第1章 これが俺達の日常

第1話  逃げても逃げても

『国立細菌・ウイルス研究所』


 我が国の最先端を直走る研究機関であったそこに、僕の両親は勤めていた。僕は幼心にそれが誇らしく、自分のことのように鼻高であったように思う。


 生まれつき体の弱かった僕がこうして同級生と変わりなく遊べているのも、両親が研究し飲ませてくれる発売前の栄養剤のおかげだ。金払いの必要のない、体の良い実験動物モルモットと言い換えてもいいかもしれないが…。



 ――人々の狂乱が外から聞こえる。


「本当に…本当にごめんなさい」


 お母さんは僕を強く抱きしめ、そう言った。涙ながらに僕に詫びるその表情は、今の俺の語彙で表現するなら”沈痛”とでも言うのだろう。


 研究所の一階は全面積層ガラス張りで、平時は整えられた植栽が美しく感じたものだが、今は人が羽虫のようにたかっている。


「…私達はとんでもないものを世に解き放ってしまったの。その責任を取らなければいけない」


 お母さんの声は僕だけでなく、僕の向こうに見える暴徒達にも向けられていたのかもしれない。


 ――おい、あいつ確か主席研究員の…。殺せ!こんな国にしたツケを払わせねぇと!


 母の表情が険しくなる。


「どうしたの、お母さん。今日はもうお仕事終わり?」


 無邪気に僕は笑う。外の騒々しさを知ってか知らずか能天気なものだ。


「えぇ。もうお仕事は終わりね」


 一台の乗用車が研究所の緊急時出入口に乗り込んできた。


妙見みょうけんさん!」


 年嵩の女性が僕達の苗字を呼ぶ。


千丁せんちょうさん。この子のことを頼みます。どうか……どうか……」


「お任せください。妙見さんは?」


「私と夫は、逃げてはいけないのです」


 そう言うと、母は僕を女性に託した。


「行きましょう…」


「お母さん、また後でね…」


 僕が車に乗りドアを閉めると、タイヤがキュルキュルという異音を上げて駆け出した。


 ミラー越しに見た母は微笑み、手を振ってくれている。


 ――僕は、手を振り返すことをしなかった。



 結界は、その美しい外観に似合わない奇怪な音を立てて割れた。


 結界を破り侵入してきた無数の虫達に、母は飲み込まれたのだろう。


 ――”だろう”とはどういうことかって?


 あまりにも恐ろしく残酷なその光景に、ぽっかりと記憶が抜けているのだ。あたかもアニメや漫画が表現規制を受けるように。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 窓の向こうから、早朝出勤を厭わない夏期限定テロリストの喧騒が聞こえ、覚醒を強いられる。


「ユージ。早く起きてご飯食べないと、遅刻しちゃうよ?」


 目覚めて最初に見るのが幼馴染の美少女というのは、この上なく寝覚めが良い。

 寝汗で張り付いたシャツの煩わしさとプラマイゼロと言ったところか。


 幼馴染+黒髪ロング+色白…あと一要素あれば役満だったな。

 三倍満ボディと言ったところか、うんうん。

 願わくば豊かな胸部装甲などあると…


 知ってか知らずか、少女は俺の腰の辺りに跨り、体を揺さぶってくる。


「わかった、わかったよ。お願いだから朝の男子高校生に跨るなよまこと


「なんでよ!?」


「やんごとなき事情があんだよ!日によるけどな!今日は大丈夫だったけど!」


 そう言うや否や、真の脇の下に両手を差し込み、布団から退ける。


「先に行って待ってるからね、顔洗ってきなさい。さっさと食べましょ」


 一仕事終えたように短い息を吐き、彼女は障子をずらして部屋を出て行った。



 ギシッ…ギシッ……

 鴬張りうぐいすばりの鳴き声が遠ざかる。


 布団から体を持ち上げると、脇の姿見の中には、黒髪短髪で濃いめの顔立ちの少年が酷い顔をして立っている。なされていたのだろうか。年齢相応の身長も、今は少しだけ小さく見えた。


「……ありがとう、真」


 ――またあの夢を見てしまった。10年も前のことを、俺は未だに引き摺っている。引き摺っていられる内が花だということに、気付くことも無く。日常が容易く崩れ去ることを知っている筈なのに。

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