第5話 年齢

   ◇ ◇ ◇


 自分の家で家族でも恋人でもない女性がシャワーを浴びているという状況にむず痒いものを感じる中、平静を装いながら過ごしていると、脱衣所のほうからドライヤーの音が聞こえてきた。


 女性と家で過ごすのが初めてなわけではないのに、妙に緊張してしまうのはなぜなのだろうか?

 特別女性経験が豊富なわけではないが、乏しいわけでもないので、思いのほか緊張していることに若干の戸惑いがある。


 まあ、同僚の女性がいきなり家に泊まりに来る状況なんて想像もしていなかったからなぁ……。プライベートで付き合いがある人じゃないから余計に非日常感があるんだろうなぁ~。


 会う約束をしていて、その流れで家に招くことになっていたら別に緊張しなかった。

 それくらいの女性経験はあるから、やっぱり心構えって大事なんだな。事前に知っているか否かで全然精神状態が違うし。


 そんな緊張を読書に興じることで誤魔化しているのだが、ドライヤーの音に気を取られている時点で全然集中できていないわけである。


 いつもなら物語に夢中になってどっぷりと世界観に浸り、物音なんて気にならなくなるのに、今はこのていたらくだ。


 自分の現状に情けなくなって深く溜息を吐くと、ほぼ同じタイミングでドライヤーの音が消えた。

 そして棚にドライヤーをしまっている音に変わったと思ったら――


「――さっぱりしたぁ~」


 灰咲さんは吐息を多分に含んだ声でそう口にしながら居室へとやって来た。


 ラフな部屋着に着替えた灰咲さんは、元々薄化粧だからノーメイクになってもそんなに印象は変わらない。シミ一つない透き通った肌は化粧なんて必要ないと思わせるほどの美しさだ。


 わかりやすい違いがあるとすれば、ノーメイクだから火照った顔が目立つようになって無性に色っぽく見えることだろうか。

 若干湿った髪がより色気を増す要因になっており、自然と視線が吸い寄せられてしまう。


「……どうかした?」


 俺の視線が気になったのか、灰咲さんはいぶかしむような顔になった。


「すみません。見惚れてました」

「私の魅力が溢れ出て止まらなかったか」


 灰咲さんの目を見つめながら真面目な顔で答えると、彼女はグラビアの写真集で見るような蠱惑的なポーズを取りながら軽口を叩いた。


「ぷっ――灰咲さんって……くふっ……そんな冗談言うんですね」


 予想外の行動と言動に驚いたが、それ以上に不意打ちの威力が高くて笑ってしまった。

 灰咲さんはクールで脱力感があるから、あまりおちゃらけるイメージがないので意外だった。


「親しい人が相手だとたまに言うよ」

「……それは俺のことを親しい相手だと思ってくれてるってことっすか?」

「……そうなのかな?」


 なぜか灰咲さんが首を傾げる。


「私の事情を知って助けてくれたから、心を開いたのかな? 少なくとも心の距離は近くなった気がする」

「助けたって言っても、そんな大層なことはしてないですけどね……。ただ泊めただけですし……」

「一人で東京に逃げて来たから頼れる知り合いなんていなかったんだよね。だから嬉しかったんだと思う」


 灰咲さんはあまり感情が表に出るタイプじゃないからわかりにくいけど、そんなふうに思っていたんだな……。

 頼れる人がいない中、優しくしてくれる人がいたら俺だって懐いてしまうかもしれない。


「まあ、なんと言うか……多分、気が緩んだんだろうね」


 そう言って微笑を浮かべる灰咲さんの姿を見て、泊めてあげて良かった、と心の底から思った。


 ずって気を張りつめていたら精神的に疲弊するからな。

 メンタルがやられると体調を崩してしまう恐れがあるし、少しでも心を安らげることができる環境が必要だ。


 俺としてはその場を提供できているか不安だったから、落ち着くことができているのなら泊めた甲斐があった。


「――なんか飲んでもいい?」


 シャワーを浴び終えたところだし、喉が渇いていたのだろう。


「ご自由にどうぞ」


 冷蔵庫に目線を向けながら答えると、灰咲さんは「ありがと」と口にして歩を進めた。


「なに読んでたの?」


 冷蔵庫の扉を開いた灰咲さんが中に目を向けたまま尋ねてくる。


「これっすか? これは今月発売されたラノベの新刊です」

「へぇ~、獅子原君ってほんとに本が好きなんだね」

「御覧の通りですね」


 誰だって俺の部屋を見たら本好きだということはわかる。部屋の大部分が本棚で埋め尽くされているからな。

 整然としまわれている本の数々は俺の宝物だ。本棚に並んでいる宝物を眺めているだけで幸せだし、それだけで何時間でも過ごせてしまう。


 所謂、本の虫というやつである。――いや、読むのも集めるのも眺めるのも匂いを嗅ぐのも好きな変態と言ったほうが正しいかもしれない……。


「私は気になったやつとか話題のやつとかを読むくらいだからなぁ~。――あ、これ貰ってもいい?」


 呆れと感心が入り混じった声音で相槌を打った灰咲さんは、冷蔵庫からチューハイを取り出して遠慮がちに尋ねてきた。


「いいっすよ」

「やった。ありがと」


 声を弾ませる灰咲さんって……かわいくね?

 普段がクールだからギャップがあって余計に破壊力が増している気がする。


 灰咲さんは女として見られることに抵抗があるようだけど、かわいいと思うのも見惚れてしまうのも俺が男である以上は仕方がないことだから許してほしい。


 女として見ていなくても、友人だと思っていても、かわいいと思ったり見惚れてしまったりすることはあるはずだ。そういう感情が必ずしも恋愛に繋がるわけではないし。


「どうせ俺はまだ十九なんで飲めませんし、遠慮せず飲んじゃってください」

「――え、獅子原君ってまだ十九だったんだっけ……? ならなんでお酒が……?」


 内心の動揺を正当化するのに必死でちょっと早口気味になってしまったが、幸いにも灰咲さんは別のことに意識を持って行かれたようで気づかれることはなかった。


 その証拠に居室へとやって来た灰咲さんはカーペットに腰を下ろして、ローテーブルに缶チューハイを置いたところで固まっている。


「友達が自分用に持って来たんですけど、そのまま置いてったんすよ」

「あぁ~、なるほど。いま十九歳ってことは、同級生には二十歳の子もいるもんね」


 俺は今年二十歳になる年だからな。

 誕生日が早めの人は既に二十歳になっている。


「それに大学生なら年上の同級生とかもいるだろうし、そもそも友達だからって同い年と決まってるわけじゃないか」


 そう呟いた灰咲さんは得心がいったように頷く。


「実際に私と獅子原君も年が違うわけだしね」

「灰咲さんって今いくつでしたっけ?」

「二十二だよ」

「年上なのは知ってましたけど、俺の二個上だったんすね」


 灰咲さんは落ち着いているから大人びて見えるけど、俺とは二個しか変わらないんだな。


 大人びて見えるというだけで、老けていると言っているわけじゃない。そこは勘違いしないでほしい。

 精神的に成熟している――達観しているとも言う――だけで、見た目は年相応だからな。


 かわいい系じゃなくて綺麗系よりの人だから幼いっていう印象もない。だから余計に大人びて見えるのだろう。


「そそ。私のほうがお姉さんなのです」


 胸を張りながら微笑む灰咲さんは、プシュッ! と音を鳴らせて缶チューハイを開ける。


「そう、年下の男の子に頼っている情けないお姉さんなんです……」


 今度は肩を竦めると、缶チューハイに口をつける。


「それは仕方ないことですし、別に情けなくもないですよ」


 事情が事情だし、そもそも同僚なんだから頼ったっていいでしょ。俺のことを友人だと思ってくれているのなら尚更だ。

 友人なら年上も年下も関係ないからな。少なくとも、俺は友人と相談もできないような堅苦しくて距離感のある付き合い方をするつもりはない。


 もちろん、最低限は敬いの気持ちを持ち合わせているが、親しくなったらその内、灰咲さんにもタメ口を使うと思う。


「そう言ってくれると助かるよ」

「困ったときはお互い様ですから」

「獅子原君もなにか困ったことがあったら遠慮なく言ってね」

「はい。その時は頼りにさせてもらいます」


 誰かを頼らないといけない状況なんて訪れないほうがいいが、万が一の際に助けを求められる人がいるというのは精神的に余裕が生まれる。

 男の俺でもそう思うのだから、大変な境遇に身を置いている灰咲さんはより心強さを感じてくれているのではないだろうか。


 年下の俺では心許ないかもしれないが、誰も頼れる人がいないよりは幾分かマシだろう。


 個人的には頼り甲斐のある男だと思ってくれたら嬉しいけど……。

 まあ、そこは俺の頑張り次第か――。

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