黒橡色の目
私は小さな頃から〝見える〟体質である。
最初に〝見た〟のは、小学三年生の時だ。学校帰りの交差点。ひとりで信号待ちをしていると、横断歩道の向かいに背の高い男の人が立っていた。見た目は普通の男の人だったのだけれど、全身に何か黒いもやのようなものが漂っていた。
信号が青になった。嫌な予感はしたのだけれど、この横断歩道を渡らないと家に帰れないので、仕方なく歩き出した。
男の人に近づくにつれて、よく〝見える〟ようになった。
男の人はうっすらと透けていて、黒いもやは細い髪の毛のように、無数の線になっていて、しゅるしゅる、しゅるしゅる、と男の周りを巻き付いたり離れたりして動いていた。
見ちゃいけない。取り憑かれてしまう。
子どもながらにそう思った。
横断歩道を渡りきる前から、私は走り出し、急いでその場を離れた。男の人がどんな顔をしていたのかは見ていない。
横断歩道が見えなくなるところまで走り、それから後ろを振り返ってみたけれど、男の人はついてきてなかった。
それから次の日も、その次の日も、朝も夜も、雨の日も、男の人は横断歩道に立っていた。しゅるしゅる、しゅるしゅると黒いもやを漂わせて。
友だちについてきてもらって、男の人が見えるか訊いてみたけれど、みんな口を揃えて「誰も立っていないし、何も見えない」と言った。
それであの男の人は、生きた人間ではないのだと確信した。それ以来怖くてその横断歩道を避けるように、十五分も遠回りして学校に行き来するようになった。
なぜ私が〝見える〟ようになったのかは分からない。それ以来、視界に、しゅるしゅると黒いもやが見えたら目を避けるようになった。幸い〝見える〟だけであって、取り憑かれることはなかったので、その点は少しだけ安心した。
中学生の時、おばあちゃんの病室で〝見た〟ものはとても怖かった。おばあちゃんは心臓が悪くて入院していた。
お母さんと一緒にお見舞いに行った時だった。おばあちゃんは元気そうで、ベッドの上に座って、私とお母さんと話をしていた。
おばあちゃんの病室は六人部屋で、どのベッドも埋まっていた。
それを〝見た〟のはおばあちゃんの隣のベッドだった。
隣のベッドはカーテンが閉まっていた。ベッドの周りをぐるりとカーテンで覆い隠されていて、だから誰かがそこで寝ていても顔を合わせることはないのだ。
おばあちゃんと話をしている時、視界の一部に黒い影が見えた。
なんだろうと、そのカーテンのほうを見ると、カーテンの上部がメッシュ状になっており、そこから黒いもやが見えたのだ。しゅるしゅる、しゅるしゅると、細い髪の毛のようなものが蠢いていた。
ただ、カーテン越しには黒いもやは見えないし、人影も見えなかった。
メッシュ越しからしか黒いもやは見えなかったのだ。そこで視線を外せばよかったものの、私は何を思ったのか、その黒いもやの動きを目で追ってしまったのだ。
そしたらそこに目が〝見えた〟のだ。闇のように深くて、黒よりももっと黒い瞳が二つ、こちらを見ていた。
それが人間の目だと分かるのに時間がかかってしまい、私はついそれを凝視してしまった。
我に返って、恐怖から目を閉じた。
お母さんもおばあちゃんも、私の突然の行動に驚いて声を掛けてくれた。
私はふたりに「あそこに何かいる」と伝えると、お母さんは隣のベッドの様子を窺い、カーテンを開けた。ベッドは空で、黒いもやもなくなっていた。そこにまたいたらどうしようと不安に思っていたが、何もいなかった。
おばあちゃんはその二ヶ月後に亡くなった。お母さんの実家でお葬式をして火葬場に行った。
家族も親戚も、知らない人も皆、喪服を着ていた。おばあちゃんの病室で〝見た〟目の色と、女の人が着ていた着物の喪服の黒が近い色だった。吸い込まれそうな黒い色。
火葬場には、たくさんの黒いもやがしゅるしゅる、しゅるしゅると動いていた。病院で見つけてしまったように、あの目が恐怖で、また見てしまったらどうしよう、と、私は怖くて黒いもやを見ないように目を瞑るか、下ばかり見ていた。
それから私は外見も性格も暗くなった。大学生になった今も、それを見ないように、一日のほとんどを下を向いて過ごしているし、極力、外の世界を見ないように、いつもスマホで動画を見て、視界を狭めている。
階段状になった大学の講義室の教壇付近にも、黒いもやに包まれた人影がいるので、その講義はまともに黒板を見ることも出来ない。
目を合わせないように、下を向き、耳だけで講義内容を聞いている。
少しでも気分を紛らわせようと、お笑いの動画を見ることが多いのだけれど、ひとりでうつむいて、スマホの画面を食い入るように見て、時折、ボソボソと画面に向かってツッコミを入れたり、クスクスと笑っている姿が、周りから見たら不気味らしく、誰も寄りつかなくなった。
人と話すこともなく友だちもいない。私自身が黒いもやを放っているかのような陰鬱な人間だ。
いつものように人ならざるものと目を合わせないように、下を向いて歩いていると、黒いネコと目が合った。無視すればよかったものを意識して見てしまった。黒いネコは生きたネコではなかった。
ネコの周りからは、しゅるしゅる、しゅるしゅると例の細い髪の毛のような黒いもやが渦巻いており、ネコの双眸は、人間の〝それ〟と同じように、アーモンド状の目の部分全てが黒く塗りつぶされたような瞳になっていた。
その瞳は、光っているようにも見えるし、光を失っているようにも見えた。見ていると全てが吸い込まれて行かれそうな黒い色。あの時見た喪服の色と同じ
ネコは不吉な視線で私をじっと見ていた。そこには何の感情も感じられなかった。
以来、黒いネコはずっと憑いてくるようになった。黒橡の目でじっとこちらを見ながら、私に憑いている。
夜、ベッドに入ると、黒いネコはのそのそと、私の胸の位置まで歩いてくると、そこに座り込み、見下ろすように私をじっと、見てくる。何の感情もなしに、ただただじっと、見てくる。
でも、私を見る視線がネコ一匹増えたところで、どうってことなかった。
ベッドの周りには今まで視線を合わせてしまった無数の人間たちの目が見下ろすように私を見ているのだから。
喪服のような黒橡の目で……。
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