コヨーテ
ゆぎ 真晝
第1話 誕生日
僕は柄にもないことを始めた。
アクセサリー作りだ。
僕の部屋は今、工房状態。この部屋の中が、僕の世界の全てだ。
ネット通販で届いた「初めてのシルバーアクセサリー」というキットは、全く、馬鹿にしているのかというくらい簡素な代物だった。それでも、家庭用オーブンで焼いて、シルバーアクセサリーができるそのキットは、このジャンルで一番人気の商品だった。
まあ、僕には、シルバーの特製を学ぶためのステップくらいにはなったかな。
最初はその程度でいいと思ったんだ。
結局、凝り性が災いして、炉まで購入することになった。その炉も、多少自分で改造した。物を作るのは大好きだ。
ただ、思うようにはできないだけ……
シルバーになんて興味ない。ましてや、アクセサリーなんて。
つける訳ない。
僕が身を飾ったりしたら、世界が笑うだろ?
それでも、目的がある時の僕の集中力は、自分で言うのも何だが、尋常じゃない。僕はほぼ半月で、アクセサリー作りに精通した。もともと、それがイケてるのかどうかもわからなかった僕が、イケてるアクセサリーを作るまでに達した(と、自信を持って言える)
今、僕を悩ませているのは、角度だ。
このフォルムが気に入っている。
完璧だ。
でも、この角度だとダメなんだ。
彼女の笑い声で目が覚めた。
やばい、眠ってた。
最後の調整が終わって、安心しちゃったか。今、何時だ?
シンシア――
双子の兄弟、ジェイミーの恋人だ。
ジェイミーの恋人は、彼女で何人目だろう。ジェイミーはすべての女性に愛される。
そして、ジェイミーは家族を愛している。
ジェイミーが恋人を家に連れてくると、パパとママに、はにかんだ笑顔を、そして僕に、薄気味悪いものを見る、あの視線を向ける。
そう、僕は薄気味悪い。それは否定しない。
でもよ……今は耐えろよ。お前の大好きなジェイミーの、双子の兄弟だぞ、僕は。
シンシアが初めて家に来た日、こともあろうに、彼女は紹介された僕に微笑みかけ、かがんで僕の肩をハグしたかと思ったら、頬にキスまでして「あなたが、ミッチェルなのね。会えてうれしいわ」と言ってのけた。
よくやった。君はなかなかじゃないか。驚きながら僕はそう思ったものだった。
シンシアが笑っている。ママと楽し気に――何か料理しているらしい。
ママは最近、腰を痛めて、家事がままならない。シンシアが何かと手伝いに来てくれている。
今日は、僕とジェイミーの 二十五回目の誕生日だ。
「ハッピーバースデー!」
「ありがとう! うまそー! これは?」
「シンシアが作ったのよ」
「見た目は地味だけど、味は保証するわ」
「めちゃめちゃ、いい匂いしてる」
「ほんと、美味しそう。このケーキもシンシアが作ってくれたのよ」
ジェイミーとママとシンシアの会話が早すぎて、僕は「ありがとう」を言いそびれた。
まあ、いいや。
「ムースケーキにしたの。ミッチェルにも食べてもらいたいから」
え?
ママが、嬉しそうな笑顔でシンシアを見ていた。
僕は、ちょっと驚いた顔を見せただけで、また何も言えなかった。
「ローソク、二十五本立てましょう! 二人で吹き消して!」
ママの先導で、ローソクに火を付けるのはパパとジェミー。ハッピーバースデイが合唱された後に、僕とジェイミーが火を吹き消す。
毎年の儀式。
正確には、僕は吹き消す仕草をする。
車椅子に座った僕が目の前に置かれたケーキのローソクの火を、たとえ一本でも消せているのかは分からない。それでも二人で消しているんだっていう呈で、ジェイ
ミーは馬鹿みたいな肺活量を生かし、年齢分のローソクを消していく。
「おめでとう!」たった三人の割れんばかりの拍手が、なんとも空々しい。
「パパとママからのプレゼントよ」
二人分の包みを受け取ったジェイミーが、僕の膝の上に一つ置いてくれる。どちらでも構わないから。いつも二人に同じものが贈られる。
そう、僕らは双子だから。
顔つきも、体格も、性格も、起きる時間も、行動範囲も――全てが違う僕らに。
「枕?」ラッピングをビリビリに引き剥がしたジェイミーが、中身を取り出して聞いた。
料理を頬張りながらやらなくなっただけ成長したのだろう。
「そう、安眠枕って、今、流行ってるんだって」ママが得意そうに僕らを見る。
うん、考えたね。去年のカブトムシ型のマウス。あの使えないヤツより、ずっといい。
「ありがとう」綺麗に畳んだ包装紙と、枕を膝に乗せた僕が、今夜初めての礼を言う隙間を見つけた。
「私からも」シンシアがジェイミーにプレゼントを渡して、立ち上がった。
ジェイミーが友人を家族のパーティに招くのは珍しくない。
この儀式が終わったら、僕は早々に部屋へ退散するし。
「ミッチェルも、おめでとう」僕の方に回ってきたシンシアが僕の膝の枕の上に、リボンをつけた紙袋を置いた。
「ああ、僕にも?」
「二人のお誕生日だもの」シンシアが笑った。
シンシアは礼儀正しい人なんだ。ジェイミーの客は、ジェイミーを祝いに来たのだから、気を使わなくてもいいのに。
「ありがとう」僕がシンシアに礼を言う間にも、ジェイミーは包みを開けて、スニーカーを取り出した。
「マジ、カッコイイじゃん。サンキュー、シンシア。愛してるよ」ジェイミーが、僕の目の前で、シンシアの顔を引き寄せてキスをした。おいおい、そっちでやってくれ。
迷惑そうに顔を引きながら、紙袋を開けると、ニットの帽子が入っていた。
「いつも、ミッチェルが外に出る時は、ニット帽をかぶってるから、ニット帽がいいと思ったんだけど、時期じゃないから、あんまり売ってなくて。気に入るといいんだけど」
どこにも、なんのタグも無かった。
「もしかして、作ったの?」
「やっぱり変?」
「いや……ありがとう」
正直、何て言っていいのか、わからない。こんなこと、僕の人生にあるわけなかったから。
他人の――それも、女の人が、僕のために、手編みの帽子を作ったの?
「えー、俺も、手作りがいい」ジェイミーが甘ったれた。
「ジェイミーは、乱暴だから、直ぐにボロボロにしちゃうでしょ」シンシアは笑いながらジェイミーの隣に戻った。
僕はニットをスッポリかぶると、自慢げな流し目でジェイミーを見た。
「あ、なんか、ムカつく」
家族が笑った。シンシアも。
「お前は、これで我慢しろ」
頃合いだったので、僕は背もたれのクッションの裏に隠した小さな箱をジェイミーに手渡した。リボンは付けなかった。ギリギリ、ラッピングらしきものは施した、小さな箱。
「何?」ジェイミーは本気できょとんとしていた。
「誕生日プレゼント」
「はあ? 何で、お前だって誕生日なのに」
ジェイミー同様、みんな驚いているようだった。そうかも、変かも、確かに。
「僕はさ――」
「ちょっと待て、俺、なんにも用意してないよ。だって、今まで一度も、そんなことなかったじゃん。ごめん、俺は……明日でもいい?」ジェイミーが本当に焦っているようなので、なんだか申し訳ない気がしてきた。
「いや、いいよそんなの。大したもんじゃ……いや、大したもんだけど。僕は――生きて生まれてこれる人間じゃなかったじゃない」
部屋の中がシンとした。
「それでも、ジェイミーが僕を道連れみたいにして生まれてきて、十日持つかどうかって言われていた赤ん坊が、こうして二十五歳の誕生日を迎えたんだ。一人じゃ、一日だって生きていけない僕が。四半世紀だよ。すごくね? 誕生日は―家族に、それと、最近はシンシアも――感謝する日なんだ。ありがとう」
ママが両手で口を押えて、目から滝のように涙をこぼしている。パパは鼻をヒクつかせながら、じっとこっちを見ている。シンシアはママのもらい泣きのように、目に溜まった涙を、指の先で掬い取っている。
ジェイミーはまさに衝撃を受けた顔で、僕を見つめている。
「だから、これは、おっぱじめたお前に、代表してだよ――やめろやその目。いいから開けろよ」ぼくはニット帽を引っ張って、顔を隠した。シンシアはいいものをくれた。
「まあ、ピアス?」
シンシアの声で、皆が中身を見たのが分かって、僕はニットを目の上まで上げた。
箱から取り出した銀のピアスを指でつまんだジェイミーが「犬?」と問いながらこっちを見た。
「狼だよ、ドアホ」
「すごく美しいわ――」シンシアが感嘆した。やっぱり君は、わかっている。
「意外だな。ミシェがアクセサリーを買ってくれるなんて」
「買ってない。自分で作った」
「作った?」
「作った?」
「作った?」
両親とジェイミーが、息の合った驚き方をした。
「素晴らしいわ」どうやら、シンシアは、自分で作るというのがときめきポイントの人らしい。今度、何か、プレゼントしようか。いや、やめておこう。
「ウルフだな」とパパが笑った。
「懐かしい。ミシェ、知ってたの?」
「何が?」シンシアが聞いていた。
「俺、大学の時、ラグビー部で、ウルフって呼ばれてたの。かっこいいだろ」
「ミッチェルは、一度、お前の試合を見に行ってるよ」パパが二人の息子を交互に見つめながら言った。絵にかいたような誕生日の団欒だ。
「病院の帰りで、数値も良かったし、天気も良いし、今日はジェイミーの試合があるから寄り道して行こうって、パパが勝手に連れて行ったんだ」
「そうそう。帰ってこないから、ミッチェルに何かあったのかと、心配したわよ」ママも思い出していた。
――覚えている。迷惑そうに車椅子の上で身を縮めていた。
パパは、そんな僕にはお構いなしに、すぐにゲームに夢中になって、大声でジェイミーを応援していた。
グラウンドでは、黒いユニフォームを着たジェイミーが、敵陣を縫うように走っていた。
ジェイミーにボールが渡ると、もう、誰も止められない。誰も追いつけない。
絶対一〇〇㌔オーバーだろうという、相手選手のタックルを、軽くかわして、飛び越えて――
観客席から【ウルフ】の大合唱が聞こえていた。
観客席の上の方で見ていた僕には、ジェイミーが、相手の熊たちを翻弄しながら、蹴散らして、仲間を導いている狼の群れのリーダー。そんな風に見えた。
ひざ掛けが落ちていることは、試合が終わるまで気が付かなかった。
いつの間にか、車椅子の上で、身を乗り出して、ジェイミーに見入っていた。
ジェイミーの周りの空気が、小さな竜巻のように舞うのが見えた気がした。
――ああ、走ってみたい――
あの時、生まれて初めて、そう思った。
「男どもは楽しんできたのよね。私は、ジェイミーの大学には、留年して、お金の算段が狂った嫌な思い出しかないわ」
「ママぁ」ジェイミーが情けない声を出しながら、ピアスを耳に着けていた。
「なんか、キャッチがいっぱいある」旗色の悪くなった会話を変えようと、ジェイ
ミーが話題をピアスに戻した。
「お前、すぐ無くすから、予備だよ」
「流石――お、すげぇ、ピッタリくる」
「そりゃそうだろ。僕は完璧主義者なんだ。中途半端なものは作らない。自分にピアスの穴をあけて、着け心地を確認してまで、完璧なものをー」
「ピアスの穴を開けたですって?」ママが悲鳴のような声を上げで、飛んできた。
「いや、もう、三日以上前だよ」ボサボサの髪をかき上げて耳たぶを確認するママを押し返しながら、ちょっとうんざりした顔をした。
「あなた、ヘモグロビン欠乏なんだし、免疫力も低いんだから、無茶しないで――」
「ピアスの穴くらいじゃ死なないよ。ちゃんと、消毒もしてるって」うるさそうにママの手を払いながら言うと「あなたがピアスの穴を開けるなんて、ジェイミーが片腕切り落とされるよりも一大事よ」とママは呟いた。
「えー、俺の腕は、もっと心配してよ」ジェイミーが情けないような声で抗議した。
「ジェイミーの腕は……何か、切ってもまた生えてくる気がする」
「トカゲか!」
シンシアが本当に可笑しそうに笑っていた。コロコロと転がるような笑い声。
ジェイミーの恋人の中では、珍しく――聡明な女性
ママが、僕の側に来たついでに、僕の皿にケーキを取り分けた。
「少しね。余ってしまうから」ママはそんなこと分かっているけど、シンシアにわかるように声に出して言ったー僕には、少ししか食べられない。
嚥下障害で、食事は口から食べられない。ムース状のものは、少し飲み下せる。栄養は胃瘻で取れるから困っていない。食べることに興味がない。
せっかく、僕のためにムースケーキにしてくれたんだ。プレゼントまで用意してくれた。義理は果たさなければ。
咽ないよう、細心の注意を払って、一匙、口に入れてゆっくり飲み下した。
「どう?」合格発表を見るような顔で、シンシアがこっちを見ていた。
食べることに興味がないのに。
なぜ、みんな、食べる楽しみを教えてやりたい的なお節介をする――
家族が、撃沈タイムに備えたような顔をしている。
「――甘い」僕はそう答えた。
「あ、甘すぎた?」シンシアが落胆したように言うのに被せて
「甘いって言った!」ママが飛びあがりそうな反応をした。
「スゲー、まともなこと言った」ジェイミーも撃沈タイムを予想していたので大きく息を吸ってそういった。
「いつもなら、アスファルトの味がするとか言うのよ」
「そうそう、カマキリの卵の味だとか、ゲロの味だとか」
「ゲロの味とは、言わない」僕は、完璧主義者なので、そこは、否定した。
「そんなようなこと言ってんじゃん」
「カマキリの卵やアスファルトは、食べたことないから知らない。ゲロの味はよく知ってるから、言わない」
「お前たち、食事時の会話か……」パパがたしなめた。
「良かった。少なくともゲロよりは美味しいってことね」シンシアが笑っていた。
今日の誕生日は、まるで――僕も主役のようだ……
いつもなら、特にジェイミーが友達や恋人を呼んだときは、僕はなるべく邪魔をしないようにしている。これでも、家族を愛しているから。
家族はいつも、僕のために、多くの制約を受けている――
「ねえ、道連れに死ぬ……なら聞いたことあるけど、道連れに生まれたって、どういう意味?」シンシアが僕に聞いていた。
「ああ……まだ聞いてないんだ。その話は、僕よりママの方がうまく説明できるよ。なんせ、この二十五年間で、多分三百回くらい人に話してるだろうから。堂に入ってる」
「そんなに話してないわよ。でも、今日みたいな日に話すのは、そう、ピッタリね」ママは嬉しそうに話し出した。
ジェイミーはチャンスとばかりに、シンシアの作った肉料理に手を伸ばした。パパもワインを注ぎ足した。
「ジェイミーとミッチェルは一卵性双生児でーこう見えてもね。双子だってわかった時には、飛び上がりたいくらい驚いて、嬉しかった。生まれた時から兄弟がいるなんて、なんてラッキーな子供たちなの?って。でも、産科の先生から、この子たちは一絨毛膜一羊膜双胎、一つの部屋、一つの胎盤を共有してる双子なので、どちらかに発育が偏って、もう片方は、育たない確率が高いって言われて」ママはもう涙ぐんでいた。
「私のお腹の中に二つの命が存在してるのに、どちらかが死んでしまうかもしれない。私は母親なのに、救けてあげられないなんて……辛くて、悲しくて、とにかく、検診の度に、心臓が動いていないと言われませんようにって……どうか、二人とも無事に育ちますようにって、それはもう、思いつく限り、いろんなことをしたわ。必要以上にたくさん食べたり、検診で小さい方の赤ちゃんが右側にいるってわかったら、食べてからすぐ、右を下にして寝てみたり」
ジェイミーもミッチェルも笑った。このくだりでは、いつも笑ってしまう。今となっては、笑い話なのだ。
「出産の日に――帝王切開だったんだけど――エコーで二人の心拍が確認できた時には、本当に嬉しかったわ。その時には、もう、一人は発育が不十分で、おそらく生きて生まれても、十日も生きられないだろうって言われてたの。胎盤から離れたらすぐに、死んでしまうかもしれないって。だから、私も、麻酔は最小限にしてもらって、パパも立ち会った。生まれてくる――生きているその子に、一目でも会うために」ママの声が震えた。
シンシアも、もう泣いていた。
その赤ん坊が僕だって、わかるだろうに。
「先に、先生がお腹から取り出したのがジェイミーだった。輝くように美しくて、ああ、やっと会えたって思ったわ。ジェイミーを取り上げた先生が、『ああ』って言ったの。その瞬間、私にも見えたわ。パパも見ていた。ジェイミーが――手を握っていたの。もう一人の赤ちゃんの。ミッチェルの手を」
今日のママは泣きすぎだ。誕生日だからか、感情移入がハンパない。
「この子たちは、手を繋いで生まれてきたのよ」
暗唱できるくらいこの話を聞かされているパパまで、目をしばつかせている。やめてよもう。僕は、ニット帽を深く被った。
それから、どんなにその赤ちゃんが小さくて、弱くて、でも、生きていてくれたことを家族がどれだけ幸福に思ったか……のくだりを聞きながら、目を瞑っていたら、なんだか声は遠くで聞こえるような気がした。
「あら……」母親が、眠ってしまったミッチェルに気が付いて、隣の夫を見た。
俺が行こうか? と言うように体を向けたジェイミーを手で制して、父親は細く軽いミッチェルの体を抱き上げると、部屋に運んで行った。
まだ、ほんの赤ん坊の息子を抱くように。
父親も、今日は感傷的になっていた。
どのくらい眠っていたのだろう。
自分の部屋の、自分のベッドに寝ていると気づいて、僕は飛び起き――ることはできないので、首だけがくんと起こして周りを見渡した。
(もう、パーティ、終わっちゃった?)
いや、別にパーティはどうでもいい。あんなに長居するつもりはなかった。
これだって、別に今日じゃなくてもいいんだけど。
今日は、誕生日だからーきっと……だろ?
介護ベッドのリモコンを手探りで探して、背もたれを上げた。まだそう時間が経っていないらしい。長く眠っていたなら、手が痺れて、動かすのに時間がかかる。
可動式のデスクに手を伸ばすと、ヘッドフォンをつけ、PCの電源を入れ、何層も下に沈めたアプリを起動した。
ジェイミーが自分の足を見ている。靴ひもを調節していた。シンシアに貰ったス
ニーカーだ。
「いいねぇ。いつもより三秒くらい早く走れそうだ」
「三秒って、百メートルで?」シンシアが可笑しそうに尋ねた。
「今より三秒縮まったら、オリンピックで金メダルが取れるわよ。ハンサムさん」
ジェイミーがシンシアを抱き寄せて、キスをした。たぶん。
近づけば、視界は左側に偏る。
濡れたような音……微細な音もクリアに響く。小さな吐息は、シンシアのものだ。まるで、僕の耳元に息を吹きかけられたような気がした。
「本当に綺麗……」
シンシアが真っすぐに、こっちを見た。
僕は、思わず、PCの画面に指を当てた。
「驚いたよ。ミシェに何を返したらいいんだろう……あいつ。こんなことして」
「素敵な家族ね」
聞いてて僕は胸が痛んだ。
「今は、皮肉屋で愛想がないけど、小さい頃は素直で大人しかったんだ。入院ばっかりしててーミシェが帰ってくる日は嬉しくて、いつも学校から走って帰ってきた。まあ、放課後、友達と遊んだ後ではあったけど」シンシアが呆れたように笑っていた。
「大学卒業してから、アカデミーの間も、制服警官の間も、この家を出てたからかな。誕生日は帰って一緒に祝ってたんだけど。ここに住んでて家族で祝うの久しぶりなんだーだからかな。俺も、何か用意すればよかったーミシェ、何がいいんだろう」
「去年はまだ、制服警官だったのねージェイミーの制服姿、見たかったわ」
「そうとう人気あったよ」
「ほんと? 今度着て見せて」
「いいよ。探しておく」ジェミーは囁くような声になっていた。
「君も、白衣来てくれる?」
「私、普段、白衣なんて着ないわよ」
「初めて会った時は、白衣だった」
「ああ、直轄病院だったものね。あそこ、着せられるの。私のじゃないのよ」
「じゃぁ、今度一枚くすねてくるから」
「何のプレイ?」シンシアは鼻にかかるような声になっていた。
「白衣を脱がせたいんだ……警官姿で」再びジェイミーがシンシアを抱き寄せてキスをした。
なんだこのバカップル……
「ジェイミー……」シンシアが声帯を通さずに、口の中でだけ呟くようにそう言った時には、ジェイミーが慣れた手つきで、そう、もう決まっていた振付のようにシンシアのシャツの下に手を入れていた。
それからは、シンシアのあごのライン、耳にかかる髪の毛、白い胸の谷間を目の前にしながら、二人のあがっていく息が聞こえていた。やっと、視界が宙に浮き、シンシアを見下ろした時には、シンシアの衣服は、彼女の体の下に敷かれていた。
(うわ、見ちゃった)
日に焼けたジェイミーの手が、シンシアの白い肌の上を滑った。
――そう、僕は、最低な人間だ。
最初は、シンシアの声が聞きたいと思っていた。シンシアの声が、ものすごく好きなんだ。
シンシアが、あの時……あれの時……どんなふうなのか――どんな声で鳴くのか……そう、最低な妄想をした。
それは、ジェイミーの世界で、僕の世界じゃない。
そんなこと分かっていたけれど、今の世の中、盗聴をしようと思ったら、結構簡単にできてしまう。どんなに素人でも、成功してしまう商品が、一般に販売されてしまっている。まして、僕は三つの工学大学を卒業している。博士号も持っている。
理論として考えた時、僕が二階のジェイミーの部屋に盗聴器を仕掛けるのは無理だ。では、ジェイミーの持ち物に仕掛けるのが有効だが、電気の供給をするのが難しい。
電池が持つ間に目的を達成できればいいが、使い捨てにするには、盗聴器への投資が惜しい……かといえ、電池を交換する隙があるとは限らない……と考えていた時、またピアスのキャッチを無くしたと騒いでいるジェイミーを見た。ジェイミーはシャワーに行く前に――または、シャワー中バスルームでということもある――ピアスを外す。ピアスホールを洗いたいからだ。そして、よくピアスのキャッチを無くしている。
もし、ピアスキャッチが電池だったら、定期的に新しい電池に交換できるのでは? ピアス本体に盗聴器が仕掛けられたら、キャッチを交換さえすれば、電気供給がされ、また使用できるようになるのでは?
そこからは、もう、探求心だ。
ピアス程度の大きさのものに、マイクを埋め込めるのか――楽勝だった。けっこう高性能のマイクがものすごく小型で売られていた。ピアスの形状によっては、カメラも埋め込み可能だった。
カメラ? 調べれば調べるほど、奥が深く、小型のものがマイク以上にたくさんあった。
そうして、僕は、ジェイミーに身に着けさせるためのピアスを自作した。
マイクとカメラ付きで……
あんなに喜んでくれたジェイミー、感動してくれたシンシア、パパ、ママ……ごめんなさい、僕は最低な人間です。
画面では、ジェイミーがシンシアを見下ろしていた。必死に声を抑える切なげな顔と、ジェイミーが指の先で弄んでいる胸が見えていた。でも、きっとシンシアがこんなになっいる原因はフレームアウトだ。
僕には経験がない。
経験がないことは、知識がないこととイコールではない。
AVや、エロ動画なら、ぼくはジェイミーよりも早くから、数多く見ている。
親がかけたインターネットのフィルターを、親に気づかれずにかいくぐることは、十代の前半からできた。十代の後半に差し掛かった頃には、リアルに経験していただろうジェイミーには、必要のないスキルだ。
画面では、シンシアの顔がフレームアウトして、だんだん視点が体を下がっていった。
(やばい……)
見えちゃうかと思ったけれど、ジェイミーが顔を近づけすぎていて、僕にはシンシアの右足の付け根あたりなのだろう、下着の跡が残る白い肌しか見えなかった。
シンシアの声が更に甘くなった。
こっちの脳にも、刺激が伝わるような声……僕の下半身が反応していた。
同じ時に、ジェイミーも我慢できなくなったようで、滾った部分に、ゴムを付けるのが見えた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、僕は最低な人間です)そう唱えながら僕は、自分の下腹部を触った――堪えるようなため息が出た。
神様は残酷……
僕には数々の内臓疾患がある。足も感覚はあるけど、動かすことができない。
おそらく、ジェイミーと瓜二つのはずの顔は、肉付きのない骸骨のようで、ジェイミーがミイラになったらこうなるだろうという程度に似ているだけ。
もっとも必要ない機能が、生殖機能だろう……
それを残してくれた神様は、何を考えているのか――もう、拷問だ、こんなの。
画面は、またシンシアを見下ろしていた。切れ切れに息をしながら、シンシアは声を殺していた。
恋人の実家だから。兄弟も親もいる家だから……
声を堪えているシンシアを見ていたら、盗み見ている自分が、さらに最低に思えたけれど、止めることはできなかった。
用意のために、ティッシュの箱に手を伸ばした時、「ツっ」という声を出して、ジェイミーの動きが止まった。
(え?)
ティッシュの箱に手を伸ばしたまま、僕の動きも止まった。
そっからは、もう、何がなんだから分からずに、呆然と画面を見つめた。
深く息をしながら、ゴムの処理をして、シンシアの横に倒れこみ、彼女の髪を撫でたり、手にキスをしたりしながら、ジェイミーは呼吸を整えた。
首筋を撫でたり、また指を舐めたりしながら、ジェイミーは軽く鼾をかき始めた。
(えー……)
シンシアが部屋の明かりを消した。
カメラが暗視モードに切り替わり、青緑の画面の中でシンシアの夜行生物のように光る瞳が、じっとこっちを見ていた。
(ちょっと待て、ジェイミー。確かに、僕には、経験がない。友達もいない。僕の知識なんて、エロビデオとエロ動画が全てだ)僕は頭の中だけでそう呼びかけた。
(だけど、だけどよ。それにしても――お前)
僕はティッシュに伸ばしていた手をおろし、すでに落ち着いている下腹部に入れていた手を抜いて、疑問を声に出していた。
「早くね?」
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