幸せを掴む勇気

醜聞のある二人の結婚

 アシルス帝国のユスポフ公爵領にて。

「皇帝陛下、本日は我が領地にご足労いただき大変光栄でございます」

 ビシッと臣下の礼をるのは、アルセニー・クジーミチ・ユスポフ。

 赤毛にマラカイトのような緑の目の、若きユスポフ公爵家当主だ。

「アルセニー、楽にせよ。今日は視察に来たのだ。よろしく頼む」

 低く重厚で威厳ある声でそう答えるのは、アシルス帝国皇帝エフゲニー・ゴルジェーヴィチ・ロマノフ。年齢はアルセニーよりもほんの少し年上である。こちらも若き皇帝だ。

 アシルス帝国帝室であるロマノフ家の特徴である、月の光に染まったようなプラチナブロンドの髪に、ラピスラズリのような青い目の男性だ。


 アルセニーは最近父である先代公爵が病気で亡くなり、公爵家の家督を継いだばかりである。

 その矢先、君主である皇帝が視察に訪れたので、緊張しているがやる気に満ち溢れていた。


「陛下、こちらが先日完成した我がユスポフ公爵領の製糸場でございます」

 ユスポフ公爵領では最近絹の生産が盛んになっている。

「ほう……」

 エフゲニーはじっくりと工場を見学する。

「絹はナルフェック王国から輸入しているが、今後は我が国でも生産が出来るのか。期待しているぞ、アルセニー」

 エフゲニーは期待を込めた表情だ。

「承知いたしました。皇帝陛下のご期待に応えられるよう、全力で取り組んで参ります」

 やる気に満ち溢れた様子のアルセニー。マラカイトの目は真っ直ぐ未来を見据えて輝いていた。


 しかし、そんな中悲劇が起こる。


 製糸場の天井の一部がバラバラと崩れて落ちたのだ。

 崩れ落ちた天井の大きな破片はエフゲニーに直撃した。

「皇帝陛下!」

 当たりどころが悪く、意識を失い倒れてしまったエフゲニー。そんな彼の元に、アルセニーやその他の者達が慌てて駆け寄る。

 エフゲニーはすぐにユスポフ公爵領内にある病院に運ばれ、命に別状がないことは分かった。

 アルセニーはそれを聞いてようやく肩を撫で下ろした。

 しかし、エフゲニーはすぐには目覚めなかった。


 アルセニーは皇帝であるエフゲニーに怪我を負わせた責任を取らされてしまうのである。

 この事故はアルセニーの製糸場確認不足が原因とされたのだ。

 このことから、アルセニーは罰として公爵位を名乗ることを許されなくなった。

 これはアルセニー個人への罰なので、ユスポフ公爵家は取り潰されることはなく、急遽三つ年下の弟マトフェイが継ぐことになった。

 当時アルセニーにはクレメンチーナという婚約者がいたのだが、彼女はマトフェイと結婚することになったのだ。

 その後皇帝が目覚め、アルセニーには特別にユスポフ公爵家が保有する子爵位なら名乗って良いという恩赦が与えられた。


 しかし、アルセニーは実質全てを失っており、皇帝に怪我を負わせた者として、社交界から追放されたも同然である。

 アルセニーはその後アシルス帝国帝都ウォスコム郊外にある小さな屋敷に引きこもるのであった。






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






 二年後。

 帝都ウォスコム郊外の小さな屋敷−−ユスポフ子爵邸にて。

「アルセニー様、おはようございます。お目覚めでしたか」

「ああ、おはよう、パーヴェル」

 アルセニーはゆっくりと自室のベッドから起き上がる。


 赤毛にマラカイトのような緑の目は変わらないが、髪は少し傷んでおり、その目にも覇気がなくなっている。


「アルセニー様、朝の支度のお手伝いをいたします」

 全てを失い、社交界からも実質追放されたアルセニー。そんな彼に唯一ついて来てくれた侍従パーヴェルは、彼の着替えを持って来ていた。

「いつもすまないな、パーヴェル。……この生活に不満があれば、別の働き口を見つけてくれてもいいんだぞ。まあ私は何のツテもないから、紹介状を書いてやることも出来ないが……」

 自嘲するアルセニー。


 かつての明朗快活でやる気に満ち溢れていたアルセニーは、もうどこにもいなかった。


「アルセニー様、私が好きでやっていることです。貴方様について来たのも、私の意思ですから」

 パーヴェルはアルセニーが幼い頃からユスポフ公爵家で世話をしてくれていた。


 二年前の事故の責任を負う形でユスポフ公爵家と社交界から追放されたアルセニーに、パーヴェルは迷わずついて行く選択をしたのである。


「ところで、本日は午後からマトフェイ様がいらっしゃるとお聞きしておりますが」

「ああ……」

 アルセニーのマラカイトの目が曇る。

「私のことなど放って置いてくれたら良いものを」

 力なく笑い、ため息をつくアルセニーだった。


 そして午後。

「相変わらず辛気臭いですね、兄上」

 小馬鹿にしたように嘲笑するのはアルセニーの弟マトフェイ。


 赤毛なのはアルセニーと同じだが、目の色はアクアマリンのような青だ。顔立ちはアルセニーと少し似ている。


「まあ、皇帝陛下に怪我を負わせた男がのうのうと幸せそうに暮らしているのも問題があるので、そのままずっと辛気臭い様子でいてくれたら良いのですがね。僕の愛しの妻クレーマも、兄上と結婚しなくて良かったと思っていることでしょう」

 アルセニーを見下したような表情のマトフェイ。

 クレーマとは、アルセニーの元婚約者でマトフェイの妻となったクレメンチーナのことだ。


 彼はこうして時々アルセニーの元に訪れて、嘲笑しながら嫌味などを言うのだ。

 アルセニーとマトフェイの仲はあまり良くない。アルセニーがユスポフ公爵家にいた頃は、マトフェイが一方的に彼を敵視していたのである。これでも幼い頃はまだ仲が良かったのだが。


「それにしても、落ちぶれた兄上はこの程度のお茶しか出せないのですね」

 マトフェイは出された紅茶を一口飲み、不味そうな表情だ。

 アルセニーは諦めたようにフッと笑うだけである。

「それでマトフェイ、今日は何の用だ? いつもは君と従者だけなのに、今日は司祭らしき人とどこかのご令嬢がいるじゃないか」

 アルセニーはマトフェイと共に来た二人に目を向ける。


 一人は足首まで隠れる黒いキャソックを着た司祭。

 もう一人は、少し古びたドレスを着ている少女。彼女の栗毛色の髪は傷んでおり、ヘーゼルの目からは光が感じられない。体格も細過ぎて心配になる程である。かろうじて貴族令嬢であることが分かる程度である。


 アルセニーは彼女のことが少し気になった。


「兄上も二十六歳になるでしょう。そろそろ結婚でもしておいた方が良いと思いまして。僕も社交界で兄上の結婚のことやら色々聞かれて面倒ですから、こうして結婚相手を見つけて来たのです」

 マトフェイはニヤリと笑い、アルセニーと少女を交互に見る。

「マトフェイ、私はこの先も結婚する気はない。それに、こちらのご令嬢だってきっと迷惑に思うだろう」

 困惑した表情のアルセニー。

「いや、問題ありませんよ。彼女……キセリョフ伯爵家のタチアナ嬢の養父母はさっさと彼女を結婚させたがっていましたし。こうして司祭殿にも来ていただいています。兄上は二十六歳、彼女は十八歳ですが少しの歳の差くらい何とかなるでしょう。さっさと婚姻誓約書にサインを書いてください」

 マトフェイの勢いに負けてしまい、アルセニーは諦めて婚姻誓約書にサインをした。

 アルセニーがサインした隣の欄には、『タチアナ・ミローノヴナ・キセリョヴァ』と書いてあった。

 それが少女のフルネームである。

「それでは婚姻誓約書に両者の名前が書かれましたので、アルセニー・クジーミチ・ユスポフ殿とタチアナ・ミローノヴナ・キセリョヴァ嬢の婚姻は神に認められることになりました」

 司祭にそう告げられ、アルセニーは連れて来られたタチアナと夫婦になるのであった。

「おめでとうございます、兄上」

 ニヤニヤと蔑んだ笑みのマトフェイ。

「ああ、それと彼女……タチアナ嬢は最近自殺未遂をしてちょっと有名になってしまったのですよ」

 自殺未遂のところを強調したマトフェイ。

 タチアナはビクリと肩を震わせ、表情が硬くなる。

「は……?」

 突然のことに頭が追いつかないアルセニー。


 アシルス帝国や周辺諸国で信仰されている宗教では、自殺は神への冒涜とされ、固く禁じられている。

 もし自殺をした場合、その者は罪人として遺体を公然の場で晒されて、石を投げられることもある。

 また、自殺者の家族も何かしらの罰を受けることになるのだ。

 つまり自殺未遂をしたタチアナは神に背こうとしたとされ、社交界では後ろ指を指されているそうだ。


「彼女が自殺しないように見張っておいたらいかがです? 皇帝陛下を怪我させて公爵家の家督を失ったという醜聞のある子爵の妻になってしまったのですから、絶望は大きいでしょう。まあ、彼女が自殺してもその罰は兄上が受けることになりますからね。この婚姻でキセリョフ伯爵家とも縁が切れたみたいですし」

 心底楽しそうに笑うマトフェイ。

 どうやらアルセニーをタチアナと結婚させたのは嫌がらせのようだ。

 そのまま彼は子爵邸を去るのであった。


 皇帝を事故に遭わせたアルセニーと自殺未遂をしたタチアナ。

 醜聞のある二人は嫌がらせにより結婚させられたのである。

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