星を堕としたい
てゆ
第一話 私の親友
むせそうになるくらい濃い草と土の匂いに鼻をつまんで、私と
――走り出した鈴の背中を追いかける。光を取り戻していく草木や、青色に戻っていく空に心を躍らせながら、私は夢中で走っていた。
「着いた! 見て見て、きれいでしょ!」
絵本の世界から差し込んできたような優しい光、それをまとって佇む一本の桜。走ったせいで乱れた息も、顔の周りを飛ぶ羽虫も、顔を上げた瞬間に、気にならなくなった。あの日、鈴と一緒に眺めた桜を、私は今でも鮮明に憶えている。
「うん、とってもきれい」
私たちの視線を釘づけにしているその桜は、自分が桜であることを忘れているみたいに、儚さなんて少しも醸し出さず、堂々としている。数えられるくらいしか降って来ない花びらを眺めていると、時の流れが止まったような気がして、ロマンチックな気分になった。
「おっ、イスだ」
鈴がそう言って指さしたのは、裏返しに二つ置かれた、瓶ビールのケースだった。かなり年季が入っていて、座ってみると、亀裂の入る嫌な音が鳴った。
「ずっと前から、ここはみんなのお花見スポットだったんだね」
「だね、本当にすてきな場所。鈴、連れて来てくれてありがとう」
親にサプライズをする子供のような、いたずらっぽい顔で、「いいとこに連れてってあげる」と私の手を引いた鈴の姿を思い出す。
「いいってことよ」
鈴の高い声には似合わない男らしいセリフ。それは、鈴がその頃ハマっていたアニメの主人公の真似だった。
「……鈴はさ、桜って好き?」
「うん、好きだよ。なんか、ハカナイ感じがして、オモムキがあるよね」
「うわー、かっこつけてる」
「へへっ、バレたか」
楽しそうに笑うと、鈴は何かを思いついたらしく、すっと立ち上がった。そして、桜に歩み寄って背伸びをし、その花を一輪摘んだ。
「どう、似合う?」
振り向いた鈴。摘み取られた桜は、その真っ黒い髪に添えられて、髪飾りのようになっていた。
「うん、とっても似合ってる。お姫様みたいだよ」
あの頃の私の語彙力では、「お姫様」という表現が限界だった。その日に焼けた肌を、スラッとした手足を、澄んだ目を思い出す度に、私は必ず、夕日に輝く広大な小麦畑を連想する。
「……ふふっ、褒められちゃった。
鈴は上機嫌になって、私にその桜を手渡した。
「う、うん。こう……かな?」
「おー! 茉莉も似合ってる!」
鈴のキラキラした笑顔に、ニヤつき始める私の顔。鏡は持っていないけど、きっと、だらしない顔になっている。
「……よし、決めた」
恥ずかしくなった私は、声を出してごまかすことにした。
「決めたって、何を?」
「来週の日曜日、鈴にあげる誕生日プレゼント」
私が反射的にそう答えると、光る水晶玉のような鈴の目に、少し影が落ちた。その様子を見て、私はやっと自分のミスに気がついた。
「なるほど。……私の誕生日会、茉莉は今回も来ないの?」
「……うん」
――私の一番古い記憶は、鈴とのお人形遊び。これまでの人生で一番悲しかったことは、六歳の時に鈴としたケンカで、一番嬉しかったことは、その後にちゃんと仲直りできたこと。私にとっての鈴は、幼馴染で、初めてできた友達で、一番の大切な人だった。
「ごめんね……」
「いやいや、謝らなくていいよ。けど、教えてほしい。……茉莉は、どうして私の誕生日会に来てくれないの?」
鈴がいくら無邪気に振る舞おうと、私がいくら背伸びをしようと、私たちの一歳の差は、なくなってくれない。
「……鈴の友達と一緒にいる時間、少し辛いから」
幼稚園での最後の一年、大きな鳥かごに閉じ込められているような、鈴のいない日々を乗り越えて、私は、希望を胸に鈴が待つ小学校に入学した。だけど……そこに、私が思い描いていた日々は、待っていなかった。鈴を囲むようにして歩きながら、明るい大きな声で、絶えず何かを話している鈴の友達は、私にとって、行く手を阻む番人だった。
「そうなんだ……じゃあさ、今年は家族だけでお祝いするって言って、茉莉以外の友達は誘わないよ」
「……えっ?」
鈴の真剣な顔は、お母さんの怒っている顔よりもずっと、私をドキドキさせる。その小麦色の指は、私の青白い手の甲をそっとなぞっていた。
「十歳の誕生日ってさ、なんというかその、すっごい特別じゃん。だってさ、大人になる二十歳までの中間地点ってことでしょ? ……そういう特別な日は、一番の友達と一緒に過ごしたいんだよ」
耳をほんのりと赤くしながらも、最後まで私の目を見て、そう言ってくれた鈴。心臓のドキドキが、手の細い血管まで伝わっていないか心配だった。
「……わかった。私、鈴の誕生日会に行くよ」
「本当? やった!」
少し前まで、鈴に言われる「一番の友達」は、家族に言われる「愛してる」と同じくらいのものだった。言われたら確かに嬉しいけど、こうやって胸が震えるほどの言葉ではないはずだった。
一体、いつなんだろう? 「鈴の一番の友達は、今も変わらず私なのか?」という不安が、心に芽生えたのは。
「茉莉の将来の夢ってなに?」
「うーん……今と同じ生活を、ずっと続けていくことかな。『願い』って言った方が、あってるかもしれないけど」
勉強は鈴よりも少しできるけど、取柄と呼べるほどではないし、趣味の絵も大して上手くない。その上、運動だってできないし、顔だって別にかわいくない。私は、そんな自分のことが嫌いだ。いや……「嫌い」というよりも、「好きになれない」という表現の方が近いか。
「お金持ちになりたいとか、かっこいい男の子と結婚したいとか、思わないの?」
「まあ、少しは思うけど……鈴が近くにいて、家族も元気な今が、一番幸せだな」
贔屓目なしに見ても、鈴は誰もが憧れるような女の子だった。明るいし、優しいし、かわいいし、勉強は少し苦手だけど、運動だってできるし……本当に、長所を挙げると、キリがないくらい。
「鈴の将来の夢は?」
「まだ決まってないんだけど、強いて言うなら……茉莉みたいな人になりたいかな。落ち着いてて、頭が良くて、自分をしっかり持ってる、茉莉みたいな人に」
――鈴の無邪気な笑顔が、あの時だけは憎たらしかった。
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