それに関連したことだったのか。
「実は、フォワードソン家の講習でも、家族の大切さを教えられたことはあったんだが、恥ずかしながら、我が家の誰も本当の意味を理解できていなかった。
最初は、防衛策にすぎなかったが、感情的にも次第にこれがあるべき姿なんだと思い始め、家族の絆を深めることで、何気ない日常までもが、楽しさや幸福に変わっていった。
もちろん、その絆は身内だけのつもりだった。アースリーに出会うまでは……。
私は、彼女がここに来てリーディアと友達になってくれてからも、他人を家族に巻き込むのはどうなんだと考えたことはあったし、リーファと話し合ったこともある。
せめてここにいる時だけでも、家族でいようと決めたのも束の間、シンシアとクリスも家族でいてくれたらと思うようになった。気付いてしまったんだ。君達を家族として心の底から愛おしいと思う自分の幸せに。そう思うことで、幸せがより増えたんだ。リーファもそう思っている。
カレイドと別れた時のような永遠の別れではないにしろ、このまま君達と離れてしまったら、私達の胸は張り裂けてしまう。少なくとも家族の関係だけは維持したかった。
だからクリス、仮に許可がいるとしたら、私達の方なんだ」
大きな失敗を経て、それが二度と起きないように慎重に慎重を重ねているところは、まるで俺のようだ。
この話で、辺境伯の行動原理が分かったような気がした。普通は、家族にさえ裏切られたら、他の誰も信じられなくなり、リーディアちゃんのように他人と距離を取る。
しかし、彼の場合は、希望を捨て切れなかった。自分の家族が崩壊したからこそ、自分の手で再び幸せな家族を構築したかった。それは実際に成功し、方法さえ正しければ上手く行くのだから、他人にも適用すればその輪が広がると信じ、まずは信頼関係の構築を大事にした。
アースリーちゃんが言及した通り、主催のパーティーはそのためのものだ。その中から、一人でも大切な存在と思える人が出てくればそれで良し。そうでなくても、人付き合いとしては当たり前のことなので、気にすることもない。
本人は、より幸福感を得るためとは言っていたが、実は無意識では、家族に裏切られた、深く抉られた傷を癒やすためなのではないかという気がしてならない。
癒しという名の幸福感は、現代でもよく見られる。温泉やサウナ、マッサージで、日々のストレスや疲れから、『癒やされる』と口にする人も少なくない。単に気持ち良いからという人も、もちろんいるだろう。
ただ、彼の場合は、ゆうが言った通り、家族に対して並々ならぬ執着がある。家族でなかったら、裏切られてしまうのではないか、裏切られたくない、という恐怖心や強迫観念すら垣間見えるほどだ。単に自分が気持ち良くなれるから、という理由だけでは説明がつかない。
それに、優しさの一言でも片付けられない。俺は、辺境伯の悲しい心の内を感じて、リーディアちゃんもそれを察しているからこそ、彼の境遇を自分が説明しようとしたのではないかと思った。
彼女もまさに、希望を抱き、自分から勇気を出すことによって、アースリーちゃんに救われた。それは、辺境伯が彼女のために、アースリーちゃんを招待し、その魅力を伝えたおかげでもある。
リーディアちゃんと辺境伯の状況が違う点、それは、リーディアちゃんの傷は、すでに完全に癒えていることだ。アースリーちゃんの滞在期間中に甘えるだけ甘えて、彼女との別れまで乗り越えた。全く同じではないものの、似た経験をしたから、辺境伯の気持ちが分かったのだろう。俺は改めて、ユニオニル家は、お互いのことを思いやれる素晴らしい家族だと思った。
全てを吐露した辺境伯に、クリスがソファーから立ち上がって辺境伯の手を握った。
「お父様のお気持ちをお聞かせいただき、ありがとうございました。家族とは、こんなふうにお互いの気持ちをさらけ出すものなのでしょうか。少なくとも、私の小さい頃の記憶では、そんなことはありませんでした。
そういう意味では、私達は特別な家族関係と言えるかもしれませんね。家族を越えた信頼関係……。お父様となら実現できるかもしれません」
「クリス、ありがとう……。シンシア、リーディア、みんな私の愛するかわいい娘達だ。この家族は、私の命に代えても絶対に守り抜く!
困ったことがあれば、何でも言いなさい。私が叶えてみせよう。私にできなくても、色々な人達の協力を仰いででも、叶えてみせる!」
辺境伯はクリスの手を握り返し、一人一人の目を見て、父親としての愛を誓った。
「…………。それでは、大変申し上げにくいのですが、早速、お父様にご相談があります」
クリスが恐る恐る辺境伯に話を切り出した。
「私が何でも言いなさいと言ったんだ。遠慮することはない。話してみなさい」
「ありがとうございます。そうおっしゃっていただき恐縮ですが、詳しくはまだ申し上げられません。かわいい娘の秘事だと思っていただければ幸いです。
その上で、近い将来、私はアースリーさんとユキさんと一緒に、お父様がご想像もなさらないことを成し遂げるつもりです。その際は、どうかご協力ください。シンシアさんとリーディアも、機を見て協力してもらう予定です。
少なくとも、私達の認識では、ジャスティ国の国益を害することはないと考えていますし、逆に国益に沿ったことを行うつもりです。もちろん、ジャスティ王家やユニオニル家の存続を脅かすことも、裏切ることもありません。
このような曖昧な話で、ご判断できないことは重々承知しておりますが、このことだけはお父様にお伝えしておきたかったのです」
クリスは辺境伯の目を真っ直ぐ見つめていた。両脇のシンシアとリーディアちゃんも同様だ。
「……ちょっとこのまま考えさせてくれ。想像もしないこと……シンシアとリーディアも……国益を害しないこと……」
辺境伯はブツブツと独り言を言い、考えを整理していた。
「質問していいかな? それは、レドリー領内で行われることか?」
「はい」
辺境伯の質問に、クリスが答えた。
「それは、セフ村近辺か? それとも、エフリー国近辺の国境近くか?」
「セフ村近辺です」
「規模はどのぐらいだ?」
「村から町ぐらいの規模を想定していますが、将来的にそれ以上になる可能性はあります」
この質問の仕方から、辺境伯は俺達のやることを察したな。アリサちゃん達を評するだけのことはある。とんでもない推察力だ。
「……分かった。一つだけ条件を付けさせてほしい。誰でもいいから、それに見合った爵位を得ること。そうでなければ、たとえ私の領地内で起こることでも、国内から強い反発を受けてしまうからだ。私だけならいいのだが、王家やパルミス公爵家にも反発が行く。それは避けねばならない。
爵位を得れば、責任はお前達に集約されて、『強い反発』から『多少の反発』に抑えられ、その影響も小さくなる。詳しく聞いていないから、途中を少し省略したが、どういうことかはお前達のブレインに聞けば分かるだろう。おそらく、例の天才だな? ユキさん……ではなさそうだ」
辺境伯はクリス達の様子を伺って、さらに情報を引き出そうとしたが、残念ながら彼女達は無反応だった。
「承知しました。その件は、こちらでも相談してみます。私からは以上です。この度は、本当にありがとうございました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ。ところで、クリスの口調は、普段からその感じなのかな? 家族には、もっと柔らかくてもいいんだぞ」
「クリスお姉様は私達だけの時でも、ご覧の通りです。私が甘えた時は、少し柔らかくなりますけど」
辺境伯の質問に、リーディアちゃんが自慢気に答えた。
「そうなのか……。クリス、遠慮なく私に甘えていいんだぞ。リーディアは全然甘えてくれなくなったからなぁ」
「お父様、そういう時は娘の成長を喜ぶべきでは?」
「私に『シンシアお姉様~』と言ってくる甘えん坊の台詞とは思えないな」
「もう! シンシアお姉様ったら~」
『はははは!』
全員笑顔になったところで、辺境伯とエトラスフ伯爵からの親書、それと依頼達成証明書を受け取り、彼女達は出発の準備を整えるため、辺境伯の部屋を後にした。また、今後のために、部屋の紙と筆記用具をもらえることにもなった。
それにしても、辺境伯はクリス達に何も要求しなかったな。条件も当たり前のことだし、一方的に彼女の要求を飲んだだけだ。つまり、『交渉』ではなかった。なぜか。
『家族』だからだ。『家族』に見返りは求めない。幸せになってくれればそれでいいのだ。言葉だけの、形だけの家族ではないという、辺境伯の本気度が伝わってきた。
ならば俺達は、いつか恩返しをしよう。正確には、俺達は辺境伯の家族に含まれていないので、彼女達を手伝うだけだが、それでも……。見返りを求めない、感謝を込めて。
部屋に戻ると、リーディアちゃんが扉を閉めたまま、そこから動いていなかった。
「リーディア、どうした?」
シンシアがリーディアちゃんに理由を聞いた。
「シュウちゃんにお願いがあって……。シュウちゃんは、セフ村ではそれぞれの女の子達と一緒にいるっていう話だったよね。このまま、私とも一緒にいてくれる?
あなたと離れたくないっていうのもあるし、アーちゃんやお姉様方と物理的に離れていても、シュウちゃんがいればいつでもコミュニケーションできるし……どう?」
それは俺も考えていた。レベルアップして、もう一本増やせるようになったから、今のところ問題はない。しかし、このままではジリ貧になっていくのも目に見えている。経験値牧場のこともあるから、ここは一つ……。
『もちろん、俺もリーディアちゃんと離れたくない。条件とまでは言わないが、将来的にも触手の本数を増やしたいから、できれば経験値に貢献してほしい。適度でかまわないから』
つまり、屋敷内の女性達を引き込みたいということだ。あえて悪い言い方をすれば、『生贄を捧げよ』。もしかしたら、リーディアちゃんも、そのことを考えていてくれたかもしれないが、こちらから言った方が、彼女も動きやすいだろう。
ユニオニル家は、メイドに対して一線を引いているものの、不当に差別したり、扱き使ったりはしていない。彼女達に強く言ったり、馴れ合ったりすると、これまでの関係性を失って仕事に影響が出るし、今後もし別の場所で働くことになった時に、主人との距離を適切に保てなくなり、本人達も不幸になってしまうからだろう。
そのため、リーディアちゃんが、あくまで俺達にやらされている体でいれば、影響は軽微と言える。多分。
「ありがとう! 分かった、頑張る!」
リーディアちゃんの笑顔が眩しくて、俺も嬉しくなった。
俺達は、縮小化の時間をリセットするために、クリスの外套の触手を一度消して、部屋の触手からもう一本増やし、再度縮小化した上で、クリスの外套とリーディアちゃんのスカートの中にそれぞれ入った。クリスには左腕、リーディアちゃんには左脚に巻き付いた。
「縮小化して巻き付かれると、こんな感じなのね。面白い……。それでは…………お姉様方、行きましょうか」
黒板を荷袋に入れて、出発の準備を終えたシンシアとクリスは、リーディアちゃんに続いて、玄関ホールに向かった。
そこにはすでに、辺境伯、夫人、ディルス、リノス、アリサちゃん、サリサちゃんが揃っており、メイド達もいた。屋敷のほぼ全員がその場にいたので、別れの時をよく観察するために、俺達は隠れながら、ホールの梁に移動した。
シンシアとクリスが玄関扉の前に立つと、辺境伯が一歩前に出た。
「くれぐれも気を付けて……。手紙も証明書も持ったな? 何かあれば、私の名前を出しなさい。それから……」
「あなた、二人の愛娘が同時に旅立つからと言って、そこまでソワソワすることはないでしょう。二人とも、元気で……」
夫人は辺境伯の手を取り、別れの挨拶と共に、彼を落ち着かせた。
「我が妹、シンシア、クリス。アースリーも含めて、みんなが帰ってくる時には、盛大な家族パーティーを開催しよう」
「良いですね。流石、お兄様。アリサお姉様とサリサの予定は私が調整します。もしかしたら、その時はもうここに住んでいるかもしれませんが……。とりあえず、シンシア、クリスには、早めに手紙を出してもらいたいな」
ディルスとリノスが、別れの挨拶と共に、家族パーティーの主催者を宣言した。
「私達も陛下へ手紙を書こうと迷ったのですが、今回に限っては、経緯を詳しく知らない私達がでしゃばらない方が良いのではと思い、書きませんでした。
力になれるかどうか分かりませんが、城で何かあったとしても、できるだけそこにいてください。かわいい妹達のために、私達も駆けつけます」
「ごめんね。このまま付いて行ければいいんだけど、私達の無事とお付き合いの報告を兼ねて、家を経由しないといけなくて……。でも、城に行った時には、パルミス家の名にかけて、陛下にも全力で訴えかけるから!」
アリサちゃんとサリサちゃんが、別れの挨拶と共に、一生懸命で頼もしい言葉をシンシアとクリスに送った。
「お父様、お母様、お兄様方、お姉様方、ありがとうございます。私は幸せ者です。必ずや、報告を成功させてみせます」
「こんなにも愛に満ち溢れた場所にいられて、私も幸せでした。必ず、帰ってきます。家族パーティーを楽しみにしていますね」
シンシアとクリスは、握手と抱擁を、見送りの人達それぞれと交わしていった。
一人を除いて。
「…………」
その女の子は、黙って下を向いたままだった。シンシアとクリスは、その悲しげな姿の少女に近づくと、彼女の頭の上に手を置いた。
「リーディア、かわいい顔を見せてくれ」
「リーディア、かわいい声を聞かせて」
「はい……お姉様……」
姉達の言葉に応えた妹の顔は涙に濡れ、声は弱々しかった。
「申し……訳……ありません……。昨日に……続いて……今日も……なんて……」
泣いて声が途切れ途切れになってしまうリーディアちゃんを、二人は頭を撫でて慰めていた。
「いいんですよ。私も……私も同じ気持ちです……。こんな気持ちになるなんて、ここに来た時には思ってもみませんでした。ありがとう、リーディア。愛しています」
クリスは笑顔でリーディアちゃんに声をかけていたが、その頬には一筋の涙が流れていた。その二人を抱き寄せるシンシア。
「リーディア、私達が帰ってきたら、またいっぱい甘えるといい。私達も楽しみにしている。その時まで、リーディアも前を向いて待っていてくれるだろ?」
「はい……。絶対……絶対ですからね! 一日中、甘えますからね!」
シンシアの言葉に、やっとのことで立ち直ったリーディアちゃんが『前向き』な言葉を返した。
「一日でいいのですか?」
「い、いえ、ずっと! ずっとです!」
クリスの質問に、リーディアちゃんは慌てて訂正した。その様子に、メイド達も含めた全員が笑顔になっていた。
「それではクリス。そろそろ行こうか」
「はい」
シンシアが扉近くにいたメイドに合図をすると、扉が開け放たれた。午前の日差しが扉から差し込み、出発する二人を包む。
『いってきます!』
シンシアとクリス、二人の声が揃った。その声は、落ち着いた二人の普段の会話の時よりもずっと大きく、元気に溢れているようだった。
『いってらっしゃい!』
『いってらっしゃいませ!』
全員から見送られ、二人は扉を通り、門を出た。そのまま厩舎に向かい、シンシアが最初に馬に乗り、手を引きながらクリスを前に乗せ、二人乗りの格好で門まで戻ってきた。門はすでに閉められており、中の様子を伺うことはできない。
「君達も、また会おう」
「お疲れ様でした」
シンシアとクリスが馬上から門番達に挨拶をすると、彼らは姿勢を正した。
『はい! お元気で!』
シンシアが彼らに対して左手を挙げ、馬の踵を返すと、街のメインストリートへ走らせた。ちなみに、パーティーのお土産はもらっていない。参加したのは『カレイド』だからだ。
レドリー邸では、見送りを終えた人達が日常に戻ろうとしていた。俺は、この短期間で四度も涙の別れを目の当たりにして、人間では決して経験できない、神の視点を得たような感覚を改めて実感した。
それに、ここに来て何度感動したか分からなかった。本当に素晴らしい経験ができた。ありがとう、レドリー辺境伯、ユニオニル家。
「幸せな空間だったなぁ。何だか、夢のようだった」
ゆうもこの数日間を楽しんだようだ。
「さながら、竜宮城だったな。玉手箱はカレイドが回収したと考えると味わい深いか」
「でも、それって切ないよね。老いるどころか消えちゃったんだから。その場合、辺境伯が乙姫になるわけだけど、愛した人が消えるなら、最後は泡になって消えた人魚姫の王子にもなる。そう考えると、辺境伯の気持ちも分かるなぁ」
「手のひらクルクルだな。その推進力で乙姫と人魚姫がいる海も泳げそうだ」
「じゃあお兄ちゃんはその海で漂ってるクラゲね。触手もあるし。あたしのスクリューで粉々にしてあげる」
「おいおい。女の子特効の先端から悦びの液体を勢いよく放つ俺のドリルを甘く見るなよ。下から串刺しにした上、大回転……」
「死ね!」
レドリー領の楽しかった記憶で、妙なハイテンションになり、倫理観が粉々になった俺の発言は水に流してほしいところだ。
ここから城までは、村と町をそれぞれ二つ経由し、約三日かかる。長旅を満喫するとしよう。
次の村に着く頃には夕暮れだった。監視者の動向は街を出てから続けていたが、予想通り、距離を取りながら俺達に付いて来ていた。道中で襲われることはないだろうが、注意は怠らない。
シンシア達は夕食を済ませ、宿に向かった。その頃、ユキちゃんはレドリー邸の門に到着していた。
「セフ村のユキ=リッジです。魔法依頼の仕事で来ました」
「話は伺っております。どうぞ」
門番による変装魔法の確認を終えたユキちゃんが屋敷の扉の前まで進んで立ち止まった。
「ふぅ……。よし!」
気合いを入れたあと、扉を叩くと、メイドが出てきた。再度、名前を確認されたあと、中へ通された。
「こちらでお待ちください」
しばらくすると、辺境伯が玄関ホールにやって来た。俺達は梁の触手をそのままにしていたので、その様子を伺うことができる。
「ようこそ、ユキさん。初めまして。私がレドリー辺境伯、リディル=ユニオニルです」
「初めまして、セフ村のユキ=リッジです。よろしくお願いします」
「今日は長旅でお疲れでしょうから、作業は明日にして、まずは夕食にしましょうか」
「あ、いえ。すぐに終わりますから、今やりましょうか。扉に配置しようと思っていたのですが、横の壁の厚みがあるので、扉を壊されても大丈夫なように、この両側に配置します。よろしいですか?」
辺境伯の早速の夕食への誘いに対して、ユキちゃんは涼しい顔で、すぐに仕事を終わらせることを提案した。
「え、ええ。では、それでお願いします」
この手のやり取りでは珍しく、辺境伯が戸惑っていた。ユキちゃんが十秒ほど魔法を詠唱した。
「終わりました。試しに催眠魔法を誰かにかけたいのですが、どなたかいらっしゃいますか? 内容は、私が『はい』と言ったら、右手を一回だけ挙げ、二回挙げたら催眠効果がなくなるようにしておきます」
「それでは私が」
近くにいたメイドが立候補した。即座に手を挙げるとは、勇気あるな。
「ありがとうございます。それでは、壁から離れてください」
ユキちゃんが催眠魔法を詠唱した。
「『はい』、終わりました」
一回目の『はい』でメイドの右手が挙がった。
「わわ、勝手に腕が……」
初めての催眠でメイドは戸惑っていた。今回は、意識あり、記憶ありの催眠魔法らしい。
「それでは、扉の中央に立ってもらえますか? 一瞬で髪の色が変わるので、走り抜けても大丈夫です」
ユキちゃんの言う通り、メイドが扉の中央に立ち入ると、すぐに髪の色が虹色に変化した。
「おお! 素晴らしい!」
辺境伯が思わず声を上げた。
「通常ではあり得ない髪の色にしてみました。等間隔に色が並んで、境界が綺麗なグラデーションになっているのも特徴です。
スキンヘッドの場合は、頭皮の色が同様に変化します。催眠魔法が解除されるまでそのままですが、髪を染料で物理的に染めた場合は、一見分からなくなるので、注意が必要です。
その場合は、髪の根元か頭皮を凝視するしかありません。と言っても、髪を綺麗に染める悠長な時間はないはずなので、お気になさることはありません。変装魔法による髪色の変化は無効になるので、問題ありません。『はい』」
「わっ……」
二度目の『はい』でメイドが無意識に右手を挙げると、髪の色がスゥッと元に戻った。
「魔力の供給周期はこれまでと同じでかまいませんが、五分ほど長めに見積もってください。確認だけなら百回、変化含めると八十回ぐらいが限界です。
パーティーなどで扉を頻繁に出入りする場合は、魔力供給係を置かないと、魔力遮断魔法の方が先に途切れてしまいます。一応、通り抜け判定はしているので、その場にずっと立っていたり、中に入ったあと、外に出ないで扉の前をウロウロしていても、魔力が消費されることは、ほとんどありません。私がこちらを発つ前に、一度、屋敷の全員を扉の前に立たせることをお勧めします。
以上で作業と説明は終了です。ご質問があれば夕食時にお答えします」
「実に見事だ! 仕事の手際も説明も感動を覚えるほどだよ。クリス達が自信を持って紹介するだけのことはある。失礼、親しみと信頼を込めてユキと呼んでもかまわないだろうか」
「はい、ありがとうございます」
「アースリーと同様、本当はすぐにでも家族として向かい入れたいところだが、流石に節操がなさすぎるかと思って自重しているよ。おっと、まずは部屋だな。では、案内を頼む」
近くのメイドに案内され、ユキちゃんが部屋に向かおうとすると、通路の角に隠れてこっそり彼女を見ていたリーディアちゃんに気付いた。
「リーちゃん、アーちゃんから聞いてるよ! お話ししよ!」
ユキちゃんが笑顔で話しかけると、リーディアちゃんの表情もパーっと明るくなり、彼女はユキちゃんに駆け足で近寄った。
アースリーちゃんから話を聞いてるとは言え、ユキちゃんも誰とでもすぐに仲良くなれる性格だよなぁ、と改めて思った。
「ユキちゃん、話しかけてくれてありがとう。嬉しいよ。ユキちゃんともアーちゃんと同じぐらい仲良くなりたい」
「私もだよ。短い間だけど、よろしくね」
二人は手を繋いで、一緒にユキちゃんの部屋に向かった。
「あとは私が連れて行くから大丈夫」
「かしこまりました」
リーディアちゃんはメイドを下がらせると、部屋の中でユキちゃんに話しかけた。
「私の部屋にも一度寄ろうか。シュウちゃんの縮小化をリセットするために」
「うん、ありがとう」
リーディアちゃんの案内で彼女の部屋に寄ってから、食堂に向かった。
食堂では、夫人からも歓迎され、ディルス達はアリサちゃん達を公爵邸に送りに行って不在ではあるものの、終始和やかな雰囲気に包まれていた。
ユキちゃんの初魔法仕事は大成功に終わった。
その夜、ユキちゃんの部屋のベッドの上では、リーディアちゃんがユキちゃんに驚いていた、
「すごい……ユキちゃんの感度が良すぎて、シュウちゃんがいなかったら、シーツが水分を吸収し切れなくなって、水溜まりになってそう。ユキちゃん、かわいすぎるよ!」
「はぁ……はぁ……リーちゃんって甘えん坊じゃなかったの? こんなに積極的だなんて……」
肩で息をしていたユキちゃんは、アースリーちゃんから聞いていた話と違うリーディアちゃんの積極性に驚いていた。
「甘えん坊だよ。だから、あとでいっぱい甘えさせてね。でも、ユキちゃんの仕事の時の、凛々しさと、今とのギャップがすごくて、居ても立っても居られない気持ちになっちゃった。凛々しいと言っても、かわいさは隠しきれなかったけどね。
ユキちゃんのこと、あっという間に大好きになっちゃった。ごめんね、独りよがりで。今からは私のことも大好きになってもらえるように頑張るから」
リーディアちゃんが右手を、ユキちゃんの左頬に当てて囁いた。それに対して、ユキちゃんは笑顔で答えた。
「ふふっ、もう大好きだよ。でも、そうだなー。じゃあ、キスしてもらおうかな。私、キス好きだから」
「私も好き。ずっとキスしてようか。二人離れられないようにシュウちゃんに縛ってもらって」
「面白そう! シュウちゃん、お願いできる?」
俺達は、二人の願いを叶えるため、全裸で抱き合った二人の身体を縛り上げ、ベッド上に膝立ちさせた。二人が力を抜いて、その状態を長時間維持できるように、俺達が代わりにバランスをとる。
「待ってて。今、舌と顎が先に疲れないように、体全体の疲れに変換する魔法をかけるから」
ユキちゃんが詠唱を始めた。便利な魔法があるものだ。これも創造魔法だろうな。舌と顎が足部分に相当するはずだ。
「先にギブアップした方は、夜の間、愛の言葉を囁き続けるっていうのはいかが?」
「いいよ。じゃあ、引き分けは愛の言葉の応酬になるね」
リーディアちゃんの、勝ち負け引き分けいずれも得をする優しい提案に、ユキちゃんは承諾しつつも不敵な笑みを浮かべた。
二人は間もなく、特に合図をすることもなく、自然に口付けを交わした。どうやら、お互い待ち切れなかったようだ。舌がゆっくりと絡み合い、唾液の混ざる音が聞こえる。口の端や舌の先端から唾液が垂れようとも彼女達は気にしない。俺達がそれを取りこぼさないように、彼女達の胸より下で待機しているからだ。
そこから、約二時間。時間にして、フルマラソンのトップランナーが走り切るぐらい経過した。二人はマラソンランナーのように酸欠にはなっていないが、その時をランナーズハイで駆け抜けていた。
その気持ち良さで、すでに目は虚、口の周りは唾液が何度も乾いて白くなっており、その匂いでさえもお互いに興奮を掻き立てていたようだ。抱き合った腕に力が入っていないものの、舌と顎は別の生き物のように動いていて、キスに合わせて、身体もピクピク痙攣している。
俺達から見ても、二人は楽園の湯に浸かっているかのような幸福感を味わっていた。部分疲労を変換すると、こんなにも長くキスを続けられるのかと感心もした。
「俺達がゴールテープを持っていこうか。それで、二人仲良くゴールして昇天だ」
「おっけー。」
俺達が素早く動いて、二人を驚かせると舌を噛んでしまう恐れが普通の場合はあるが、ユキちゃんがいるからその心配は必要ない。
「んんー!」
いつものように、二人を責めると、キスをしながらあっという間に気絶した。
最初は、体力面でユキちゃんが不利なのではないかと思っていたが、クリスタルのメリットで体力も増加させたために、リーディアちゃんと互角の勝負に持ち込めたのだろう。
その後、二人が気が付くと、両者の愛の言葉がベッドの周りを飛び交っていた。
十八日目の朝、城に向かって村を出発した俺達は、クリスに頼んで、改めて監視者の所在を確認してもらった。すると、俺達より前方にいた。前にいないと、シンシアが城に向かっていることを先に報告できないからだろう。
これは予想通りで、俺達がユキちゃんをレドリー邸で待たない理由でもある。先回りされ、城までの経路を潰されて、その対処や迂回をした場合に、シンシアの報告期限に間に合わない恐れがあるからだ。王家による城内でのスパイ対応もあるので、期限ギリギリに行きつつも、その範囲内で余裕を持つ必要がある。
ただ、クリスが仲間に加わったことで、障害物を容易に取り除くことができるようになったので、多少の妨害では足留めにならない。かと言って、大規模な妨害は足が付く。したがって、監視者は何もできないのではないかと俺は踏んでいる。
そして、俺達が城下町の手前の町に宿泊したところで、その監視を中止し、シンシア接近報告に向かうはずだ。繰り返しになるが、これはあくまで予想で、足が付いても妨害してくる可能性はあるため、念のために先を急いでいるというわけだ。
報告期限まであと四日。予定通り、明後日に城に着けば、一日、二日の妨害でも間に合う計算だ。
それよりも気になることが俺にはあった。ユキちゃんはリーディアちゃんと辺境伯、夫人に別れを告げて、すでにレドリー邸を出発しているが、そのユキちゃんの双子の姉のシキちゃんのことだ。
次の町の宿でそれに関することを、黒板を使ってクリスに聞いた。辺境伯からもらった筆記用具は節約だ。
『監視者の魔法使いが盲目であると感じる?』
彼女がシキちゃんなのではないかという疑念が、俺にはあったのだ。
「盲目ですか……? 少なくとも魔力感知魔法では分かりませんでした。動きからもそんな感じはしません。もう一人の方に手を引かれている様子もないですし、普通に見えているように逃げています」
『夜の動きはどうだった? その場から、あまり動いてないとか、昼間と違う動きとか』
「それは、確かにそうでしたが、当たり前と言えば当たり前のようにも思えますが……。あ、いえ、今思えば、夜にいつもとは少し違う並びをしていたような……。昼間は横に並んで馬に乗っていたり、街中を歩いていたりしたのですが、夜に出歩く時は、魔法使いは半歩下がって歩いていたような気がします。
光の反射強度によって、見え方が変わっているということでしょうか。夜は曖昧になるため、もう一人の魔力を道標に歩いているとか」
並び方によく気付いてくれた。流石、クリスだ。
『ありがとう。可能性はある。ユキちゃんからあとで話があると思うけど、彼女が探している人物かもしれない。感知魔法はこれまでと同じ頻度でかまわないから、その視点を頭に入れておいてもらえると助かる』
「承知しました」
魔法使いは完全な盲目ではなさそうだ。治癒に向かっているのかもしれないし、何らかの魔法で視覚補助をしているのかもしれない。
彼女がシキちゃんかどうか確認する方法がないわけではない。その場合、彼女の身の安全のため、もう一方の監視者には分からないようにする必要がある。また、彼女がシキちゃんではなかった場合に、どこかにいるシキちゃんが危険になる恐れがある。
つまり、安全な確認のためには、まだ条件が揃っておらず、様子見で行くしかない。下手に戦いになっても、彼女に手を出せない以上、俺達が困るだけだ。
シンシアとクリス、そして俺達は、道中や城下町、城に着いてからの作戦を練ることにした。
夜、レドリー邸。
薄暗い部屋の中で、リーディアちゃんは専属メイド二人を呼び出していた。
「あなた達も知っている通り、私はこの三日間で、三回も大切な人との別れを経験した……。このままじゃ、日常に戻れない……。二人とも、私を慰めてくれる?」
「もちろんです! リーディア様」
「私達にできることであれば、何なりとお命じください!」
リーディアちゃんのために、仕える主人のために、彼女を慰めたいと必死に思う二人の宣言で、リーディアちゃんの目の色が変わった。
「それじゃあ、あなた達。今ここで、私が全裸になるから、あなた達も全裸になりなさい、と言ったらどうする?」
「リ、リーディア様……そ、それは……もしかして……」
思いもよらなかった言葉にメイド達は息を呑む。リーディアちゃんはすぐに念押しした。
「どうする?」
「……っ! お望みとあらば……!」
「リーディア様のためなら……いえ、これは私の望みでもあるかもしれません。何なりとお申し付けください!」
二人の覚悟が決まったようだ。その表情は、決して拒否などしていなく、むしろ、歓喜と期待に胸が踊っているようだった。
「それじゃあ、今からここで起こることは、絶対に口外しないこと。いい?」
『はい、この命に代えても』
リーディアちゃんの口止めに、メイド二人の声が揃った。
「ありがとう。あなた達が側にいてくれて本当に良かった」
リーディアちゃんの背後から、伸びる触手を見た彼女達は、一瞬驚いたものの、すぐにこれが主人の意向だということを察し、受け入れた。
その夜、リーディアちゃんの部屋の灯りが、三人と触手が絡み合う影を、ゆらゆらと壁に映し出していた。
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