第2-17話 三娘ふたたび

 照勇は呆然となった。

 救いを求めて弓月に目を向けると、ただうつむいている。遠慮しているのだと思い、照勇は背中を押した。


「ためらうことないよ、弓月」


「……」


「弓月……?」


 戸惑う照勇を横目に丁禹は言葉を続けた。


「ほかの者は今までのように働くことに異議はないのだな。不利な契約内容だと知ったうえでそれを追認したとみなすが、よいな」


 丁禹は証文の束をかざして、そう断言した。

 照勇にはわけがわからない。


「なぜ、どうしてみんな、せっかく取り戻した自由を手放そうとするの。こんな牢獄みたいなところ、出ていきたくないの?」


 高くそびえる壁を指さして照勇は周囲に呼びかけた。


「弓月、きみもどうして……!?」


 弓月はうつむいたまま、ぽそりと答えた。


「だって、ここでしか生きられないもの」


 最初は遠慮がちに呼応する声も、やがて明瞭になっていった。


「いまさら戻るところなんかないわ」

「いい旦那と出会えなくなっちゃう」

「飢えて苦しむのはもういやよ」

「借金のおかげで追い出されずにすむのに」

「ここだって悪いことばかりじゃない」

「そうよ、女が勝負をかける唯一の場所だもの」

「壁が高いのはわたしたちを守るためなのよ。城壁のようなものなの」


 ひとりが口を開くと墨が滲むように次々と広まっていく。顔を見合わせて頷きあう。

 照勇は膝をついた。おのれがいかに狭い視野しか持っていなかったか、ようやく悟ったのだ。


「与五娘よ、そなたは字の読み書きができる。証文の内容を知った上で契約した。となるとおまえは無効にはならんぞ」


 丁禹は五娘の名前が入っている証文を広げて見せた。ほかの者と違い、力強い筆跡だ。こめられた自信が空回りしているように見えた。


「それはわかっていました……」


 照勇の契約は無効にはならない。それでも抗って、弓月たちを救いたかったのだ。


「おまえはさんざん自身を卑下するようなことを言っておきながら、まったく口先だけだったな、安心したぞ。見事な屁理屈と言いがかりだった」


 屁理屈や言いがかりと評価されようが、どうでもよかった。

 照勇は泣きたい気分だった。

 自分がいかに傲慢だったかを思い知らされたのだ。契約に縛られた妓女たちを可哀想な被害者だと一方的に決めつけた。

 けんめいに涙だけは浮かべまいとこらえた。これ以上恥を重ねたくないという、心の奥底に残ったわずかな矜持のために。


「丁禹さまのご賢察には感服いたしました」


 照勇はただ頭を下げるしかなかった。丁禹はきっとすべてを見越していたにちがいない。


「では官衙に戻るとしよう」


 丁禹が踵を返したところで、門が勢いよく開いた。みなが一斉に振り返る。

 見覚えのある馬車が飛び込んできて、人をはね飛ばす勢いで滑り込む。丁禹の面前で停まった。


「五娘、どこにいる。迎えにきたぞ!」


 馬車から降りてきたのは三娘。よく響く声だ。


「三娘!? どうしてここに……」


「おまえがとつぜんいなくなるからだろうが」


 三娘はどうやらすごく怒っているようだ。細い両目が吊り上がっている。

 荷台の板戸があいて、中から蘭音と馭者の男が、猿ぐつわと後ろ手の状態で転がり出た。真っ青な顔色で、三娘を目にするや、怪物でも見たように怯えている。

 よほど怖い目に遭ったのだろう。


「なんだおまえは。人さらいか?」


 丁禹は三娘にいぶかしげな視線を向けた。捕吏が棍を構えて三娘を囲む。


「妹を拉致したのはこいつらだ」


 三娘は蘭音の肩を蹴る。


「お役人がずらりと揃ってるとは、ちょうどいい。牢にぶち込んでおいてくれよ」


「とりあえず話を聞かねばなるまい。官衙に連れて行け」


 丁禹は捕吏に命じて蘭音と馭者を立たせた。


「おまえたちもだ」


 取り囲まれるようにして、三娘と照勇も官衙に向かうことになった。双方から事情を聞くのだという。


 官衙に向かう道すがら、妓楼方面に必死で駆ける男とすれ違った。その男は弓月の関係者だったが、照勇が視界にとらえるのはもう少しあとのことになる。

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