35.本当のあなた
⁂
迷惑をかけている自覚はあった。
セイラが部屋に残ると言ってくれた時、舞白はありがたさ以上に申し訳なさを覚えた。
明日からゴールデンウィークで、ほとんどの生徒が夢見荘を離れる。
舞白には帰りたいと思う場所はないが、セイラは違うはずだ――少なくとも、セイラの帰りを待っている人はいる。姉妹水入らずの時間を待ち侘びている人がいる。
「私は、一人でも大丈夫ですから。だから、アリサさんと一緒に」
体操着のままベッドに横たわっている舞白。
大丈夫という言葉には不釣り合いな覇気のない声だった。
「清華の家にはもう伝えた。アリサにも。今日は学院に残ると」
「でも、私なんかのために……」
珍しく食い下がろうとした舞白の声は、まもなく途絶えた。セイラが目の前で突拍子もなくシャツを脱ぎ、あられもない上半身を晒したことで。
セイラが舞白の目を気にしないのは今に始まったことではない。いつも一切の恥じらいを見せることなくブラウスを脱ぎ、ジャンパースカートを下ろしていた。
「スリーズである以上、あなたを放ってはおけない」
この時も、セイラはためらいなくハーフパンツから足を抜き、上下揃いの純白の下着を露わにさせている。澄み切った静かな瞳に恥じらいの色が滲むことはなく、見上げることしかできない舞白の方がむしろ頬を赤らめてしまう。
華奢な肩回りに、椀を被せたようにつんと膨らんだ形のよい胸。驚くほどくびれた腰つきと、小ぶりな臀部から伸びるほっそりとした太もも。引き締まったふくらはぎ。
どこを切り取っても精美に尽きる体は強烈に眩く、けれど目を逸らすことができない。罪悪感で強く脈打つ胸元に微かな痛みを覚えながら、それでも眺めていたいという本能めいた情念に甘く囚われていた。
見蕩れたままなにも言えずにいると、セイラはきょろきょろと辺りを見回したのち、一度脱いだはずのシャツになぜかまた袖を通し始める。
「あの、なんでまた、体操着に……?」
「制服、更衣室に置いてきたままだった。講堂からそのまま帰ってきたから」
冷静に答えながら、セイラは再びハーフパンツに足を通している。時間を巻き戻しているかのように正確な所作で。
意外なほど抜けた一面を見せるのも今に始まったことではない。その度に舞白は不思議な安心感を覚え、緊張が和らぐこともあった。
「もう、制服じゃなくても……ほかの生徒も、ほとんどいませんし」
「一度、生徒会室にも行きたいの。だから制服に着替えたかった」
「そう、ですか」
元はと言えば自分のせいだ。提言するなんておこがましい。
「あの……スリーズだから、一緒にいてくれるんですか?」
脈絡のない問いかけに、部屋を出て行こうとしていたセイラが足を止める。
「その理由だけでは、不服?」
「い、いえ。ただ、セイラさまは私のお姉さまである前に、アリサさんのお姉さまです。それなのに、私なんかの傍に……スリーズだから、なんですよね」
まとまりの悪い言葉になっている自覚はあった。
それでも今は、こんな形でしか伝えることができない。
「所詮は、学院の決まりで定められただけの、仮初めの姉妹――そう思う?」
投げかけられた問いに微かな鋭さを感じ、舞白は返答に窮した。
「すべての純桜生が、重んじているとは言わない。中には関係が希薄な生徒も、縁を切りたがる生徒もいる。スリーズが運命で決まる以上、それらもまたありうる宿命」
続けられたセイラの声は、今度は意外なほど穏やかのものに聞こえた。
「スリーズだからか、と訊かれれば、多くの上級生は肯定するだけでいいかもしれない。でも私にとってあなたは、少しだけ特別」
「特別……?」
「私は、あなたが隠している
目の前が真っ白になる思いだった。
震え始めた指先を、舞白はとっさに胸元へやった。
鼓動がどくどくと、激しく脈打っている。
「いつから、ですか」絞り出したような声で舞白は訊いた。
「初めから。正確には、あなたが入学する前から」
「どうして、今まで黙って……」
「学院にあなたのことを頼まれた時、初めの一ヶ月は静観すると決めていた。あなたとどう接するべきなのか、ずっと考えていた」
セイラはベッドの傍まで近寄り、その場に両膝をつく。
「私は、あなたから打ち明けてほしいとは思っていなかった――ただ、守らなければいけないと思っていた。あなたが自分から打ち明けることができる、本当のあなたを隠さなくて済む、その時が来るまで」
言い聞かせるような声と共に、セイラは自らの手を舞白の胸元に添えた。震えていた指先が優しい手によって包み込まれる。
すべてを知っていたからこその、今日までの距離感――同じ部屋で生活する以上、セイラにはいつ秘密を知られてもおかしくなかった。
それが今まで、危ない場面一つなかったのも、セイラがすべてを把握していたのであれば納得がいく。
加えて、篝乃庭やセリュールでもらった言葉にも――。
――『すべてを答える必要はないわ。誰にでも、言いにくいことはあるものだから』
なにもかも、見透かされているような言葉だと思った。
それもそのはずだ。セイラは本当に、すべてを知っていたのだから。
舞白が抱えている秘密――それを隠し続けている理由も、きっと。
「……どうしても、ダメなんです。本当の自分なんて、考えたくない」
セイラの温かな手の中でも、舞白の指先は震え続けていた。
「いけないことだと分かっています。こんな秘密、ずっと隠し通せるわけないって。
それでも、考えないようすることしかできないんです。ほかの人にとっては、なんでもないことだとしても。私が、私を見ていたくない……」
「だから、別の誰かになりたがる――バイオリンでも、あなたが弾くのは自分の音色ではなく、ほかの誰かの音色だった」
舞白は返答しなかった。肯定の方法として最も曖昧で、簡単なやり方だった。
「あなたの言う通り、それはいつまでも隠していられる秘密ではない。そのうち、今以上にあなたを苦しめるもとになる……あなたが望むなら、私はこれ以上、この話をしない。この先どうするのかは、あなた自身が決めること」
セイラの手が離れる。合わせられていた目線が高くなり、くるりと踵が返される。
離れていく後ろ姿に、引き留めるための言葉は浮かばなかった。無言の後悔だけが心の中に暗く立ち込めていく。
けれどセイラの足音は、部屋を出ていく前に一度止み、
「もう一つ、ある。スリーズであること以外に、私があなたを気にかける理由」
「え……?」
「私は、私のお姉さまのご病気に気づけなかった。スリーズでありながら、なにも知らされていなかった――あの人が最も苦しんでいた時に、甘えることしかできていなかった」
静かに響く声は、確かな自責の念を帯びている。初めて聞く声だと思った。
セイラのお姉さまというのは、病気で療養中という現アリスさまのこと。
彼女たちの間になにがあったのか、舞白は聞かされていない。セイラがどんな後悔を抱えているのか、今、どんな顔で立っているのかも。
「幸い、あなたについては知ることができている。たとえ知っていても、どうすればいいのか明確には分からないけど、私には一つだけ言えることがある――あなたは、あなたが考えている以上に、いい友人に恵まれているということ」
「友人……」
「真っ白な花のように素直な子。あの子なら、きっと――」
その不器用そうな言葉が誰のことを示しているのか、分からない舞白ではなかった。
なぜ、セイラがこんな助言をするのかも。
「……ごめんなさい。手前味噌は、あまり得意ではないの」
ぶっきら棒な言葉に、ドアの開閉する音が続く。
独りきりになった部屋の中で、舞白はおもむろに上体を起こし、膝を抱え込むようにして身を丸めた。微かな頭痛と胸元の苦しさが脈打つ中、セイラが残してくれた小さな温もりと静かな声をゆっくりと思い返していた。
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