第6話 たった一人のため
自分の肩を揉みながら、紙切れもとい新聞の切り抜きを湊のほうに戻す。
【お前も懲りないな】
「そう言うなよ。俺は待っているんだからな、お前の演奏」
湊は電子ピアノへと視線を向け、切り抜きをまた俺のほうに寄せてきた。
「コピーだから、貰っておいてくれないか」
抜け目のないやつめ。俺が捨てることを想定して原本を隠し持ってやがる。渋々ながら受け取って内容に目を通すと、笑顔で賞状を掲げている小学生の俺がいた。
呑気な昔の自分に少し苛立ち、切り抜きをポケットにつっこむ。
「神童登場。ショパン国際ピアノコンクールアジア大会、小学三年生で中学生の部門に参加し、金賞を受賞」
湊が控えめな声で先ほどの記事の内容を読みあげる。何度も同じ記事を読んで暗記したらしい。記憶力の無駄づかいだ。
「仕事を探す手間が省けるだろ?」
にっこりと満足げに微笑む湊とは逆に、俺は顔をしかめる。
励ましにきたと言っていたが、目的は完全にこっちか。
この困った親友は、事あるごとに俺をピアニストへ戻そうとする。俺が音楽に関わるのを避けていてもうまく誘導されて、コンサートホールや楽器売り場などの音楽の関わる場所に連れていかれるのだ。
誘われるときに嘘をつかれているわけではなく、出かけようとハッキリ言われているし、その場について速攻帰るのも後味が悪いので一応は参加していくが、どうも騙されているような気分になる。
当時はテレビニュースに流れて騒がれたし、家にもマスコミがやってきたが、それも一時のこと。未だに俺の演奏にこだわっているのは湊だけだ。受賞から半年ほどでピアノを辞めたからか、世間の興味は他に移っていった。
「才能を活かさないなんてもったいない。一回でも聞いた曲なら忠実に再現できる人なんて、なかなかいないと思う。ピアノに限定しなくても音楽業界でならやっていけるはずだ」
【もういいんだよ。小学校のとき散々やったからな】
降参というふうに手をあげながら首を左右に振る。
【湊も早く食べたほうがいいぞ】
スプーンでかきこむ仕草をすると、湊は困ったような表情をしながら食事に手をつけはじめた。
夢中になって食べすすめていると、ピアノが一音だけ聞こえてきて、ざわついていた店内が静かになっていく。
いつの間にか、ピアノ椅子にあんりさんが座っていた。隣に立つ店員が掲げるボードには、でかでかと半額の文字が記されている。
「今から特別企画を行います。演奏する曲を当てられたら今回のお会計は半額です。 どうぞお食事をしながらお楽しみください」
ルールは簡単。同じテーブル内で答えを教えあうのは構わないが、答えられるのは一人だけ。回答はボードを掲げていた司会者に直接言いに行くというもの。
参加も不参加も自由なので、俺は食事に集中した。
「へぇ、面白そうだな?」
わざとらしく言う湊に、俺はわざと首を傾げた。
店内が完全に静まってから、あんりさんが演奏をはじめる。
ベートーベンの月光、第一楽章だ。
力みがあって一発で初心者だとわかる。独学で覚えたのか、弾くというよりも叩いているようだ。席が遠いので指の動きまでは見えないが、鍵盤の位置を覚えきれていないのが音でわかる。何回か途切れているし、どの鍵盤を弾くのか迷ったぶん遅れて音が出ている。
それでも一生けんめいな気持ちが伝わってくる。応援したくなる演奏だ。
第一楽章は簡単で初心者向けだが、静かで奥深さのある音を表現するだけの腕が求められる。その人の力量がありありと伝わってしまう。
どうして月光を選んだのだろうと疑問を抱いている途中で、占いの『運命的な出会い』という言葉を思いだした。
「わからないなぁ」
店内の人たちがピアノの音に集中して黙った影響で、誰かが喋ると声がやけに通る。それに気づいていないのか、少し離れた席に座っている男女の会話が聞こえた。
「なんか下手じゃないか?」
「私もそう思う」
指摘の通り、ピアノを普段から聴いていない人でも分かってしまうほどにミスが多い。関係のない鍵盤に指が当たって音が出ているし、弾き間違えもある。リズムもだいぶズレている。
「聴いたことあるんだけど曲名が分かんないなぁ」
一般人でも誰もが一度は耳にしたことがある名曲だが、曲名まではすぐに出てこないようだ。他の人たちも頭を抱えている。
すでに答えのわかっている俺は、不安定な演奏にハラハラしていた。
あ、また違う。そこはもう少し優しく弾かないとーー。
「やっぱりピアノはまだ好きなんだな。よかったよ」
目の前で湊が安心したように穏やかな顔をしている。
そこで俺は、自分の右手が動いていたことに気づいた。
慌ててスプーンを引っ掴み、なんでもないフリをしてオムライスをぱくり。
「理由は何でもいい。燈之話、また聴かせてくれないか?」
珍しく、あだ名じゃなく名前で呼ばれた。真剣さが伝わってきて、直視できずに目をそらす。湊の期待には応えられない。
俺はただ、たったひとりに喜んでほしい一心で弾いていたんだ。
弾く理由がなくなってから年月が経ちすぎて、この手はきっともう錆びついている。
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