落ちたのは恋じゃなくて沼でした

あやめいけ

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思い返せばあの日、私は沼に落ちたのだ。



——————


私はそれはもう誰が見てもベロベロに酔っ払っていた。

真っ直ぐ歩くこともできず右へ左へふらふらと体を揺らしながら、それでもなんとか前へ進もうと足を動かしていたつもりだったけれど、少しの段差に躓き派手に転んで膝を擦りむいた。




「お前じゃイけねぇわ」


舌打ちと共に吐き捨てられたその言葉に、私はひどく動揺した。

付き合って2年、結婚して1年が経ち、今更そんなことを言われても困る。

結婚する前から不感症だった私に、セックスだけが全てじゃないと言ってくれた夫は一体どこへ行ってしまったんだろう。

つい今まで私の上でごそごそと体を動かしていた夫は、苛立ちを隠せないように乱暴にベッドから降りると、床に落ちたボクサーパンツを拾い上げて寝室から出ていってしまった。



気が付けば飲み屋のカウンターでビールを呷って呷って呷りまくっていたというわけだ。

酔っているからか、擦り傷から血が滲んでいても痛みは殆ど感じない。

ただ平衡感覚を失った今、そこから立ち上がることの方が難しかった。

私は地面に尻餅をついたまま、両脚を道に放り出して全てを諦めた。


そこに偶然通りかかったのが沼だった。


「おねーさん。そんなに酔って、どうしたの」


「…………ほっといてください」


「んー、それは無理かな。おねーさん、放っとくと悪い人に連れて行かれちゃうかもしれないし」


立てそう?お水飲まなきゃね。うち近くだから寄っていきなよ。

はっきりとは覚えていないけど、確かそんなことを言われて家に誘われたように思う。

別に私だって誰彼構わずついて行くような貞操観念ゆるゆる人間なわけじゃない。

ただあの日は酔っ払っていたし、声をかけてきたのが若い女の子だったから、少し警戒心が薄くなっていただけだ。


マンションの一室までノコノコついてきた私を、沼は甲斐甲斐しく介抱してくれた。


「どうしてこんなになるまで飲んだの?」


「わたし、ふかんしょうらしくて」


酔っ払いが自分が不感症のせいで夫に愛想を尽かされましたなんて話を突然し出したのに、沼はうんうん頷きながら黙ってひたすら話を聞いてくれた。

話すのに夢中で気が付かなかったけれど、この間に膝の擦り傷まで手当してくれていたらしい。私の膝には絆創膏が貼ってあった。



「…そろそろ帰ります」


「まだ無理だよ」


「だいじょうぶですっ」


沼の制止を振り切るように立ち上がったものの、その瞬間脳が揺れるような感覚と目眩に襲われて、私はへなへなとその場に座り込んだ。


「ほらねー。今日は無理だって」


沼は私の顔を覗き込んで微笑んだ。


「泊まっていきなよ」


「いや、流石にそこまで甘えるわけには…。夫も心配してると思いますし」


「連絡の一つもないのに?」


図星を突かれて鼓動が早くなった。

私が家を飛び出したのは、夫がシャワーを浴びている最中だった。

妻が声もかけずに出ていって、こんな夜中まで帰ってこないのに夫は一度も連絡をくれない。

心配されていないことが本当にショックだった。



そこからの記憶は殆どなくて、気がついたら朝だった。

コーヒーの香りで目が覚めて、知らないベッドで寝ていたことに相当焦ったけれど、沼の顔を見てホッとしたことを覚えている。

よかった。酔って不貞行為なんて洒落にならない。

テーブルにはコーヒーとトースト、サラダと目玉焼きを盛り付けたお皿が2人分置かれていて、その香ばしい匂いに私のお腹が音をあげた。



「私、酔っていて記憶が曖昧なんですけど、何か変なこと言ってませんでしたか?」


「大丈夫だと思うよ。おねーさんのこと、不感症の人妻ってことくらいしか知らないから」


さらりと言い放たれた“不感症の人妻”というワードに私は穴があったら入りたいほど恥ずかしくなった。

酔っ払ってあれこれとベラベラ喋ったのだろうが、その話の内容までは覚えていない。


「……その話忘れてくれませんか?」


「記憶力いいってよく言われる」


沼はそう言ってへらっと笑うと、コーヒーカップに口をつけた。




「家の近くまで送る」という沼の気遣いを断って、私はその部屋を出た。


「おねーさん。また来てね、待ってるよ」



——————



「おねーさん、意識がどこかイっちゃってる。ちゃんと集中して?」


そして私は今日も、沼に溺れている。

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