21・井原の道トンネル

 もはや、祈ることしか出来なかった。

 親父が無事に帰宅することを。

 まさか、前を走っていた車の持ち主が隣の家の男性だとは夢にも思わなかった。

 今さら後悔をしても遅いけれども、どうにもならないと分かっていても、ああすれば良かったこうすれば良かったと考えが頭をよぎる。


 もしかしたら親父が帰宅したときには隣の家に住んでいた旦那さんの生首は消えてなくなっているかもしれない。

 僅かな希望も頭の中を過る。

 何事も起こらないで欲しいと、ひたすら祈ることしか出来なかった。




「ただいま」

 少し疲れた様子の親父が帰宅したのは日付が代わり朝方になってからだった。

 なかなか帰宅しない親父を心配していれば、昨夜の夕食はコンビニ弁当だったのだろう。

 ゴミ箱に捨てられたのはコンビニの袋に空の弁当箱と、コーヒーのペットボトルが入っているのが見える。

 俺達の心配をよそに、親父は暖かいコーヒーをすすっている。


「仕事でトラブルが起こって、なかなか帰宅することが出来なかった。今日は仕事が休みになったから家でゆっくりしていようと思う。夜はお隣の旦那さんの通夜に参加するから」

 帰宅する時間が朝方になると分かった時点で俺か弟にメールの一つでも入れてくれれば良かったものの、連絡を入れている時間も無かったのか。

 

「分かった。俺は大学に向かうよ」

 昨夜弟が親父用に作った夕御飯が今日の親父の朝食になるのだろう。

 文句一つ言わずに弟は冷蔵庫から、昨日の夕飯を取り出すと電子レンジで暖めている。


「気をつけて」

 親父は、俺の後ろ姿に向かって手を振っているけれども、気をつけてと言いたいのは俺のほう。

 

 今もなお、親父の背後をつけ回している男性の首を視界に入れることが出来ないまま

「うん。行ってくる」

 俺はリビングを抜け出して大学へ向かう。


 親父が帰宅したときには、もしかしたら男性の首は消えているかもしれない。

 そんな淡い期待を抱いていたけれども、世の中そう上手くはいかないようで見事に打ち砕かれた。

 このまま親父に何事もなければ良いのだけど。




 男性の首は、朝になると親父と共に会社へと向かい夕方や夜中に親父と共に帰宅する。

 そんな毎日の生活と共に、日々が過ぎていき隣の家に住んでいた男性の生首が家にやってきてから十数日が経過した頃。







 日の出前。


 道路を照らすために設置された街路灯すれすれを2台の車が立て続けに通過する。


 先頭を走るのは黒の軽自動車。

 後に続くのは白の乗用車である。


 白の軽自動車を運転する男性は顔面蒼白となりながらも、アクセルを強く踏み込んだ。

 

 辺りはほんのりと薄暗く、視界は決して良いとは言えない状況の中で、バックミラーを見るとリアガラスの向こう側に男性の姿があった。

 法定速度を大きく上回るスピードで走っているにも関わらず、男性と乗用車の距離は開けることなく、かえって距離は縮まっているように思える。

 

 その見覚えのある男性の姿に恐怖心を抱いたのは、男性が数日前に亡くなっている事実を知っているため。


 道の先に井原の道トンネルが見えてきた。

 隣に住む男性が亡くなったのはトンネル内である。


 井原の道トンネルと、バックミラーに写る男性を交互に眺めていると、前を走る黒い軽自動車がハザードランプを出すと共にゆっくりと車を路肩にとめる。

 きっと、このまま法定速度を大幅に越えたスピードで走り続けていると事故に巻き込まれると思ったのだろう。

 

 正直に言ってしまえば、前を走る黒の軽自動車が道を譲ってくれたため、恐怖心は増す一方となり黒い軽自動車を勢いよく抜いた所で恐る恐るバックミラーに視線を移すと、バックミラーに写っていたはずの男性の姿がいつの間にかに消えていた。


 あれ?と疑問に思いバックミラーを再度確認する。

 やはり、バックミラーごしに写っていた男性の姿が消えている。


 黒い軽自動車の運転手には悪いけれど、もしかしたら隣の家に住んでいた男性は黒い軽自動車にとり憑いたのかもしれないと……。



 ほっと安堵したのもつかの間。


 視線を正面に向けた直後の出来事だった。




 井原の道トンネル内に車が侵入するのと同時に、コトンっと後部座席に何かが落ちるような音がした。

 鞄は助手席に乗っているため、鞄が落ちた音ではない。

 そもそも、今日は後部座席にはなにも乗せていないため、コトンと音がするはずがないのだけれど。


 疑問に思い、恐る恐るバックミラー越しに後部座席を確認して早々に後悔をすることになる。


 何故バックミラーごしに写っていた男性が、黒の軽自動車に取り憑いた何て都合のいい考えをしてしまったのか。


 今さら後悔しても遅い。




 コトンと音を立てて後部座席に落ちたのは、ぐしゃりと何かに押し潰されたような、元の形が分からないほど潰れた人の顔だった。


 バックミラーに気を取られていたため、気づかなかった。

 目の前に事故を起こしたばかりのトラックがとまっていることに。


 あっと思ったときには、時既に遅かった。

 アクセルを踏み込んでいた足をブレーキペダルに移す前に法定速度を大きく上回ったスピードで白い乗用車はトラックに追突した。

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