番外編
ホワイトウルフのホワイトデー
夕食の片づけをすませたのち、ソラはエプロンのひもを結び直した。
「よし、やるぞ」
気合いを入れて、キッチンの棚からボウルや泡立て器を取り出し、小麦粉と砂糖、卵を用意する。
エアコンの効いたリビングで携帯端末をいじっていたユイが、キッチンを振り返った。
「何をしている?」
ソラは、常温にもどしたバターのやわらかさをたしかめながら、返事をした。
「明日はホワイトデーだから、クッキーを作るんだ。クラスのみんなに配る用に」
人間界には、バレンタインデーとホワイトデーという日がある。
バレンタインデーは二月十四日で、この国ではもともと、女が意中の男にチョコレートを渡して愛の告白をする日だったらしい。だが、いつの間にか愛の告白の風習は薄れ、ソラたちの通う高校では、クラスメイトに任意でチョコを渡す日になっている。
そして、バレンタインデーのお返しをするのが、明日、三月十四日のホワイトデーだ。
「バレンタインデーは、様子見でなにも配らなかったけど、けっこうなクラスメイトからチョコをもらったからな」
チョコをくれた者だけより分けてクッキーを渡すのも面倒なので、ソラはクラスメイト全員にクッキーを配るつもりでいる。
「そうか」
ユイがそっけなくこたえる。
小麦粉を計量していたソラは、顔を上げて眉をひそめた。
「他人事みたいに言ってるけど、ユイだってバレンタインデーにたくさんチョコもらっただろ……もしかして、なにも用意してないのか?」
高校で、ユイは顔よし、頭よし、運動神経よしで通している。そんな優等生に顔を覚えてもらいたい女子生徒たちから、ユイはかなりの数のチョコをもらったはずだ。昼休みに、一学年下のソラの教室まで、袋がほしいとたずねてきたのでよく覚えている。
ユイが、携帯端末をいじながら口を開く。
「バレンタインデーもホワイトデーも、菓子を配るのは任意のはずだ」
「そうだけど、人間たちの風習に従ったほうが無難だろ」
ソラたちは人間ではない。異界から、いわゆる妖怪退治をしに人間界に来た狼族だ。
異形であることが人間たちにばれると、任務に支障をきたす恐れがある。そのため、人間たちの姿や習慣をまねて、うまく溶けこまなければならない。
ホワイトデーにお返しをしなかったことで「あいつ、変じゃないか?」と思われたら、それがほころびになりかねない。
ユイがため息をつく。
「ソラは気にしすぎだ」
「正体がばれるよりましだろ。それに、食うだけ食ってお返しをしないのは、
ソラの言葉に、ユイがぴくりと肩をふるわせた。
雪狼家の当主は、ユイの姉だ。そして、ユイは姉のことがそれはもう大好きなのだ。
ソラはもう一押しとばかりに、ユイにたずねた。
「だれからもらったかは、覚えてるのか?」
「……ああ。だが、この時間から買いに行ったのでは、物がそろわない」
「前日の夜だしな」
催事場はすかすかに違いない。だからといって、スーパーやコンビニで売っている菓子を配っても、微妙な顔をされそうだ。
(優等生っぽいお返しにしないとな)
ソラは、ボウルに入った小麦粉に視線を落とした。
「いっそ、ユイも俺と一緒にクッキー作るか?」
ユイがソラを見て、顔をしかめる。
「菓子作りはしたことがない。それに、作るより食べるほうが好きだ」
「好き嫌いなんて、今はどうでもいいだろ。作り方は俺が教えるし、型抜きクッキーなら初心者でも簡単だ。材料もたくさんある」
優等生の肩書に、料理の才能が加わったところで、あやしむ者はいないだろう。
ユイはしばし考えるそぶりを見せてから、携帯端末をローテーブルに置いた。
「わかった。やる」
ユイのこたえに、ソラはにやりと笑った。
「じゃあ、まずは手を洗ってこい」
ユイが洗面所に行っているあいだに、ソラは棚から予備のエプロンを取り出した。
もどってきたユイに、エプロンを渡す。
「まずは、それを着けろ」
ソラはユイに背中を向けて、エプロンの構造を見せた。ユイは首をかしげながらも、見様見まねでエプロンをつける。
「よし。次は、小麦粉と砂糖とバターをスケールで量る。一度に全部は作れないから、とりあえず一回分だけな」
ユイはうなずいて、ソラの書いたメモ通りに材料をボウルに量り取っていく。
「終わった」
「じゃあ、俺がバターをまぜるから、ユイは小麦粉をふるいにかけてくれ」
「ふるい?」
「銀色の、底が網になってる深皿みたいなやつだ。小麦粉を入れて、新しいボウルにふるい落としてくれ。こぼさないようにな」
ユイがステンレスのふるい器を手に取って、しげしげと観察する。
「こんなもの、いつの間に買ったんだ?」
「人間界に来て、三か月くらいしてからかな。あるといろいろ便利なんだ。イモとかカボチャとか、裏ごしするときにも使えるし」
「裏ごし……」
ユイは何のことかわからないようだったが、粉のふるい方は理解したらしく、スプーンで小麦粉をすくってふるいにかける。
ソラはというと、クリーム状になったバターに、砂糖と卵黄、それと塩を一つまみ加えてさらにまぜていった。均一になったところで、ユイが声をかけてくる。
「全部ふるい落とせた」
ユイは、ボウルに入ったきめ細やかな小麦粉をソラに見せた。顔がどこか得意げだ。
「じゃあ、小麦粉をこっちの材料と合わせるぞ」
ソラはユイのどや顔を無視して、手もとのボウルに小麦粉を加え、ゴムベラでサクサクとまぜていく。
「小麦粉がまざったら、生地をまとめて、ラップに包んで、冷蔵庫で一時間休ませる」
「生地を、休ませる?」
「そういう言い回しをするんだ。生地を冷やすと型抜きがしやすくなるし、できあがったときにサクサク感が増す」
「そういうものか」
ユイは納得したようにうなずいた。
(ここまでは順調だな)
ユイもうまく作業をこなせているし、この分だと寝るまでに三回は焼けそうだ。
「生地を休ませてるあいだに、次の生地も用意するぞ。今度は、ユイが材料をまぜる番な」
「わかった」
慣れてきたからか、ユイは即答した。
しかし、ソラのこの判断がいけなかった。
「あっ、ユイ! バターを力任せにまぜるな! 飛び散るだろ」
「……」
「違うって、小麦粉はヘラで切るようにまぜるんだ。さっき俺がやるとこ、見てただろ」
「こうか?」
「そうそう、だまにならないように」
妖怪を退治するときは、上司であるユイがソラに指示を出すのだが、今は立場が完全に逆転していた。
「じゃあ、休ませておいた生地を伸ばすぞ。打ち粉を振って、こんな感じだ。次はユイにやってもらうから、よく見とけよ」
綿棒で生地を伸ばすソラを見て、ユイが眉間にしわを寄せる
「俺が手を出すより、ソラが全部やったほうが早いのでは」
「はあ?」
ソラはユイをにらみつけた。
「これはユイの贈り物でもあるんだから、ユイが自分でやらなきゃだめだろ」
ユイは、しぶしぶといった様子でうなずいた。
「じゃあ、続けるぞ。生地を伸ばしたら型で抜いて、天板に並べてく。すみから取ってったほうが、生地の余りが少なくすむぞ」
「すみから……」
「そうそう。そんな感じ」
ほめたのも束の間、次の生地を伸ばすときに、ユイがまたやらかした。
「ああ! ユイ、おまえどれだけ薄く伸ばすんだ。それじゃ餃子の皮だぞ。ていうか、クッキーの生地をそこまで薄くできるって、逆にすごいな」
そんなこんなで、すべてのクッキーを焼き終えたときには、日付がかわっていた。
甘いにおいのただよう部屋で、ソラはふっと息をついた。
「やっとできた」
ダイニングテーブルには、ところせましとクッキーが並んでいる。星型、人型、クマ型、花型などなど。最後にオーブンから出したものは、まだ熱い。
ユイはというと、ソファーにもたれて、目もとを腕でおおっていた。燃えつきた、といった様子だ。しかし、気をゆるめるには早い。
「まだ、ラッピングが残ってるぞ」
「……ああ」
ユイから、消え入りそうな声が返ってきた。
(まあ、慣れないことしたからな)
少し休憩が必要かもしれない。
ソラはクッキーにキッチンペーパーをかけて、エプロンをはずした。
「クッキーを冷ますあいだに、シャワー浴びてくる」
ユイからの返事はなかった。戦闘においても、ここまで疲労困憊のユイは見たことがない。
ソラは、ふたたび息をついた。そして、星型のクッキーを一つ取って、ユイのもとに向かった。
「ほら」
半開きだったユイの口に、ソラはクッキーを突っこんだ。次の瞬間、ユイは腕を下ろした。
「自分で作ったクッキーは、おいしいだろ?」
ユイは無言ながらも、力強くうなずいた。
ソラは表情を緩めた。
「じゃあ、シャワー浴びてくる」
ソファーに背中を向けようとしたとき、ユイがダイニングテーブルに視線を動かすのが見えた。
ソラは、首だけでユイを振り返った。
「いちおう言とくけど、勝手にクッキー食べるなよ。さっきのは特別だからな」
「……わかっている」
一瞬、間があったのは、どういう意味だろうか。
ソラは顔をしかめた。しかし、携帯端末をいじり出したユイに、これ以上かける言葉も見つからない。
「絶対に食べるなよ」
念を押して、ソラは風呂場に向かった。
(まあ、ユイがいくら甘い物好きだからって、贈り物に手をつけたりはしないだろ)
万が一、ユイがつまみ食いをしたとしても、クッキーは百個以上ある。一つや二つ減ったところで、たいした影響はない。
だが、ソラは見誤っていた。
ユイの菓子に対する情熱を。
あいつは、すべてを食いつくす。
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