ははのひ 5

 フォンサが馬を引いてきた。

 エンリの出資者としての権利は分け前に与るだけだが、それとは別に南方産の馬を要求していた。

 エンリは馬に乗れなかった。王族として、幼い頃から当然訓練は受けたが、どんなに穏やかな馬でも、エンリが近づくと狂ったように怯え、暴れるのだ。

 だから自分を怖がらない馬が欲しかったが、上手くいったことは無かった。

「でかいな。よくこんなのを船に乗せられたものだ」

 南方の馬は走力・持久力ともに際立って優れているが、総じて小柄だった。だが、フォンサが連れてきたのは、圧倒されるような巨馬だった。全身の筋肉が凄まじいが、特に尻の筋肉は、過度に発達しすぎているためか大きく盛り上がっている。

「カルカ船長も、これは拾い物だと申しておりました。何やら、大き過ぎて向こうでは売れぬとか」

 船に載せるだけでも一苦労と思われたが、意外な従順さでフォンサに従っている。功労者のカルカは、早々に歓楽街へ繰り出していた。

少し近づいてみた。巨馬と目が合った。噴き出した鼻息の風圧も凄まじかった。

 右手を前に出し、さらに近づいた。触れられる。そう思ったとき、巨馬の目の色が変わった。

「殿下!!」

 レンドローサの声と、巨馬が棹立ちになるのが同時だった。咄嗟に後ろへ跳ぶと。目の前に結界が張られた。振り返ってイネスを見たが、エンリを見ず結界に集中していた。嘶きが轟き、巨大な蹄がイネスの結界に振り下ろされたが、硬質な音とともに弾かれた。

 フォンサが慌てて巨馬から離れた。役人たちや馬丁が巨馬を取り囲み、必死に宥めようとする。

 エンリは背を向けて、港の監督所へ入った。

「殿下、誠にその、ご期待に添えず」

 追いかけて来たフォンサがもごもごと言っているが、エンリは壁を見つめ続けていた。

 なぜ、という思いが胸の内に広がっている。これまで幾度となく試した。そのいずれもが、エンリを拒んできた。アルファレやエルーナは、むしろ馬が好きでよく乗るのだ。アルファレや父や祖父が、エルーナを抱いて馬に乗る微笑ましい光景を、いつもエンリは離れて見ているだけだった。あのような、化け物のような馬でも駄目なら、もう希みは無いのかもしれない。

「危ないではないか。いくらなんでもあれが暴れては、殿下にも万が一ということがある」

「はい、誠に。重ね重ね、お詫びのしようもございません」

 レンドローサの顔に怒気が見えた。フォンサは、ただ恐縮している。

「いや、仕方がないのだ。よく連れてきてくれた」

「しかし、また幻滅させてしまいました。あれならば、とカルカ船長も自信を持っておりましたが」

「良い馬だとは思う。買って帰るから心配するな」

「そんな」

「手放すには惜しいじゃないか。城でも見せてやりたいのだ」

 はぁ、と言って、それ以上フォンサは言い募らなかった。レンドローサは何か言いたそうな顔をしているが、気付かないふりをした。

「帰ろうか。夕刻には進講を受けねばならない」

 城へ運ばれる荷に混じって、巨馬も列に並んでいた。一瞥して、もう見なかった。

 フォンサは、港の出入口まで黙って連いてきて、門の外でいつまでも頭を下げていた。



 市場を抜ける際、人混みの中で男が身体にぶつかってきた。レンドローサが目を光らせていたにも関わらず、人波の中から突然湧いて出たようにエンリに近づいてきたのだ。

 ぶつかったと言っても、袖が触れ合う程度だったので気にしなかった。

 しばらく歩いて、ふと胸元に手をやった。無い。

「下郎!」

 急に声を上げたエンリに、レンドローサが驚いて振り返った。

「市場の出口で待っていろ」

 言い捨てて、エンリは来た道を逆走した。咄嗟に動けなかったイネスの横をすり抜け、人波を掻き分け、奥へと進んだ。

 殿下、というレンドローサの叫びが聞こえた。なぜお止めしなかったのだ、という怒号も聞こえた。

 人が少ない場所があった。そこまで走り、跳躍した。足元の空中に結界を張る。次々に足場をつくりながら、高度を上げていく。

 近くにあった、石造りの塔に着地した。

 市場を見下ろしたが、天幕や庇の布に視界を遮られる。

 雑踏の中に、こちらを見ている男の顔があった。視線がぶつかると、男は不敵に笑った。

 男が走り出した。まるで無人の野を駆けるような速さで、人混みをすり抜けていく。

 エンリも再度空中を走ったが、時々人や天幕の陰に隠れるので、何度も見失ってはまた追った。結界で捕獲しようにも、巻き込むものが多すぎる。何より、位置を把捉させない動きを取る。

 建物に挟まれた路地に入った男を追って、エンリも地上へ降りた。

 人気のない路地の奥へ進むと、行き止まりで壁を背にして男が立っていた。

「上から見ていたとはいえ、こうも早く追いつかれるとはな」

「盗んだものを返してもらおう」

 男がにやりと笑った。粗末な身なりをしている。首まで伸びた黒髪も顔も、脂か何かでてらてらとしている。佩いている剣だけは、鞘からして見事なものだった。

「返せ」

 男の方へ踏み出す。エンリの殺気に反応したように、男が後ろへ向かって跳んだ。即座に結界を展開した。丁度口を開けた形になった結界の中に、男が飛び込んだ。すぐに出口を塞いだ。

 男の表情に、一瞬驚愕の色が浮かんだが、すぐにまた不敵さを取り戻した

「よもや俺を捕らえるとは」

 路地が行き止まりだった時点で、何かあるとは思っていた。男が飛び込んだ場所へ結界を張ったのは、ほとんど賭けだった。本当に背丈ほどもある壁を、一息で飛び越えるとは思わなかった。

「流石はベイル・ランナフルの孫だ」

「私が誰かわかった上でやったのなら、覚悟はできているだろうな」

「まあ、まずはこれを返そう」

 男が懐から取り出して見せたのは、銀製の首飾りだった。男の掌の上で、磨き上げられた銀色が光る。木の葉の形をしたその中心に、琥珀が埋められている。

「セルタナのものだろう、この琥珀」

「これから死ぬ人間にはどうでもいいことだ」

「まあ待て。返すと言っている」

「相手と、狙った獲物が悪かったな。そんなことで、死ぬ人間もいる」

「エルミナ様の物だろう」

 言葉に詰まり、エンリはじっと男を見た。

「間者か?」

「そうではない。盗ったのは悪かった。とりあえず渡しておきたいんだが」

 男を囲った結界の外側に、地に接するようにもう一枚大きな結界を張り、それから男が入っている内側の結界を解いた。急に足場を消したのに、男はわけもなく着地した。祖父なら、中身ごと結界そのものを動かせる。それはエンリには到底できない、神業だった。

「なんだよ、出してはくれないのかい」

 男の問いには応えなかった。まだ、殺さないと決めたわけではない。

「ほら」

 男が手を伸ばして首飾りを差し出した。素早く、手だけ結界を擦り抜けさせて取った。

「殿下、俺を殺したっていいが、その前に取引をしないか?」

「言うだけ言ってみろ」

「金をくれりゃ、あんたが知りたいことを俺は探ってくる。統治者になるなら、こういう仕事をするやつはいた方がいいぜ」

「もういるさ」

「そりゃ王家に仕えるものだろう。俺は、あんたに仕えるぜ」

「私が王になれば、私に仕える者たちだ」

「そこがちと違う。そいつらに探れること、俺に探れること、得手不得手はあるのさ」

「例えば?」

「ランナフル」

 目を合わせると、男はエンリを見つめ返してきた。

 影として王家に仕える者たちは確かにいる。だがその主な任務は、帝国との防諜戦だった。だが目立った動きが何もなくとも、ランナフルに眼を向けているものはいるだろう。父もおそらくそうだ。しかし祖父の手前、また、今や帝国との最前線となった同盟国に対して、本格的な諜報などできるわけがなかった。加えて 、地域ごとの共同体的結束が強いランナフルでは、よそ者が入ればすぐに浮き出してしまいかねない。

「なぜお前なら探れる?」

「そりゃ言えねぇ。だが、損はさせない。その時は殺してくれればいい」

 腕を組んでみた。フリだけだった。考えているようで、頭の中はまとまっていない。男はふざけているような笑みを浮かべていたのに、今その表情が妙な真剣味を帯び始めている。

「俺は、役に立てる。ひとつ、償いと俺の売り込みのために、教えておく。ソンブラ・ススッロだ」

「なんだ、それは」

「主に帝国で動いてる組織さ。ま、非合法なことはなんでもやってる。密輸やら暗殺やらな」

「帝国の、犬か?」

「と、いうわけでもないと思う。本拠地もどこかわからん。だが、帝国が主な稼ぎ場だな。そして、金次第で帝国の敵にも味方にもなる」

「金次第で、王国をも狙うか」

 男が笑いながら頷いた。

「お前も一員か」

「違う。これはまあ、今否定できる根拠なんかは示せないがな。何しろ、闇としか呼べない連中だ」

「何を狙ってる?」

「まず間違いなく、あんたとあんたの弟妹。魔法の才を持って生まれ、あのベイル・ランナフルがそばにいる。爺さんが強大過ぎて手を出そうと考える奴はいないが、狙うやつはごまんといるさ」

 当たり前のことだった。世界で魔法使い自体が希少なのだ。生まれながら炎を宿していたエンリたちは、狙われて当然だった。それに加えて、エンリには竜化という秘密がある。だから、父も祖父も、エンリ自身も必死なのだった。大きな戦力になりうると同時に、弱点にもなる。だから、相当の力をつけるまで、エンリは城の外へ外出などできなかった。

「その程度のことが、お前の諜報か?」

「それから、セルタナの秘密。それは世界中が知りたいだろうな。もっとも、ヴィサリアよりも、セルタナの逆鱗に触れかねないからな」

「それも、周知のことだろう」

「なぜやつら、森の外へ出ないんだろうな。あの広大な森に住む、全人口のほとんどが魔法使い。考えてみりゃ、こりゃ最強の国家だぜ」

 男は、ヴィサリアの王太子であるエンリから、何か引き出したいのかもしれない。ふとそう思った。

「よく喋るな。そんなことが、人間同士で言い合ってわかるか。まあ、ソンブラ・ススッロとやらには注意しておこう」

 話は終わりと、男に、いや結界に手を翳した。結界の中で炎を放てば、何ひとつ残らない。それにエンリの火力なら、一瞬で済む。

「まあ待ちな。ランナフルってのは、十八年前までは帝国領だったよな?」

 翳した手を下ろさず、男を見た。

「ランナフルに、一度行ってみな。出てくるもんを、あんた自身の目で確かめた方が良い。そんな気がする」

「ランナフルが、ソンブラ・ススッロを?」

「確証はない。まだな。だが」

 言いかけて、男は下を向いた。

「もし本当にそうなら、叩き出したい」

 男は俯いたままだった。ふと気付くと、エンリは手を下ろしていた。

「ランナフルが、故郷か?」

 男は答えなかった。

 こんなことは、賭けだと思った。だが、それに乗ってみたいという気持ちが湧き上がってくるのを、エンリは感じていた。

「なぜ私に仕えたい。金か?」

 男が顔を上げた。一瞬、何かが燃えているような、暗い光が眼の奥に宿っている気がした。

「もちろんそれもある。もうひとつあるとすりゃ、戦かな。俺は戦ってやつが嫌いなんだよ。そして、あんたには力がある。いずれ、戦を止めるほどの、ベイル・ランナフルのような力を得るとしたら、あんただろう。だから、あんたに賭けても良いと思った」

 賭けてもいい。男のその言葉に引きずられるように、エンリは頷いていた。

「お前を使いたい時は、どうすればいい?」

「西街区鍛冶屋通りの端に、梟亭という店がある。そこへ来てくれ。俺から伝えたいことがあるときは、あんたが一人になった時に現れる」

「わかった」

 結界を解いた。男は息を吐き、一度屈んで膝を伸ばした。

「お前の名は?」

「そうだな、野良犬とでも呼んでくれ」

 随分卑屈だと思ったが、それは言わなかった。陰がある。こういうことを言いそうな男ではあると思った。

「野良犬、働いて餌にありつけ」

「かしこまりました、王子殿下」

 男は浅く一礼すると、エンリに背を向けた。次の瞬間、背後の壁を跳躍して超えた。

 もしかしなくとも、コソ泥に出鱈目を吹き込まれただけかもしれない。そう思ったが、エンリはもう考えないようにした。騙されただけなら、自分はその程度の男でしかなかったというだけのことだ。

 薄暗い路地を抜けると、もう日は落ちかけていた。西の空は強い茜色の光を放っているが、東の空にはもう、薄墨色の暗がりが広がっていた。

 レンドローサとイネスのことを思い出して、エンリの胸の内からも晴れやかさは急速に失われていった。

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