第42話
塔の内部を降りる螺旋階段に、俺とペフトムスク先生の足音が響く。
「封滅院について話す前に、『渇きの魔女』について伝えなければならないことがあります」
先生の口調は静かだったが、普段とは違う重さがあった。
「君のことですからもう気づいているでしょうが、僕と『渇きの魔女』には少なからぬ因縁がありました。まだ『渇きの魔女』と呼ばれる前のことですが」
先生の口調はとても悲しそうだった。
俺はうなずく。
「はい。何となく聞きづらくて詳しくはお尋ねしていませんでしたが、たぶん過去に何かあったんだろうなと」
「相変わらず察しが良いですね。その通り、彼女は僕の師です」
師弟だったのか……。
「といっても、複数いた師の一人なのですがね。まだ魔術が体系化されておらず、個人の技だった頃には、各地の名人たちを訪ねて技を伝授してもらうのが常でしたから」
「ペフトムスク先生の指導とは全然違いますね」
先生の授業は近代的で、前世の個別指導塾みたいな感じなんだよな。先生の方から歩み寄って教えてくれるので、俺みたいな不出来な生徒でもちゃんと一人前の魔術師になれた。二酸化ケイ素に限定された力術しか覚えられなかったけど……。
「僕は自身の病弱さをなんとかするために魔術に頼り、その過程で彼女の門を叩きました。彼女は乾燥によってカビや腐敗を抑える術が使えたため、その技を学べば病気の予防に役立つのではないかと思ったのです」
水気を飛ばしてカラカラに乾燥させてしまえば、腐敗しにくくなる。これは大昔から経験則として知られていた。だからみんな、果物や魚をせっせと天日干しにしていた訳だ。
先生は少し楽しそうに続ける。
「病気の予防としてはそれほどの成果はありませんでしたが、別の知識を得られました。口や喉の中まで乾燥させると、逆に病気に罹ってしまうのです。なんでも乾かせば良いというものではないことがわかりました」
そうだね、粘膜が乾燥すると病原体に対しては逆に弱くなるよね。
俺がもっと早めに転生していれば教えてあげられたのだが、なんか悪いことしちゃったな。
「僕はやがて、死と乾燥は重なる部分が多いということに気づきました。そして生命とは水であることにも」
「やっぱり先生は凄いですね」
古代の哲学者みたいだが、先生は独学に近い状態で生命の本質に大きく迫った。非凡な人だと思う。俺には真似できない。
「彼女の元で住み込みの弟子をしていた僕は、このことを報告しました。いくつかの実験結果も添えて。すると彼女は人々の健康のために乾燥の技を使うようになりました」
「今の先生と同じことを始めた訳ですか」
じゃあ最初の頃はいい人だったのかな。そうでなければ先生だって師事しないだろう。
だが先生の口調は陰りを帯びてくる。
「ですが、やがて彼女はその力を違う方向に使うようになりました。『いくら魔術で人々の健康を守ろうとしても、戦が起きれば全て台無しになってしまう。だからまず、この世から戦を消さなければならない』と」
不穏な方向に話が転がり始めた。『渇きの魔女』誕生という訳か。
「どんな大軍でも水がなければ戦えません。いえ、大軍だからこそ大量の水を必要とするのです。彼女はそこに目をつけました。戦争が始まりそうになると、戦場周辺の水源を全て枯らしてしまったのです」
「だいぶ思い切ったことをしてますね」
近隣住民にとっては戦争と同じぐらい困ることじゃないか。
先生は階段を一歩ずつ降りていくが、その一歩一歩に不思議な重みのようなものが感じられた。先生の追憶、心の奥底に降りていくような錯覚に襲われる。
「そのうち、戦争が起きるから水源を枯らすのか、水源を枯らすから戦争が起きるのか、わからないような事態になっていきました。人々は彼女を『渇きの魔女』と呼び、戦乱の象徴として怖れるようになったのです」
力に溺れてしまったんだな。渇きの力で溺れるとは皮肉な話だ。
先生はまた一歩階段を降りるが、そこで立ち止まる。
「僕や親しい者たちは何度も説得しましたが、その頃には彼女は誰の言葉にも耳を傾けなくなっていました。彼女は全ての水を地上から消滅さえ、乾ききった死の世界を作ろうとしていたのですよ」
「確かに戦争も病気もなくなるでしょうけど……」
「ええ。人類が生存できなくなったのでは意味がありません。どうしてそんな単純なこともわからなくなってしまったのか」
先生は塔の石壁をそっと撫でる。普通の人で言えば石壁を殴りつけるぐらいの感じだが、先生はとにかく暴力を嫌う。人はもちろん石壁だって殴りたくはないのだ。
「彼女は最期の瞬間、その全ての力を解放しました。広大な森林地帯が一瞬で枯れ果て、そのまま広大な砂漠地帯へと変化しました」
なんか嫌な予感。
「それってまさか……」
「さすがですね。そうです。この白銀砂漠が『渇きの魔女』終焉の地なのですよ」
なんか変だなあとは思っていたんだよ。
「ずっと秘密にしていてすみませんでした」
「先生がこの塔の存在を教えてくれたときから、なんか曰くつきの物件なんだろうなとは思っていましたが……」
「魔女の呪いで地上からは水が消え失せてしまいましたが、地下深くの水脈は残りました。いえ、彼女が残したのでしょう。彼女が最期に放った術の威力を考えれば、敢えて残そうと思わなければ消えていたはずです」
ここの貯水量はダムに匹敵するはずだが、それを消せるってのは凄いな。世界最大級の砂漠ができちゃう訳だ。
「だから僕は、この地底湖は彼女の遺産であり遺言でもあると考えています。『お前たちはこの水をどう使うのか』と」
「そんな大事なものの上に俺が住んでていいんですか?」
かなり因縁が深いことを知って俺は少し怖くなったが、ペフトムスク先生は優しい声で答える。
「大事なものだから、ですよ。ここに君がいてくれるのなら安心だと思ったのです」
「なるほど……」
この塔は地底湖の蛇口みたいなものだから、管理人がいてくれた方が安心だろう。この水源があればここに都市や城を作ることができる。だがそれはいずれ、争いの火種になる。
先生は階段を降りながら、ふとつぶやいた。
「僕は彼女の問いかけにまだ答える勇気がなくて、君に預けたのかもしれませんね。もしかすると君が代わりに答えを導き出してくれるかもしれない、と」
「買いかぶりすぎですよ、先生」
俺みたいな人生の迷子に、そんな重い問いは答えられない。
だがこうも思う。
「『渇きの魔女の呪い』を受けたフィルをこの地底湖の水で育てているのは、ひとつの答えになりませんか?」
すると先生の足が一瞬止まった。
そして先生が振り返る。
「それは確かにそうかもしれませんね。なるほど。そう考えても良いのか……」
少しは先生の気苦労も減ったかな?
先生は再び階段を降り始める。
「さて、ここまでは長い前振りです。そのような経緯があり、『渇きの魔女』の伝承はほとんど残っていません。この地にあった文明は消滅しましたからね。彼女の放った最期の術は、この地に生きる人も草木も全て塵に変えてしまいました」
「あー……そういえば、そういう呪いでしたっけ」
俺の術が二酸化ケイ素なら砂でもガラスでも区別しないように、「渇きの魔女」の術は体内の水も区別しないらしい。まともに術をくらえばフリーズドライ並みの乾燥人間になってしまうだろう。
最下層の水汲み場まで降りると、先生は地底湖の水面を魔法の灯で照らした。透明度の高い水は遥か下まで見通せるが、光の届く範囲に湖底は見えない。かなりの深さがあるのだ。
「この地で起きた惨劇について、グリモワルド地方にどれほどの記録や伝承が残っているのか。僕が調べた限り、古い民話の一部に名残が見られる程度でした。グリモワルド地方は小国同士の小競り合いが続いていますから、戦火や政変で記録が失われやすいようです」
フィルの実家も滅びちゃったもんなあ。
「じゃあ、封滅院は不確かな情報で動いているってことですか?」
「そうかもしれません。中途半端な理解で『渇きの呪い』を扱おうとすると、今度はグリモワルド地方に巨大な砂漠ができるでしょう。」
困った連中だな……。
俺が頭を抱えていると、先生が静かに問いかけてくる。
「さて、ここからが本題です。フィルが呪いの制御のために、あるいは封滅院と戦うために魔術を学びたいと言ったら、君はどうしますか?」
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