第3話 【書評】お雇い外国人(副題)明治日本の脇役たち (2023.6.25記)
【本書の親本が日本経済新聞社から刊行された不思議】
1.書名・著者名等
梅渓 昇 (著)
『お雇い外国人(副題)明治日本の脇役たち』 (講談社学術文庫)
出版社 : 講談社
発売日 : 2007/2/9
文庫 : 264ページ
2.兎平亀作の意見です
本書の著者・梅溪昇(1921~2016)は日本の歴史学者で、大阪大学名誉教授。「明治のお雇い外国人」研究は著者のライフワークの一つである。
鹿島研究所出版会から刊行された全17巻のシリーズ本「お雇い外国人」のうち、第1巻『概説』(1968)および第11巻『政治・法制』(1971)を著者が分担執筆している。どちらも重厚かつ本格的な学術書である。
一方、本書『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』は、上記に先立つ1965年に刊行されている。鹿島研究所本を「重武装した戦艦」に例えれば、本書の方は、まるでヨットみたいに軽快で、スイスイと楽しく読める本だった。
つまり著者は、まず教養書(または入門書)を先に刊行し、それから学術書に取り掛かったと言う順序になる。
本書を読了して、フシギなことに気づいた。
本書の親本は1965年、日本経済新聞社「日経新書」【注】の一冊として刊行されている。あの日経からである。
【注】 「日経新書」と「日経文庫」は、似ているようだが、少し違う。
「日経文庫」は『リースの知識』だの『マーケティング戦略の実際』だの『ビジネスマンの基礎英語』だのと言った実務書中心だが、これとは別に、教養書とビジネス書の中間を狙ったような「日経新書」と言うシリーズが、かつてあったのだ。飯田経夫『援助する国される国』1974と言った、知る人ぞ知る名著も出ている。
話をもどす。
『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』は(読みやすいとはいえ)地味で専門的な歴史書である。同じ世に出るなら、岩波新書とか中公新書とか講談社現代新書の方が、はるかに似合う内容だ。それが、なんで日経から?
著者によると、本書の企画は1964年7月に日本経済新聞社・出版局の方から執筆依頼されたのだと言う。1964年の日本で「お雇い外国人」は、ビジネス書の編者者が「コイツは行けそうだ。売れそうだ」とピーンと来るようなテーマだったと言うことになる。
かく言う私は1963年生まれである。従って、以下は「見て来たような話」であることを、あらかじめお断わりしておく。
そもそも1950年代までの日本は「自由貿易体制の一角を占める」とは、お世辞にも言えない保護貿易国だった。
為替は1ドル=360円で固定されていた。
変動相場制に移行したのは1971年だから、1960年代後半の日本は「隠れ円高」が進んだ分、その為替差をボロ儲けしていたことになる。
日本の経済規模が豆ツブみたいだったから、お目こぼししてもらっていたのだ。
日本国内への外資の参入も「タテマエOK、ホンネはダメ」状態だった。
ホントのホントに資本が自由化されたのは1964年である。
そもそも日本は、1964年までOECDに加盟していなかった。
そんなこんなの「家庭の事情」の下で、1964年の資本自由化は戦後経済史上、「第二の黒船」と受け止められていた。
(今では口をぬぐっているが)政界・官界・財界の危機感は相当なものだった。
「このまま海外企業との競争にさらされたら、日本の製鉄会社なんて一つも残らないんじゃないか。」
それで「新日本製鐵株式会社」と言うガリバー企業を、企業合併で無理やり、こしらえたのである。公正取引委員会の反対は、あの手この手でなんとかかわして。
(1968正式発表、1970会社発足)
もちろん、悪いことばかりじゃなかった。
外国企業は、ロイヤリティさえ払えば、ケチケチせず技術移転してくれた。
日本の製造業の生産性向上も標準化も、外国企業の技術指導なしには達成できなかった。
「外資メーカーからの技術指導は、相手がこっちの工場まで出向いてくれたり、逆にこっちから研修生を送り込んだり、ややこしいのは抜きにして、一気に合弁企業を設立したりと、まあ、いろいろあった」と、今では好々爺然とした私の父が申しておりました。
そういう背景を踏まえて、本書を再読すると、著者による以下2点の指摘が、改めて視野の内に入ってきた。
第一は、明治の日本人が心の内に抱いていた「文明的攘夷心」。
攘夷と言っても、幕末の尊王攘夷運動みたいな闇雲な外国嫌いはNGだが、明治のお雇い外国人の中には、日本にベタ惚れした奴も、逆に人種的偏見まる出しの奴もいた。
ただし、どっちにせよ、その「愛のムチ」は痛かった。
でも、明治の日本人は負けなかった。「今に見ておれ、ボクだって」と、反発心をバネにしてガンバったのである。
だから負けるな、1964年の日本人も。
第二は、お雇い外国人を使う側の主体性。
明治のお雇い外国人は言いたいことを好き放題に言った。
日本人は、それを拝聴するばかりだった。基本的には教師と生徒みたいな関係だった。
驚くべし、大隈重信も、伊藤博文も、井上毅も、すでに政府高官の身でありながら、同時に「生徒」役も忠実に務めていた。総理大臣が受験勉強に励んでいるようなものである。それくらい、「授業を受ける側」の危機感も強烈だったのだ。
ただし、お雇い外国人には、指揮権も決裁権も与えられなかった。
「ご意見はありがたく拝聴するが、決めるのは日本人が決める。責任も日本人が取る。」
そういう凛とした姿勢を、明治日本の指導者たちは備えていた。
彼らはみな、江戸幕藩体制がアッサリ崩壊してしまったのを、その目で見ている。リーダーシップ不在の恐ろしさを知り尽くしている。
「決断できない指導者は、指導者失格だ。」
そこら辺は、身にも心にも染みついていたのである。
だから負けるな、1964年の日本人も。
さて、早いもので、1964年から58年が過ぎた。
今の日本には、赤いのやら、青いのやら、黄色いのやら、妙な船がワンサカ押しかけている。
無論、負けるわけには行かないのだが、私は何に対して発奮すれば良いのだろう。誰の意見を聞くべきなんだろう。そして、何に対して責任を負うべきなんだろう。
明治日本の指導者たちが凛としていたように、明治のお雇い外国人の中にも、凛とした奴は何人もいた。昔むかしの話とはいえ、本書に学ぶべきものは多々ある。
コロナなんかに負けてなるものかと思う。
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