ははのひ 2
じっと動かぬまま、エンリは総身が汗にまみれていることに、ふと気付いた。水を浴びたように、顎の先から雫が落ちている。極度の集中と緊張を強いられる結界魔法の訓練では、いつもこうなる。汗をかいていることにも気付かず、ふとした瞬間、意識とともに皮膚の感覚も取り戻す。
エンリは目の前に、四角形の結界を展開していた。その上には大岩が載せられており、結界の中には卵がひとつある。結界にもそれなりの大きさがあり、内部のただひとつの卵はどこか寂しいと、訓練を始めた時から感じていた。それは、四歳で祖父に師事し始めた時から続いている想いだった。
祖父はエンリの結界魔法を容赦なく崩しにかかる。エンリの結界に、祖父の結界を重ねることでエンリの空間認識を阻害する。次には展開している術そのものを解こうとする。空間の位相を正しく認識し続けなければ、結界は解けてしまう。だから、卵を岩から守る結界を維持しつつ、祖父の干渉を解除せねばならない。それが訓練だった。できなければ、卵が割れる。
エンリの顔は朱に染まっていたが、祖父の表情はまるで変わらない。当然だろうと思う。祖父が本気を出せばエンリの結界など容易く霧散する。
ヴィサリア王国と、隣接するアルマディア帝国において、ベイル・ランナフルを知らぬものはいない。人間には扱えない魔法だと考えられていた結界・封印魔法を自在に振るい、十八年前の戦争では帝国を震撼させた。
祖父が、結界の空間位相そのものに干渉し始めた。祖父の魔力が大気を圧している。本当に空気が無くなったわけでもないのに、息が苦しくなった。風も無いのに、空気がざわついている。
エンリのように手もかざさず、涼しい顔をして圧倒的な魔法を使う。いつも、否応なくそれを見せられるが、未だに信じられない力量の差だった。いや、力量などとという生易しいものではなく、いつまで経っても底が見えないのだ。
エンリは渾身の気と魔力を込めた。祖父が干渉してくる結界の内側に、もう一枚、ほとんど重なり合うように結界を張った。
祖父の干渉により不安定になっていた結界が、膠着した。その時、内と外の二枚の結界が融合するように、どちらともなく引き合い、溶け合いそうになった。結界周辺の空間が、僅かに震動している。
「これまで」
声とともに、祖父が魔力を収めた。祖父の干渉が引いたことで、エンリの結界は急速に安定した。
最後の力を振り絞り、エンリは立ち上がった。結界の中に手を突っ込み、卵を取り出した。祖父がじっとエンリを見ている。いつも、訓練の終わりにはじっと見られる。
「すごいものですね」
見知らぬ女が立っていた。王宮の中庭である。奥から侍女が一人走ってきた。ララだった。
「ベイル様、エンリ様。ご練習の最中に申し訳ございません」
「いや、いいのだが」
ちらと祖父を見ると、表情を変えずに女を見ていた。女が祖父に一礼し、祖父は頷くだけでそれに応えた。知っているのかもしれないと思ったが、この祖父ならエンリを困惑させるためだけに、初対面の相手でもこういうことをする。
ララが居ずまいを正した。
「エンリ様、ご紹介いたします。マリアナ・デルリーヴォ様ですわ」
マリアナがお辞儀をした。二十歳になったばかりだと聞いているので、エンリより三つ歳上だ。
デルリーヴォ家は、ヴィサリア中部に領地を持つ大貴族である。そして、しばらく前から、父の再婚話が進んでいた。デルリーヴォ家の一人娘マリアナが、その相手である。エンリも話に聞いていただけで、顔を合わせるのは初めてだった。
もう一度女を見た。小柄な女だと思ったが、よく見るとエンリとそう変わらなかった。三十路近くなっても子どものようなララと並ぶと、どちらが歳上かわからなくなる。祖父は長身過ぎて、端から比べる気が起きない。
「初めてお目にかかりますわ。エンリ様」
「挨拶が遅れて失礼をいたしました。エンリ・ヴィサリアです」
にこり、とマリアナが笑った。瞳と同じ栗色の髪が肩まで伸びていて、僅かに揺れた。容姿は秀でているが、王宮でこの髪色は目立つかもしれない。祖父とエンリ、エルーナは金色の髪をしており、父とアルファレは黒髪だった。
「それにしても、お若いのにエンリ様はすごいのですね。ほんと言うと、何がなんだかわからないのですけれど。すごいというのはわかりますわ」
エンリは僅かに目線を外した。
「いえ。いつまで経っても祖父の足下にも及びません」
「まあ。いつもお孫様をいじめていらっしゃるの?ベイル様から見て、実際のところエンリ様はどうなんですの?」
祖父を見た。屈んで地面を見ているが、何を見ているのかは背を向けていて見えない。
「天稟じゃよ」
露骨に驚いたような顔をして、またマリアナが微笑んだ。エンリは、祖父の言ったことが信じられなかった。そんな言葉は、一度もかけられたことがないではない。
「からかっておられる」
「いや。お前、早くから結界の内と外を通り抜けていたな」
「それはまあ、自分が張った結界でしたら」
「それじゃよ。儂が教えた弟子の中で、同じことができるものはそうおらん。なぜ、お前にはできる?」
「それは、自分が張った結界ですから。遮られる、という発想がそもそもありませんでした」
血じゃのう、という祖父の呟きがかすかに聞こえた。
マリアナが手持無沙汰そうにしているので、ララにもう行けと小さく手を振った。すぐにマリアナを屋内へ導いて戻って行った。
去っていくマリアナの後ろ姿をエンリは見ていた。
二十歳になる貴族の娘が未婚でいるというのは、行き遅れなのか、秘蔵っ子なのか。だが、年齢の割にまだ薹が立っているようには見えない。
マリアナの髪の色は、一見して王家の誰とも違うとわかる。それをいい気味だと思う自分を発見して、エンリは無意識に空を見上げた。辛気臭く、ぶ厚い、灰色の重なりだった。地上の湿った大気を爽やかにしてくれるには、何もかもが足りなかった。
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