星を堕としたい

てゆ

第一話 私の親友

 むせそうになるくらい濃い草と土の匂いに鼻をつまんで、私とすずは、家の裏山の獣道みたいな細い道を歩いていた。ジメジメとした嫌な暑さに黙り込んだまま、淡々と進むこと十数分。倒木を跳び越えた辺りで、「もうすぐ着くよ!」という鈴の明るい声が響いた。

 ――走り出した鈴の背中を追いかける。光を取り戻していく草木や、青色に戻っていく空に心を躍らせながら、私は夢中で走っていた。


「着いた! 見て見て、きれいでしょ!」

 絵本の世界から差し込んできたような優しい光、それをまとって佇む一本の桜。走ったせいで乱れた息も、顔の周りを飛ぶ羽虫も、顔を上げた瞬間に、気にならなくなった。あの日、鈴と一緒に眺めた桜を、私は今でも鮮明に憶えている。

「うん、とってもきれい」

 私たちの視線を釘づけにしているその桜は、自分が桜であることを忘れているみたいに、儚さなんて少しも醸し出さず、堂々としている。数えられるくらいしか降って来ない花びらを眺めていると、時の流れが止まったような気がして、ロマンチックな気分になった。

「おっ、イスだ」

 鈴がそう言って指さしたのは、裏返しに二つ置かれた、瓶ビールのケースだった。かなり年季が入っていて、座ってみると、亀裂の入る嫌な音が鳴った。

「ずっと前から、ここはみんなのお花見スポットだったんだね」

「だね、本当にすてきな場所。鈴、連れて来てくれてありがとう」

 親にサプライズをする子供のような、いたずらっぽい顔で、「いいとこに連れてってあげる」と私の手を引いた鈴の姿を思い出す。

「いいってことよ」

 鈴の高い声には似合わない男らしいセリフ。それは、鈴がその頃ハマっていたアニメの主人公の真似だった。

「……鈴はさ、桜って好き?」

「うん、好きだよ。なんか、ハカナイ感じがして、オモムキがあるよね」

「うわー、かっこつけてる」

「へへっ、バレたか」

 楽しそうに笑うと、鈴は何かを思いついたらしく、すっと立ち上がった。そして、桜に歩み寄って背伸びをし、その花を一輪摘んだ。

「どう、似合う?」

 振り向いた鈴。摘み取られた桜は、その真っ黒い髪に添えられて、髪飾りのようになっていた。

「うん、とっても似合ってる。お姫様みたいだよ」

 あの頃の私の語彙力では、「お姫様」という表現が限界だった。その日に焼けた肌を、スラッとした手足を、澄んだ目を思い出す度に、私は必ず、夕日に輝く広大な小麦畑を連想する。


「……ふふっ、褒められちゃった。茉莉まつりもやってみて」

 鈴は上機嫌になって、私にその桜を手渡した。

「う、うん。こう……かな?」

「おー! 茉莉も似合ってる!」

 鈴のキラキラした笑顔に、ニヤつき始める私の顔。鏡は持っていないけど、きっと、だらしない顔になっている。

「……よし、決めた」

 恥ずかしくなった私は、声を出してごまかすことにした。

「決めたって、何を?」

「来週の日曜日、鈴にあげる誕生日プレゼント」

 私が反射的にそう答えると、光る水晶玉のような鈴の目に、少し影が落ちた。その様子を見て、私はやっと自分のミスに気がついた。

「なるほど。……私の誕生日会、茉莉は今回も来ないの?」

「……うん」


 ――私の一番古い記憶は、鈴とのお人形遊び。これまでの人生で一番悲しかったことは、六歳の時に鈴としたケンカで、一番嬉しかったことは、その後にちゃんと仲直りできたこと。私にとっての鈴は、幼馴染で、初めてできた友達で、一番の大切な人だった。


「ごめんね……」 

「いやいや、謝らなくていいよ。けど、教えてほしい。……茉莉は、どうして私の誕生日会に来てくれないの?」

 鈴がいくら無邪気に振る舞おうと、私がいくら背伸びをしようと、私たちの一歳の差は、なくなってくれない。

「……鈴の友達と一緒にいる時間、少し辛いから」

 幼稚園での最後の一年、大きな鳥かごに閉じ込められているような、鈴のいない日々を乗り越えて、私は、希望を胸に鈴が待つ小学校に入学した。だけど……そこに、私が思い描いていた日々は、待っていなかった。鈴を囲むようにして歩きながら、明るい大きな声で、絶えず何かを話している鈴の友達は、私にとって、行く手を阻む番人だった。


「そうなんだ……じゃあさ、今年は家族だけでお祝いするって言って、茉莉以外の友達は誘わないよ」

「……えっ?」

 鈴の真剣な顔は、お母さんの怒っている顔よりもずっと、私をドキドキさせる。その小麦色の指は、私の青白い手の甲をそっとなぞっていた。

「十歳の誕生日ってさ、なんというかその、すっごい特別じゃん。だってさ、大人になる二十歳までの中間地点ってことでしょ? ……そういう特別な日は、一番の友達と一緒に過ごしたいんだよ」

 耳をほんのりと赤くしながらも、最後まで私の目を見て、そう言ってくれた鈴。心臓のドキドキが、手の細い血管まで伝わっていないか心配だった。

「……わかった。私、鈴の誕生日会に行くよ」

「本当? やった!」


 少し前まで、鈴に言われる「一番の友達」は、家族に言われる「愛してる」と同じくらいのものだった。言われたら確かに嬉しいけど、こうやって胸が震えるほどの言葉ではないはずだった。

 一体、いつなんだろう? 「鈴の一番の友達は、今も変わらず私なのか?」という不安が、心に芽生えたのは。


「茉莉の将来の夢ってなに?」

「うーん……今と同じ生活を、ずっと続けていくことかな。『願い』って言った方が、あってるかもしれないけど」


 勉強は鈴よりも少しできるけど、取柄と呼べるほどではないし、趣味の絵も大して上手くない。その上、運動だってできないし、顔だって別にかわいくない。私は、そんな自分のことが嫌いだ。いや……「嫌い」というよりも、「好きになれない」という表現の方が近いか。


「お金持ちになりたいとか、かっこいい男の子と結婚したいとか、思わないの?」

「まあ、少しは思うけど……鈴が近くにいて、家族も元気な今が、一番幸せだな」


 贔屓目なしに見ても、鈴は誰もが憧れるような女の子だった。明るいし、優しいし、かわいいし、勉強は少し苦手だけど、運動だってできるし……本当に、長所を挙げると、キリがないくらい。


「鈴の将来の夢は?」

「まだ決まってないんだけど、強いて言うなら……茉莉みたいな人になりたいかな。落ち着いてて、頭が良くて、自分をしっかり持ってる、茉莉みたいな人に」


 ――鈴の無邪気な笑顔が、あの時だけは憎たらしかった。

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