芸能界に全く興味のない俺が、人気女優と絡んでしまった件について
くるみぱん
第1話 私の名前は「くましろ」です
「助けて!」
電話の声は同期の田村由美だった。なにやら切迫した声だった。
「ん?どした?」
「今日はこれから大事な仕事があるのだけど、風邪を引いてしまったので、柊くんに代わりに行ってほしいの。
その……仕事相手は万が一にもうつしちゃいけない相手で、この状態の私が現場に行くと色々問題が――」
ところどころ言葉が端切れになっているのが気になるが、かなり切迫した状況らしい。
「俺で代わりが務まるかは、話を聞いてみないとわからないけど」
この状況では断りにくいし、同期が困っているなら可能な限りは助けてあげたい。
ただ、状況が全くつかめないので先を促した。
「えっと、柊くん以外の人には頼みにくい仕事で、内容については大野副部長に聞いてくれないかな。
引き受けてくれるかどうかは、話を聞いてもらってからで構わないから」
こんなことを言われてしまったら、さすがに断れない。
「わかった、田村のことだからそんなに無茶振りしないと信じることにするよ。
これ以上しゃべるのも辛そうだし、後は任せてくれ」
「ありがとう柊くん!あとでご飯でも奢るね!」
(急に元気になりやがった……コイツほんとに具合が悪いのか?)
翔太は「お大事に」と言って電話を切り、上司の大野の元へ向かった。
「おー、来てくれたかー。引き受けてくれてありがとう柊!」
「まだ、なにも聞いてもないし、返事もしてないですよ」
全く……と内心ぼやきながら、翔太は大野に事情を聞くことにした。
翔太が所属する会社アクシススタッフは、IT関連の人材派遣会社だ。
IT関連の教育、コールセンター業務、オペレーター業務、受託開発なども行っている。
翔太は現在、携帯電話キャリアであるアストラルテレコムに出向しているエンジニアだ。
アクシススタッフは、教育、コールセンター、オペレーター部門の規模が大きいこともあり、IT企業の中では女性の割合が非常に多い企業である。
大野も女性であり、女性の管理職も多い。
大野が小声で話しかけた。
「実はな、現時点であまり公にできない仕事なので、関係者以外に口外しないでくれ。会議室で話そう。」
大野に連れられて、二人は会議室に向かった。
「座っていいぞ」
大野が着席を促す、アクシススタッフの社員のほとんどは客先に出向することが多く、礼儀やマナーに関しては厳しい会社である。
翔太も新人研修のときはさんざん躾けられたので、本部(出向先の会社と区別するためそう呼ばれている)に出社したときは一定の緊張感をもっている。
幸いなことに、大野はあまり気にしない部類なので、会議室に入ったときは少しほっとしが、一応席順などは気にしておく。
翔太が座ったことを確認すると、大野が切り出す。
「バンテージの宣伝をしたい。
今日はこのプロモーションビデオを作ることになっている」
バンテージとはアクシススタッフの教育事業のサービス名である。
オフィスソフトやベンダー資格など、IT関連に関するトレーニングを行っている。正式名称は『テックバンテージ』だが社内では略して呼んでいる。
客先に講師を派遣して、トレーニングを行うこともあるが、テックバンテージは自社で教室を用意し、さまざまなコースのトレーニングを受けることができる。
2000年代に入った この時代 は、インターネット・バブルと呼ばれる時期である。企業におけるIT化が進み始めた頃で、オフィスソフトもろくに扱えない社員が多いため、教育事業に対する需要が高い。
このタイミングで宣伝して、一気に攻勢をかけようという意図があるのだろうと、翔太は推測した。
内密にするような話でもないと思いながらも続きを聞く。
「ビデオでは、実際の講義をしているシーンを撮ることになっている。
講師役の方には田村がうちでやってる教え方をレクチャーする予定だったんだ。
それを柊に頼みたい」
「それって、私じゃなくても良いですよね?というか私はバンテージはヘルプで講師をすることもありますが、本業ではないですよ?」
「もちろんわかっている、その上で柊に頼みたい案件なんだ、田村におまえのことを聞いて私がそう判断した」
翔太は釈然としないながらも、今の状況では代わりの適任者を探すことは難しいだろう。
「わかりました、すぐにでも取り掛からないといけないですね」
「話が早くて助かるよ、詳細は資料があるのでメールする。
13時には資料にある撮影スタジオに向かってくれ。
それと、現場には水口がいるので詳細は彼女に聞いてほしい」
***
翔太はメールで資料を確認して、現場であるスタジオに向かった。
スタジオ内は思っていたよりも本格的で、物々しい雰囲気が漂っていた。
大型のカメラがいくつか設置され、照明が眩しく光り、スタッフが忙しそうに動き回っている。
資料には出演者のプロフィールが記載されていなかったが、出演者は劇団から手配された役者なのだろうか?
翔太はこの業界に全く知見がなかったが、プロっぽい雰囲気がそこはかとなく漂っているのを感じた。
ディレクターが指示を出す声が響き渡り、メイクアップアーティストらしい人までいる。
これがただのプロモーションビデオの撮影ではなく、映画の撮影と言われてもおかしくはなかった。
(こんなに宣伝費をかけるなら、給料上げてほしいよ……)
内心ぼやいていたところで、水口を見つけた。
「おつかれさまです。水口主任」
「柊くん、よく来てくれたわ」
水口はテックバンテージの講師であり、翔太の新人研修の教育係でもあった。
彼女は入社してから三年経った今でも頭が上がらない相手の一人だ。
(本業のプロがここにいるんだよな……俺なにしに来たんだろ?)
「資料については目を通してくれた?」
「はい、概要は把握しました。それで確認したいのですが――」
と言いかけたところで、関係者と思しき打ち合わせが終わったようだ、その中の女性が近づいてきた。
スーツを着こなした20代前半くらいの女性だ。肩までのばした髪はきちんと手入れされており、漆黒の髪が知的な雰囲気を引き立てていた。
整った顔立ちは見る者を惹きつける美しさを持ち、どこかあどけなさも残している。
黒曜石のように輝く瞳は、深淵の魅力を湛え、翔太の心を捉えて離さなかった。
(この人が資料にあった講師役の神代梨々花だろうか?)
翔太は挨拶をした。
これが不用意な挨拶であっことを翔太はこの後激しく後悔することになる。
「アクシススタッフの柊と申します。
本日はよろしくお願いいたします。
先ほど到着したばかりで、ご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません。
――かみしろさんでしょうか?」
この瞬間、現場が凍りついた。
先程までにぎやかだったスタジオは、突然の静けさに包まれ、スタッフたちは一様に驚きの表情を浮かべている。
水口は声には出さないものの『あちゃー、やってしまったかぁ』という表情をしている。
察するに、翔太の発言に問題があったのだろう。
恐る恐る女性の顔を伺うと、驚きはしつつも、明るい表情に変わっていた。そしてこの空気の中で朗らかに言った。
「私の名前は神代と書いてくましろと読みます。よろしくお願いしますね♪」
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