魔物討伐

 けんそうの中を僕たちは歩いていた。前にはグラストさん、隣にはマリーとローズが並んでいる。

 ここはイストリア。すでに見慣れた光景なのに今日は何か違う気がした。

 マリーもローズも表情は硬い。腰に下げた剣がいつもよりも目立っているように思えた。

 僕も同じだ。心臓はうるさいくらいに主張しているし、手足も少し震えている。著しい緊張は思考を阻害する。それでも僕は前に進み続けた。

 人が多い中を歩く機会はあまりないため新鮮だった。基本的に家にいるか、イストリアに行っても、馬車に乗っていることが多いし。

 行き交う人たちは、商人かようへいか住民か。老若男女。色んな人がいる。亜人とかはいないけど。ケモナーじゃないし構わないけど、いたらいたでちょっと感動しそうでもある。

 そんなことを考えていると、いつの間にかグラストさんが隣に並んでいた。

「緊張してるみてぇだな。安心しろ。俺がいるから問題ねぇ」

 言われて、マリーとローズは少しだけ表情を柔らかくした。

 グラストさんは自信に満ちあふれていて、じんも不安を抱いていない。それはそれだけ実力があるということだ。今日の目的を考えれば、僕たちにとってはありがたいことだった。

「今日はありがとうございます、グラストさん」

「気にすんな。魔物討伐なら俺がガキの頃もやってたからな。まっ、大船に乗ったつもりでいりゃあいい。まずギルドに行く。そこで魔物討伐の依頼を受ける方がいいからな。ギルドには色々あるが、今から行くのは冒険者ギルドだな。個人あるいは組織、国からの依頼を仲介している場所って感じだ。魔物討伐、捕獲やら、道中の護衛から、日常的な家事とかの手伝いとか色々ある。幅広い依頼を仲介しているから、どこの国でも必須だ」

 冒険者ギルドか。聞き慣れた言葉だ。この世界にもあるんだ。今の今まで知らなかったな。普通は転生したら最初に調べそうなものだけど、僕の興味は魔法にしかなかったし。

 今は魔物にも少し興味がある。魔物も魔力を帯びていることがわかっているからだ。ただそれはゴブリンだけなのか、他の魔物もなのかはわからないけど。

「ちなみに、どうしてギルドへ行くんですか? そのまま倒したらダメとか?」

「いや、基本的に魔物を倒すことには問題はねぇよ。ただギルドにはメリットがいくつもある。まず報酬が出る。これはでかい。無報酬と有報酬だとやる気にも差が出るからな。それと依頼を受ける場合、その魔物に関しての情報をもらえる。どれだけの数なのか、場所はどこか、どんな種類かとかな。次にギルドに一度登録しておくと、ほぼ永続的に登録が続くし、依頼を達成するごとに評価値が加算されて、ランクが上がる。ランクが上がると、高難易度の依頼を受けることができたり、直接依頼をされたり、特別な権利を得られたりする」

 なるほど。そういうことならば先に依頼を受けた方がいいだろう。聞いた限りではデメリットはなさそうだし。

「特別な権利ってどんなのがあるんです?」

「進入禁止区域への入場の許可がでかいだろうな。一般人は入れない分、特殊な鉱石やら、素材やらを手に入れられる。後は協賛してる店で値段が安くなったりな。何かしらの非常事態に招集されることもあるから、メリットだらけってわけでもねぇが」

 先を考えるとかなり有用な気がする。特に侵入禁止区域に入れるというのは大きい。

 魔法に関して、僕はまだまだ知らないことが多い。エッテントラウトの生態、魔物の魔力反応、らいこうせき。これは家の中にいてはわからなかったことだ。

 他にも、外の世界には魔法に関わることがあるに違いない。もしもそれが存在する場所が、一般人には入れない可能性があるのなら冒険者としてランクを上げておくべきだろう。

 僕はまだ子供だし、すぐにというわけではない。先を見越して、ということだ。

「ってことで、まずはギルドへ登録する。登録条件は、子供の場合は冒険者ランクがゴールド以上の人間が推薦する必要がある。俺はプラチナだから問題ねぇってわけだ。ランクは下からブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナ、ダイヤ、オリハルコンの順だ。オリハルコンなんてランクは、世界で数人くらいしかいねぇ、伝説級の人間だけどよ」

 ランク形式をとっているというのは、非常にわかりやすい。あくまで僕としては、だけど。

 マリーとローズは明らかに緊張している様子だった。それは当然のこと。だってこれから僕たちは魔物とたいするのだ。怖がっていて当然だし、余裕を持っている方がおかしい。

 マリーの様子を見て、グラストさんは心配そうにしている。

「無理するんじゃねぇぞ。別に今日じゃなくてもいい。シオンはまだ八歳だし、マリーとローズは十歳だったか? その年齢ですでに魔物討伐している奴はいるが、だからといっておまえたちが同じようにする必要はねぇんだからよ」

 マリーはふるふると首を横に振った。

「ううん、大丈夫。ここで逃げたら、きっと、あたしはずっと逃げちゃう。それじゃ強くなれないから。あたしは強くなりたい。もっと自分もみんなも……シオンも守れるくらいに強く」

「わたくしも、逃げるつもりはありませんわ……強くなる必要がありますの」

 ぐっと拳を握り、まっすぐグラストさんを見つめるマリー。

 ローズは何かを決意して、目に闘志をたぎらせている。

 グラストさんはそんな二人を見て、豪快な笑顔を見せる。

「そうか。なあに、さっきも言ったけどよ、俺がいるから問題ねぇ。絶対に三人とも守ってやるからな。初陣だ。少し肩の力を抜いてやりゃあいい」

 二人はこくりとうなずいた。

 僕はそんな姉の覚悟を知り、胸の内に熱が生まれていることに気づいた。マリーが魔物討伐を決意した理由はわかっている。ゴブリンへの恐怖を乗り越えるためだ。

 マリーがゴブリンとの戦いで大きなトラウマを負ったことは間違いない。それでも逃げずに自分の恐怖と戦おうとしている。僕はそれを知りつつも、何も言わなかった。マリーに魔物討伐をすると話した時、あたしも同行すると言われても。

 ローズも何か理由があって強さを求めている。ローズの考えを深く聞いたことはない。けれど、彼女も剣術を学び、何かにあらがうために戦うすべを求めていることはわかっている。それが自衛のためなのか、あるいは別の理由があるのかは知らないけれど。

 もしかしたらローズもゴブリンが襲来してきた時のことがきっかけなのかもしれない。

 僕はといえば、魔法は魔物に有効なのか検証したいということ、魔物との戦闘を経験しておきたいということから、今回の魔物討伐に踏み切った。

 さすがに僕だけでは危険だし、父さんに話せば反対されることはわかっていた。

 グラストさんは腕に覚えがあるということを聞き、これ幸いとばかりに同行を頼んだわけだ。らいの作成と魔物討伐の同行と、色々と頼みすぎな気もするけど、グラストさんは快く引き受けてくれた。

「今日の獲物は、コボルトにするつもりだ。魔物の中じゃ、かなり弱い部類だから、初戦には丁度いい。魔物の中で勢力がでかいのは、ゴブリン、コボルト、オークの三種族だ。その中でもコボルトは数が多く、繁殖力が著しい分、個々の力は弱い。ゴブリンはやや数が少なめで、個体の力はそれなりで凶暴だ。オークはさらに数が少ないし、巨体で個体の力はかなりのものって感じだな」

「他の魔物はいるんです?」

「ああ、いるぜ。ただ勢力分布図的には、この三種族とその他って感じだ。その他の中には多くの種族がいるけどよ、数が少ねぇからな。三種族の討伐は、どこのギルドでも常に依頼を出してるくらいなんだぜ」

 魔物は常に人に害を及ぼす可能性があり、特に三種族が危険らしい。僕たちの村の近くにもみ着いていたし。討伐をしても困る人間はいないということか。

 話しながらしばらく歩くと、目的の場所に到着した。冒険者ギルドの規模は結構大きいようだ。かなりの人間が出入りしており、せわしない様子だ。

 なんか巨大な木造建築物を見ると、ちょっと牧歌的な気分になるな。悪くない感じ。

 グラストさんがさっさとギルドに入っていく。

 僕たちはグラストさんに続いて屋内へ。

 中にはよろいまとっていたり、武器を帯びている人もいれば、一般人も多くいた。依頼申請の受付と依頼受諾受付など、色々な受付があるようだ。

 ああそうか。個人で依頼する場合も受付に行くから、冒険者以外もいるのか。おかげで、あまり僕たちは目立たなかった。

 僕たちは冒険者登録受付へ向かった。今はいているようで、すぐに受付の前に移動できた。

「登録三人。こいつらな」

 グラストさんは首から下げていたネックレスを取り出して、受付の女性に見せていた。先端には薄く輝く装飾品がついている。あれはプラチナだろうか。それとも模造品なのか。

「かしこまりました。推薦人はお二人ですか?」

「あ? 二人?」

 受付の女性が僕たちの後方に視線を向けていた。

 僕たちは思わず振り返る。

 そこにいた人物は、父さんだった。

 僕たちはあんぐりと口を開けて、凍ってしまった。予想だにしない事態に思考が固まってしまったのだ。どうしてここに父さんが。どうしてバレたのか。父さんは僕たちを止めに来たのか。

 色々な考えが頭を巡り、悪戯いたずらをした子供のような心境に陥った。怒られる、どうしようというあれだ。硬直状態の僕たちを放って、父さんは受付の女性に話しかけた。

「ああ、私も三人を推薦しよう。私はダイヤだ。問題あるまい?」

 父さんは懐からネックレスを取り出す。グラストさんのものとは違い、輝度が高い装飾品だった。

「は、はい。ダイヤランクの方であれば、大丈夫です! あ、あの、では署名をお願いします」

 僕たちは父さんに促されて、受付で署名をした。それだけで登録が完了したらしく、小さめのネックレスを渡された。先端にはブロンズの装飾品がぶら下がっている。

 僕とマリー、ローズは首飾りを受け取ると首から下げた。

「これは冒険者としてのあかしになりますので、なくさないようにしてください。再度の発行には料金がかかりますので。冒険者として、節度を持ち、依頼をこなすようにお願いします。それでは、行ってらっしゃいませ!」

 マニュアル通りのような声と笑顔を見せてくれた女性は、手を振った。

 僕たちは一礼して受付から離れる。空気が重く、父さん以外の四人は気まずそうにしてしまう。

「先に依頼を受けるといい。話は後だ」

「あ、ああ、そうすっか……」

 僕たちをいちべつしたグラストさんは戸惑いながらも依頼掲示板から一枚の紙を手に取ると、依頼受諾受付へと向かう。僕たちもその後ろに続いた。

 依頼の受諾は簡単。ただ依頼書を持っていくだけらしい。後は依頼完遂ができたかどうかの確認のため、討伐時には魔物の部位を一部分持って帰る必要があるようだ。

 コボルトの場合は耳らしい。牙とかだと数が多いから、きちんと数を狩っているかわからないからだろう。

 依頼を受けると、僕たちは外に出た。空気は何ともいえない状況のまま。

 僕たちは四人並び、父さんと向き合った。

「それで、言いたいことは?」

「悪かった!」

「ごめんなさい!」

「すみません!」

「申し訳ありませんわ!」

 僕たちは一斉に謝り、頭を下げた。そうすることしかできなかったのだ。

 僕たちのもくは父さんに看破されていた。いつ、なぜバレたのかは知らないけど。状況が状況だ。言い訳してもどうにもならない。

 僕はちらっと父さんの顔色を盗み見た。怒っているわけではなさそうだ。

「まったく、予想通りだったな」

「予想通り……? 父さんは、僕たちが魔物討伐に行くとわかってたの?」

「討伐かどうかはわからなかったが、何かたくらんでいるだろうことはわかっていた。なんせここ数日、マリーが私やエマと話す時、目が泳いでいたからな。何か隠していることは明白だった」

「うっ、ご、ごめん、みんな」

 素直なマリーらしい。僕は普通にしていたつもりだったけど、視野が狭くなっていたようだ。マリーの動向までは気が回らなかった。

「まったく、魔物討伐なんて危険なこと、私に知らせずにやろうとするなんて。魔物は危険だ。魔物がいるような場所に行くなんてもってのほかだ。そう話していたはずだ。違うか?」

「そ、その通りです」

「ごめんなさい、お父様……」

 しゅんとしてしまう僕とマリー。決まりごとを破っているという自覚はあった。でも必要だと思ったのだ。それが父さんの意に沿わないとしても。

「しかもローズ。君まで。このことをテッドは知っているのか?」

「いえ、話してませんわ」

「彼も心配しているだろう。君は帰った方が……」

「ええ、確かに心配しているかもしれません。ですがガウェイン様がいらっしゃるのでしたら話は別ですわ。あの人はガウェイン様を信頼していますもの。そうでしょう?」

「……ふぅ、なるほど。そういうことか。わかった。私からこれ以上言うことはない」

 父さんは観念したように嘆息する。対してローズは勝ち誇ったように余裕の笑みを浮かべていた。

 以前、ローズを迎えに来た人がいたけど、あれがテッドさんなんだろうか。話の内容からするに、テッドさんはローズと一緒に住んでいるという村長さんのことかもしれない。保護者であるテッドさんが父さんを信頼しているから、魔物討伐にローズが参加しても問題ないってことなのかな。それにしたって、少し違和感があるような気がするけど。

 とにかく、ローズの同行は許されたようだった。

「あー、ガキ共にも色々と考えがあってのことだからよ、あんまり言わないでやってくれ」

「おまえが言うな、おまえが」

 父さんににらまれてしまったグラストさんは気まずそうに視線をらし、へたくそな口笛を吹き始めた。まったくもって誤魔化せていない。

 父さんは大きなため息を漏らす。

「……理由を話しなさい」

 父さんに言われて、僕たちは説明をした。マリーは強くなるため、そしてあの日の恐怖を乗り越えるため。僕は魔法の効果を試すためと、魔物に対してどんな効果があるかを確認するため。ローズは理由を詳しくは話さなかったけど、今後のためにも必要なことだと言っていた。

 話し終えると、父さんは再び嘆息する。

「なるほど、全員が遊び半分でないことはわかった。いや、それは最初からわかっていたがな。おまえたちは遊び半分で危険な真似はしないと。ただ知っておく必要はあった。二人とも顔を上げなさい。自分たちの行動には意味があり、それだけの意義があったのだろう? だったら、堂々としていなさい。たとえ怒られたとしても、しっかりと胸を張りなさい」

 僕とマリーは父さんを見上げた。小さく笑っている。ちょっとうれしそうにも見えた。

「自分たちだけで行動せず、力があり信用できる人間を護衛にしていることは評価できる。きちんと先を見据え、準備をすることは大事だ。私がいなくともグラストがいれば、問題はなかっただろう。ただこの世に絶対はない。危険は少なければ少ないほどいい。次からは私にも話しなさい。二人、高ランクがいれば、安心して討伐ができるからな」

「え? そ、それって」

「うむ。私も同行しよう」

 僕は思いがけない言葉に、狼狽うろたえた。

 確かに父さんは僕たちの味方でいてくれることが多かった。でも危険なことには反対したり、制限を加えることも多かったのに。

「魔法の実験や剣術の稽古を見て、三人はもっと新たなことに挑戦してもいいのではないかと思っていた。それに目の届かない場所で危険なことをされるよりは、同行した方がいいからな。もちろんまだ子供だから、大人である私たちが見守る必要がある。だが子供だからといって何もできないと考えるのは間違いだと考えた。三人とも短期間で多くを学び、成果を上げた。私ではできないことも沢山な。だから少し考えを改めた、それだけのことだ」

 僕の疑問が顔に出ていたのだろうか。父さんは行動の理由を話してくれた。

「ありがとう、父さん」

「お父様……ありがとう! あたし頑張るわ!」

「感謝しますわ、ガウェイン様」

「ふふ、気にするな。しかし戦いとなれば真剣だ。気を抜くなよ?」

「「「はいっ!」」」

 元気よく返事をする僕たちの横で、グラストさんは、うんうんと頷いていた。

「グラスト、おまえは今度、百本組手だ」

「殺す気か!? ああ、わかった、わかった! 俺が悪かった! ったく、やってやんぜ! 俺だってかなり強くなってんだからな!」

「ふんっ、見せてもらおうじゃないか!」

 なぜかグラストさんだけのせいになっている。全部終わったら謝っておこう。

「では、行くか。早めに移動しないと、帰宅する時間が遅くなるからな」

 父さんが先頭に立ち、僕たちはギルドを後にした。

 予定外のことばかりで、二転三転したけど、結果的には希望通りだし問題なし、かな。

 そうして僕たちは魔物討伐へと向かった。


   ●○●○


 コボルトの生息場所は森の中が多いようだ。開けた場所に小規模の集落を築き、そこで数十体単位で棲んでいるとか。

 僕たちはイストリアから西にある森に向かった。イストリア周辺は平原が広がっているけど、少し離れるといくつも森が茂っている。

 魔物の多くは平原よりも森や洞窟、山岳地帯などの人が寄り付きにくい場所に棲んでいる。

 森へ向かう道すがら、父さんから注意事項やコボルトに関しての話を聞くことになった。

 ちなみに徒歩だ。馬で行くと魔物に襲われてしまい食われたりするので、近い場合は徒歩が基本らしい。

「コボルトはゴブリンに比べ、個体の力は低い。だがその分、コボルトの方が頭も回るし、集団行動をする習性があるため、厄介でもある。それでもゴブリンに比べれば楽だし、対処のしようがある。それに冒険者や剣士、傭兵にとっては最初に戦う魔物でもある。だから今回コボルトを選んだ、ということだな?」

 最後の言葉は、グラストさんに向けて言ったようだ。グラストさんは返答をせず、肩をすくめるだけだった。

「魔物の中ではかなり弱い部類に入るが油断は禁物だ。れの冒険者でも、コボルトに殺された、なんて話はざらだ。気を抜けばやられる。相手が何であれ、常に注意を払い、警戒を怠らない。これが魔物討伐における絶対条件だ」

 正直に言えば、僕はあまり危機感を抱いていなかった。一度、ゴブリンを倒した経験があるからだろうか。どうにかなるだろうという思いがあったのかもしれない。

 けれど、父さんやグラストさんの反応を見ていると、徐々に緊張感が増してきた。

 しかし逃げるつもりはない。恐らく有効であると思われる魔法を習得した現時点で、魔物に効果があるのかどうかを試す必要がある。ぶっつけ本番で、有効ではないとわかっては意味がない。これは実験であり、実戦だ。

「隊列は、私、マリー、ローズ、シオン、グラストの順だ。私が指示を飛ばす。グラストが周囲の状況を把握し、情報を伝えるから、聞き逃さないように。敵と遭遇したら、私が先陣を切る。相手から襲ってきたら、個々に対処するように」

 父さんとグラストさんはリラックスした様子で、かなり頼もしい。この二人がいれば大丈夫だと思わせてくれた。マリーやローズも同じらしく、最初よりは緊張がほぐれているようだった。

 しばらく話しながら歩いていると、森が見えた。自宅近くの森に似ている。規模は同じくらいだろうか。他に冒険者の姿はないようだった。

 足音、木々の擦過音。普段は清涼ささえ感じるはずの環境音は、なぜか不気味に思えた。

 しばらく進む。父さんが右手を上げると、僕たちは立ち止まった。父さんはかがんで、あしあとを見ていた。子供くらいの大きさだけど、指は三本しかない。これがコボルトの足跡なのだろうか。

 耳を澄ますと地底から聞こえるような、重低音の声音が聞こえる。これは会話をしているんだろうか。犬のうなり声に似た声。それがそこかしこで生まれていた。

 僕たちは近くの茂みの中から顔を出した。

 いた。コボルトだ。十体はいる。数が多い。父さんの言った通りの姿をしており、顔は犬のようだった。毛むくじゃらで、伸びっぱなしになっている。そこはかとなくけもの臭くなってきた。

 目を凝らすと、魔物の身体はおぼろげに光っている。ゴブリンと同様に魔力を備えているらしい。

 しかし相手の数が多すぎる。さすがにこれだけの魔物を相手にするのは骨が折れそうだ。

 父さんは僕たちに向かい、この場で待つように合図をすると、剣を抜いて、集落の中へ入っていった。

 無造作に何のためらいもなく、一人でコボルトの集団に向かっていったのだ。僕は驚きのあまり、小さく声を漏らしてしまう。

 父さんの姿に気づいたコボルトたちが、突如として粗末な天幕に入っていく。やがて天幕から出てきたコボルトたちの手には、武器が握られていた。

「ガガゥガッガッ!」

 猛犬のような鳴き声と共に牙をき、コボルトたちは父さんを取り囲んだ。

 硬直状態は長くは続かなかった。すぐにコボルトの一体が、父さんへ襲いかかる。それを皮切りに他のコボルトたちも地を蹴った。四方八方からの攻撃。けることも、対応することも不可能。普通ならば。

 父さんはその場で姿勢を低くし、コボルトたちの間を縫って、簡単にすり抜ける。コボルトの包囲網を抜けると同時に、剣を振る。その一撃で、数体のコボルトは絶叫と共に、地面に伏した。

 コボルトたちも僕たちも何が起こったのか理解ができない。父さんが動く度に、コボルトたちは絶命する。十体いたはずのコボルトたちは十秒程度でせんめつされてしまった。

 魔物の気配は、ここにはもう残っていない。全滅したのだ。

 僕とマリー、ローズの三人はあっにとられて、あんぐりと口を開けたままだった。

「まったく、相変わらず化け物みたいに強ぇな」

 グラストさんがあきれたように後頭部をき、茂みから抜け出た。

 僕たちも同じように、身をさらし、集落の中へ入る。

 すべてのコボルトが一撃で絶命している。素人の僕でもわかる。並の腕ではないということを。

 父さんは刀身の血をぬぐうと、さやに剣を納める。

「これで安全だ」

 安全ではある。でも僕たちの出番がまったくなかったのはどうなのだろうか。目的が達成できないということに、僕は困惑した。

 父さんは、苦笑を浮かべて口を開く。

「安心しなさい。数を減らしただけだ。狩りに出ているコボルトが戻ってくるはずだから、そいつらと戦いなさい」

 よかった。父さんは色々と考えてくれていたみたいだ。まあ、さすがに何も考えず、コボルトを討伐するようなことはないと思っていたけど。

 他のコボルトたちが帰ってくる前に、討伐したコボルトの耳をぎ落として、革袋に入れた。これも冒険者としては必要なことらしいが、あまり気分のいいものではない。

 そうしていると、父さんが森の方に視線を移す。

 僕たちも視線を向けると、そこには六体のコボルトが立っていた。明らかにげっこうしており、僕たちを威嚇している。しかしいきなりは襲ってこない。姿勢を低くし、唸りながら、武器を構えている。

「狩りをするコボルトは、他のコボルトよりも戦闘能力が高く、警戒心が強い。私たちが遠距離武器を持っていないから、距離を保っているようだ。マリーとローズは前方へ。シオンは後方へ。それとシオン……奴らは遠距離攻撃がないと踏んでいる。つまり──」

「魔法が効果的ってことだね」

 僕は腰に携えていた雷火をはめて戦闘態勢になると、両手に魔力を編む。

 魔物はあまり動かない。ならば、発動が遅い魔法から試すべきだろう。僕は右手の指を鳴らし、魔力に火をつけ、フレアを生み出す。

 突如生まれた炎を見て、コボルトたちの間に動揺が走る。しかし即座に放たれたフレアに反応できない。奴らの目前に到達したフレアに、左手に編んだ魔力を放出して当てる。青い炎は魔力を帯びた酸素に触れ、爆発した。

 ごうおんと共に中央にいた二体のコボルトの身体が吹き飛んで、血肉を木々にまき散らした。

 ボムフレア。この威力。予想以上だ。僕は高揚感を胸に抱きながらも、次の段階へ思考を移す。魔力を再び放出するには最低でも三秒はかかる。

 奴らは爆発の余波を受けていた。二体は吹き飛ばされ、二体は慌ててその場から逃げはしたが、動揺しているのは間違いない。

 僕は即座に魔力を両手に集める。しかし残りのコボルト二体は、僕に標的を定め、すぐに地を蹴った。予想以上に速い。

 経過時間、二秒。あと一秒足りない。それに魔力を編んでも即座に発動できるわけじゃない。連続使用ができないのが、魔法の最大の弱点であることは明白だった。

 一体のコボルトのおのが僕に届く、寸前でマリーが僕の前に移動した。

 キンという鋭い金属音が聞こえると同時に、マリーの身体が僅かにブレる。

「シオンには触れさせないんだから!」

 コボルトの攻撃を受け流した。続いて反対方向から二体目のコボルトが僕へと迫るが、ローズが立ちふさがる。流れるように剣を抜き、コボルトの一撃をれいにいなした。

「この程度の攻撃、当たりませんわよ!」

 初実戦にもかかわらず二人の動きは俊敏だった。緊張は感じていないらしい。

 マリーは圧倒的な身体能力と俊敏性で、ローズの速度はマリーほどではないが、美麗な技でコボルトと戦っている。

 二人の剣技に僕は驚きを隠せない。しかしやるべきことは驚くことではない。

 両手に集めた魔力を合体させながら、僕は横に移動した。瞬間、如意棒型の魔力を左右の手に生み出し、両手を押し出しながら近づけて電流を発生させた。

 ラインボルト。相乗魔力により、威力が向上したボルト。

 赤い雷はまっすぐコボルトに向かい、高電圧が二体を襲う。接触するとまばゆく明滅し、跳ねるような鋭い音が響く。

「ガルゥゥアアァッ!」

 コボルトたちが断末魔の叫びを放つ。しばらくけいれんしていたが、焦げた臭気を昇らせながら、その場で倒れた。死んだらしい。

 ボムフレアもラインボルトも、これほどとは。恐らく、ただのフレアやボルトでは、せいぜいが火傷やけど程度しか負わせられなかっただろう。魔力の合成によって、これほどの威力をたたき出したのだ。

 仲間を四体も殺されたコボルトは、恐れおののいていた。

 しかし逃げる様子はなかった。奴らの視線は父さんやグラストさんに向けられていた。圧倒的な強者を前に、逃げることはできないと悟ったのだろうか。

 奴らは僕たちに襲いかかってきた。恐らくは捨て身。だけど、それは今の僕には有効だった。

 魔法使用後の硬直状態。そこに丁度、奴らの攻撃が重なったのだ。

 僕は即座に、背後に飛び退く。まるで攻守交代するかのような行動だったが、僕の退避と同時にマリーとローズが再び、僕を守るように前に出る。

 二人の横顔は必死で、恐怖さえ見え隠れしている。しかし、それでも前に出て戦おうとしている。

 マリーに向かい、コボルトたちが武器を払う。しかしマリーは、表情とは裏腹に冷静に対処する。姿勢を低くし、攻撃をかいくぐると、コボルトの足を切り払う。

 体勢が悪い状態の攻撃だ。相手に致命傷は与えられない。

 しかし確実に傷を負わせたことで、コボルトの体勢は僅かに崩れる。そのすきを見逃さず、マリーは攻撃を加えたコボルトの横に即座に移動。そうすることでもう一体のコボルトの攻撃可能範囲から逃れた。

「このぉっ!」

 回転しつつ、コボルトの首にいっせん。見事な軌道を描き、首は地面に落ちた。同時に飛沫しぶきが舞い、視界が悪くなる。

「ふっ!」

 マリーがコボルトを倒したと同時に、ローズの一撃がもう一体のコボルトに届く。コボルトの首は見事に削がれ、鮮血が溢れる。そしてコボルトはその場に倒れ、動かなくなった。

 荒い息を吐きつつ、マリーはコボルトから剣を抜いた。

 これで全部だろうか。辺りにはコボルトがいないようだけど。

 僕と同じように思ったのだろう。マリーとローズは、討伐が終わったとばかりに気を抜いてしまった。その瞬間、近くの茂みが揺れる。そこから現れたのは隠れていたコボルトだった。

「ガガゥッ!」

 ほうこうと共にマリーたちへと剣を振るコボルト。

 二人とも武器を下ろしてしまっている。どうあがいても回避も防御も不可能だ。

 だが。

「ガァガガァーッ!」

 悲鳴を上げたのはコボルトだった。

 コボルトの身体は青い炎に焼かれている。コボルトは熱に抗うようにその場で転がっていたが、やがて動かなくなった。

 ツインフレア。相乗魔力とフレアを掛け合わせた合成魔法だ。

 異変に気づいた僕は、即座に魔力を練り魔法を発動したのだ。なんとか間に合ってよかった。

「あ、ありがと、シオン」

「た、助かりましたわ」

 二人は心の底からあんしたとばかりに、ほっと胸をでおろした。正直、僕もかなり焦った。なんとかなってよかった。

 僕たちが周囲を警戒していると、父さんがやってきてコボルトの死を確認した。

「死んでいる。よくやったな、三人とも」

 父さんの声に、ようやく僕たちは力を抜いた。

 終わった。僕たちはなんとかコボルトを倒せたようだった。しかし、この疲労感。たった数体と戦っただけで、ものすごい緊張感だった。それに、戦ってわかったことも多い。

 魔法は発動までの時間が長い。一撃の威力は高いが、相手が複数いたり、直撃せずに倒せなかった場合、僕は無防備になる。

 マリーとローズがいてくれて、その欠点は補えていたけれど、僕一人だったら死んでいた。

「ありがとう二人とも。助けてくれて」

「シオンを守るのは当たり前よ。それに……シオンがいてくれたから、戦えた。少しだけ自信になったわ」

「魔法がなかったら、危なかったですわ。ありがとうございます、シオン」

「三人とも初戦にしてはよくやった。マリーは恐怖に立ち向かい、冷静に対処した。ローズも実力を発揮し、見事な立ち回りだった。シオンは魔法の効果を見せつけた。予想以上に魔法は強力な武器になることがわかったな」

「しっかし、魔法ってのは本当にすげぇな。俺も魔力の素養があったらなぁ」

 グラストさんは悔しげにつぶやいた。

 僕が見た感じでは、大人で魔力を持っている人はいなかった。多分、グラストさんも使えないだろう。というか今のところ、僕以外の人が魔法を使えるかどうかあまりわからないんだよね。

 マリーやローズも使えはするけど、小規模の魔法が限界だし実戦で扱うのは難しいだろう。他に使える人がいるのか、多いのか少ないのかは、今は判然としないわけだ。

 魔力の素養、魔法のはんようせいについては今のところは考えなくていいだろう。大事なのは、今だ。

 実戦でわかったことは多かった。たった一戦。それでも戦った経験があるとないとでは、まったく違う。この経験をもとに、魔法の改良も必要だろう。

 帰ったらそこら辺も考えないと、なんて思っていたら。

「では耳を集めた後、次のに向かうぞ」

「「「え?」」」

 僕たちの考えは同じだっただろう。一度戦ったし、初日だし、もう帰ると思ったのだ。

 でも父さんはまだやる気満々らしい。

「私もグラストも普段はあまり時間が取れず、こんな機会はあまりないからな。丁度いい。できるだけ実戦を体験しておくべきだろう」

 それはそうかもしれないけど、初めての戦いで疲労が著しい。自分でも驚くくらいに、もう帰りたかった。しかし父さんの顔を見て、僕たちは諦める。絶対に何を言っても、続けるつもりだ。

「さあ、行くぞ! さっき、他の足跡も見つけておいたからな!」

 父さんが意気揚々と先に進む中、僕たちの肩をグラストさんが叩く。

「諦めな。ああなったら、無駄だからな……」

 グラストさんは父さんの長年の友人だ。家族である僕たち以上に父さんのことはよく知っている。過去に色々あったんだろうな。

 僕たちはていかんのままに乾いた笑いを浮かべ、嘆息すると、父さんの後に続いた。


   ●○●○


 荒い息、肌に絡みつく汗の感触。鼓動は激しく、肺は悲鳴を上げている。身体中に疲労が蓄積している中、僕は強引に魔法を放った。

「ガルゥゥァ──ッ!」

 コボルトが雷撃に倒れる。どうやら最後の一匹だったようだ。

 僕は片膝を地面についた。ああ、だめだ。もう魔力切れ寸前。これ以上使うと、動けなくなる。もう精神的に限界が近く、何もしたくないという衝動に駆られていた。

「……ふむ、全滅したらしいな」

「さっきので終わりかよ。手ごたえねぇな」

 父さんとグラストさんはまだ足りない、とばかりにため息を漏らしている。

 しかし僕とマリー、ローズはギリギリだ。

「はぁはぁ……お、終わったの?」

「さ、さすがに、お、終わりですわよね?」

「み、みたい、だね」

 三人で常に連携して戦った。うんの呼吸という感じで戦うことができたと思うけど、僕たちにとっては初戦。かなりおぼつかなかったし、課題は無数にある。それでもかなりの成果を出せたと思う。

 コボルトたちはさっきので全滅かな。集落の中には魔物の気配はない、と思う。

「……もう、無理……疲れたぁ」

「僕もだよ……さすがに、限界」

「う、腕がもう上がりませんわよ……」

 僕たちは地面に座り込んだ。僕たちも毎日のように鍛えているけれどまったく足りなかったらしい。父さんとグラストさんは息切れもしていないし、余力が十分にあるようだった。あの二人に追いつくのは相当に大変そうだ。

「でも、あたしたちも戦えるってわかったわね」

「うん。それだけでも今日の戦いには価値があったよ」

「……ですが、もっと強くならないといけませんわね。色々と足りない部分はわかりましたし」

 やはり練習と実戦は違う。実戦の方が、気づけることは多い。

「さて、私たちはコボルトの耳と戦利品を集めよう。おまえたちは休んでいなさい」

 父さんたちは、集落内にあるコボルトたちが奪った盗品なりを物色するようだ。

 コボルトにはそれなりに創作能力があるが、人間ほどではない。価値があるものを所持しているとしたら盗品か、鉱物などの資源になるだろう。

 敵の本拠地を叩いた場合、戦闘後、戦利品を集めることが基本だ。ということで父さんたちは集落内を探索するらしい。

 僕たちは動く元気は残っていないので、休憩だ。

 しばらく休んでいると呼吸が整う。けれどだるさはまったく治らない。明日は動けないかもしれないな、これは。

 僕は不意に顔を上げる。きっかけはなかった。なんとなく僕は一つの天幕に視線を奪われた。立ち上がり、ゆっくりとそちらへ移動してしまう。

「シオン、どうしたの?」

「わからないけど、何か……ありそうな」

 根拠はない。けど、何かが僕に語りかける。こっちにおいで、と。

 僕はふらふらと天幕に向かうと、中へ入った。そこには骨と木で作られた飾りがいくつも置かれていた。ややごうしゃに見える内装で、もしかしたらそれなりに高い地位のコボルトが棲んでいたのかもしれない。

 後からついてきたマリーとローズと共に薄暗い内部へ入る。

 ふと奥の方に光が見えた。僕は導かれるようにそちらへ向かった。

「シ、シオン、あまり奥に行くのはよろしくないのではなくて……?」

「く、暗いし危ないわよ!」

 魔物はいないとは思うけど、ローズもマリーも少しおびえていた。暗いところが怖いのだろうか。マリーはなんとなくわかるけど、ローズにしては珍しい。もしかしてホラーが苦手なのかな。

 僕の腕につかまる二人と共に、恐る恐る進み始めた。

 僕は光のすぐそばへ移動する。そしてその正体に気づくと息を飲んだ。

 鳥かごに入った人型の生物。体中を発光させており、悲しそうにうつむいている。座り込んでおり、背中に生えている羽がしなだれているように見えた。

 それは人、女の子の形をしている。しかし目や髪の色が人のそれではなかった。一度、遠目だけど見たことがある。彼女は『妖精』だ。

 彼女は僕に気づくと、恐怖に身を震わせた。コボルトたちに捕まっていたのか?

 不意に近づくと、僕たちから離れるように妖精は反対側へ移動した。

 その時、ふと気づいた。彼女が放つ光は、鳥かごを照らしてはいなかったのだ。薄暗く、なんとか周囲は見えるが、彼女の光は辺りを照らしていない。つまりそれは魔力の光であると、僕は直感的に理解した。妖精は魔力を帯びている。

 ゴブリンもそうだったし、さっきまで戦っていたコボルトもそうだった。魔物には魔力が備わっていた。まあ、近づくのは危険だから、魔力反応があるのかまでは試していないけど。

 それよりも、今は妖精だ。

「これは妖精ですわね。どうしてこんなところに」

「妖精? 魔物とは違うの?」

「わたくしもよくは知りませんの……妖精に関してはわかっていることは少ないと聞きますし」

「見た感じ、魔物みたいに危険じゃないと思うけど」

 明らかに僕たちを恐れているし、むしろ弱い生物のようだ。

 しかし、よほど怖い目にあったのだろう。相当に衰弱しているし、身体も汚れている。怪我はしてないみたいだけど。

「それでどうするの? その……妖精のお店があるってことは、多分、売れるんだろうけど」

「あまり気が進まないなぁ」

「右に同じですわ」

 妖精屋に興味を持っていた僕が言うのもなんだけど、生き物を売るのは抵抗がある。

 特に相手は人型だし。偽善というか、気分的なものというか。それにかわいそうだし。

「逃がしてあげようか」

「シオンに賛成ですわ」

「あたしも異議はないわよ」

 二人の賛同を得ると、僕は鳥かごに近づいた。

 すると妖精はガタガタと震えながら、口元に小さな魔力の光を生み出した。

 なんだ、あれ。いくつも生まれては消えていく。それが断続的に続き、やがて見えなくなった。

 僕は疑問を持ちつつも、おりを開ける。鍵も必要なく、すぐに開けることができた。コボルトにはそういう知識や器用さはないんだろうか。だったらなんでこの妖精は逃げなかったんだ?

 鳥かごを開くと、僕たちは少し離れる。

 すると妖精がこちらを見て、目をきょろきょろと泳がせ始めた。じーっと僕を見ていたが、恐る恐る立ち上がる。そのまま鳥かごの入り口まで行き、警戒しつつも外に出た。

 そして次の瞬間、妖精は羽を動かし、飛び上がる。

「あ、やっぱり飛ぶんだ」

「……綺麗」

「妖精を間近で見たのは初めてですわ」

 無数の光の粒子がゆっくりと地面に落ちる。幻想的で目を奪われた。

 妖精は自由になったことが嬉しかったのか、僕たちの頭上で飛び回っていたが、やがて空中で静止する。そして口元に魔力の光を生み出すと飛び去ってしまった。

 このまま無事に帰れるといいけど。

「思ったより元気でよかったわね」

「そうだね。それに妖精が見られたのもよかったよ」

 妖精がどういう存在なのか、という好奇心はあった。

 しかし最近は魔法の研究、発見や、グラストさんの手伝いやらがあり、そこまでは気が回らなかった。妖精、魔物。その二つのことを、僕はもっと知るべきだろう。

 そんなことを考えていると、ローズが小さく悲鳴を上げた。とっに振り返るとマリーにローズが支えられていた。

「だ、大丈夫? 怪我でもしてたの?」

「い、いえ、少しふらついただけですわ。思ったよりも疲弊しているようですわね……」

「あたしもかなり限界近いわ……足なんてもうガクガクだもの」

 確かに僕も相当に疲労している。三人とも鍛えているとはいえ、まだ子供だ。初体験ばかりで余計に疲れているし。

 とにかく今日はもう引き上げよう。父さんも満足しただろうし。

 僕は考えることさえおっくうになり、二人と共に父さんたちのところへ戻った。

 そして僕たちは大量のコボルトの耳を手に、イストリアに帰還し、ギルドで達成報告をすると我が家へと帰った。

 報酬や達成条件に関してはこんな感じだった。


 ○依頼内容 :コボルト討伐

  達成条件 :五体以上討伐

  報酬額  :五体につき、四千リルム

  実討伐数 :百四十体

  総合報酬額:十一万二千リルム


   ●○●○


 僕たちはグラストさんとローズと別れ、家まで戻ってきた。時刻は夕方。もうすぐ夜のとばりが下りるだろう。

 僕は自分の身体を見下ろした。身体中汚れているし、傷跡もある。深い傷はないけど、り傷や、切り傷、打撲跡はいくつもあった。

 僕もマリーも同じだ。早く身体を洗いたいところだ。

 父さんは馬をきゅうしゃに連れていくと、すぐに戻ってきた。僕たちは玄関を開けて中へ入ろうとした。

 不意に振り向くと、父さんは足を止めている。

「どうしたの? 中に入らないの?」

「お父様? 顔色が優れないみたいだけど」

「い、いい、いや、な、なんでもないぞ」

 明らかになんでもある。むしろ何が起こっても不思議がないくらいの動揺だった。どうしたんだろうか。父さんがこんな顔をするなんて初めてのことだ。いつも厳として頼もしいのに、今の姿は怯えた小動物を連想させた。

 僕とマリーは顔を見合わせて、家に入る。

「ただいま」

「お母様、今、戻ったわ」

 玄関から居間へ向かうと、台所で母さんは夕食の準備をしているようだった。

 母さんが僕たちの帰宅に気づき、とてとてと駆け寄ってきた。

「あらあら、お帰りなさ──」

 母さんの表情が固まった。

 どうしたのだろうか。いつも笑顔を見せてくれるけど、今の笑顔は明らかにおかしい。柔らかさがなく、少し怖さがあった。

 僕は戸惑いながら視線でマリーに疑問を投げかける。しかしマリーも同じ心境らしく、首を振るだけだった。

 僕たちの背後には父さんの気配がする。思わず振り返ると、父さんは目を泳がせていた。

 母さんの低い声音が響いた。

「あなた、ちょっと」

 母さんは笑顔のままだった。しかし、明らかに怒っている。

 怖い。この怖さは初体験だった。僕とマリーは不穏な空気を感じ取り、しゅくした。

 父さんは僕たち以上に、明らかに恐怖を感じており、母さんに言われるままに前に進み出る。そして、二人は奥の客間へと消えていった。

 一体何が、と声に出そうとした時、

「ぎゃああああああ! や、やめろ! 落ち着け、エマ!」

 父さんの悲鳴が響く。

 同時にガンガンという打音が鼓膜に届いた。振動が室内に伝わり、また父さんの声が聞こえた。

「わ、私が悪かった! だから、しょくだいだけは、燭台の角だけは、勘弁してくれ! や、やめろ! 落ち着け! まだ間に合う! ぎゃああああああああああああ!」

 その後、数分、絶叫は絶え間なく響いた。そして叫び声は聞こえなくなる。

 静寂。ホラーよろしく突然の無音に、鼓膜がキーンと鳴り始める。恐ろしさのあまり、僕とマリーは無言で二人が入っていった部屋の扉を見ていた。

 次の瞬間、ギィと扉が開く。そこには笑顔の母さんが立っていた。

 背後に見えたものに僕とマリーは絶句する。父さんが倒れていたのだ。ピクピクと痙攣しているため生きていることは間違いない。しかし、無事とは言えなかった。

 母さんが後ろ手で扉を閉めると、僕とマリーは身体を硬直させた。

「ぼ、僕たちはやりすぎたんだ。か、母さんが寛大だからって、み、身勝手にやりすぎた……!」

「こ、こ、ここ、殺されちゃうの……あたしたち……!?」

 んなわけない。しかし、今の僕にはそんな冷静なことを考える余裕はなかった。普段怒らない人がいきなり怒ると滅茶苦茶怖いのだ。

「そこに座りなさい」

 柔和な笑みを浮かべたままなのに、目は笑っていない。

 落ち着いた声音なのに、僕たちはおぞを抱き、言われるままに椅子に座った。それはもう機敏に。

 母さんは正面に座ると、小さく嘆息した。

「事情は聞いたわ。あなたたち、魔物討伐に出かけたのね?」

「……う、うん」

 母さんは再び嘆息を漏らす。

 いつもはこんな反応はしない。困ったように笑うか、ニコニコ笑って大丈夫と言うくらい。

 父さんが何かを言うことはあるけど、母さんが何かを言うことはほとんどなかった。もちろんあまりに勝手なことをすれば怒られる。でも母さんの怒る時は「ダメよぉ」とか「そんなことしちゃいけないでしょ、めっ!」みたいな優しい感じだ。

 だから今の母さんの反応に僕たちは戸惑い、そして同時にとても悪いことをしてしまったという罪悪感が胸を占めていた。

「あなたたちを責めようとしているわけじゃないのよ。だから、そんなに怖がらなくていいわよぉ」

 苦笑しながら母さんはいつもの優しい空気を漂わせた。

 その一言で、僕とマリーは内心で安堵のため息を漏らす。

 怒ってはいないようだ。少なくとも僕たちには。

「元々、お父さんから話は聞いていたわ。魔物の討伐かどうかは知らなかったけれど、何か危ないことをしようとしているかもってね。それでお父さんが様子を見に行ったわけ。それはいいの。魔物討伐も、あなたたちくらいの年齢の子供が行くことも少なくない。お父さんが一緒だったし」

「それじゃ、あの、どうして?」

 お父さんにあんなことをしたんですかね? 怖いんですが。なんて言えずに、僕は言葉を濁した。

「身体中、傷やあざだらけになって、疲れきって帰ってくるなんて、普通のことじゃないのよ。マリーちゃんが強くなりたいことも、シオンちゃんが魔法の研究をしたいことも知ってるわ。そのために魔物と戦う必要があったのかもしれない。でもね、あなたたちはまだ子供なの。優秀で大人びて分別があっても、子供なのよ。だから大人が、親がちゃんと見てあげないといけない」

 僕とマリーは互いの身体を改めて確認した。確かに一日中外で遊んで、泥だらけで帰ってきた、という状態ではない。服はボロボロで、身体は傷や打撲の跡だらけ。顔には疲労の色が濃い。

 これが子供にとって当たり前だとは決して思えまい。

「あの人、お父さんは夢中になると、周りが見えなくなるところがあるから。多分、この機会にできるだけ魔物と戦う経験をさせようとしたんでしょう?」

 図星だ。グラストさんも諦めたように同じことを言っていた。

 僕も人のことは言えないけれど。

「魔物討伐は今回が初めてのことなのに無茶をさせた。そこにお母さんは怒ったの。お父さんは二人共十分に戦えると思ったんでしょう。けれどね、さっきも言った通り、二人はまだ子供よ。きちんと線引きはしないといけないの。勘違いしないでね。お母さんはね、二人がしたいことをできるだけ応援したいと思ってるの。どうしても駄目なことはあるわ。けれど、普通じゃないからって否定はしない。あなたたちの人生はあなたたちのものだもの。親であっても強制はすべきじゃない」

 母さんは一拍置いて、僕とマリーをゆっくりと見た。

やみに人を傷つけたり、おとしめたりしないのであれば、好きにしていいのよ。子供だからって、遠慮しなくてもいい。魔法だって剣術だって、どんどん学んでもいい。お母さんのお願いは一つだけ。自分を大切にしてほしいってこと。何があっても死んじゃうようなことはしちゃだめ。絶対に自分の命だけは大事にしてほしいの」

 母さんは僕たちの横まで移動してきて、抱きしめた。

「あなたたちが生きていてくれるのなら、お母さんは幸せなの。あなたたちが幸せならもっと幸せ。だから好きに生きて」

 そうか。母さんは心配だったんだ。僕たちに万が一のことがあったらどうしようって、思ったんだろう。そして帰ってきた僕たちを見て、危険な目にあったことを感じ取った。

「母さん……ごめんなさい、心配かけて」

「お母様……ごめんなさい、黙って出かけて」

「ふふ、いいの。親の言うことを何でもかんでも理解して守ってくれると、親としては助かるわ。でもね、二人には二人の考えがある。それはわたしやお父さんの考えとは違うかもしれない。でも間違っているわけじゃないの。だから次はちゃんと話してほしいかしら」

「うん、次からは話すようにするよ」

「あ、あたしも! お母様に話すようにする」

「ありがとう、二人とも。でも遠慮はしないでね。間違っている時は間違っていると言うけど、あなたたちにとって大事なことなら、協力もできるんだから。これだけは忘れないで。わたしもお父さんもあなたたちの味方。何があっても、どんな時でも、ずっと二人の味方なんだからね」

 母さんの体温が伝わると、落ち着く。

 さっきまで感じていた疲労感も、うそのようになくなっていく。こんなに温かい気持ちになるなんて。日本にいた時は、いつも心が落ち着かなかったのに。

 僕はこっちに来てよかったと、改めて思った。

「さっ! お話は終わりよ。お食事前にお風呂に入りましょうか。実は村人さんたちに頼んで、お湯をもう張っておいたの」

「うん、入る!」

 マリーが嬉しそうに立ち上がった。

 この世界にもお風呂はある。しかし一般的ではなく、また水道もないため、水を運んでこないといけない。そのため基本的に貴族のような裕福な層しか利用できない。

 我が家には使用人がいないため、もくよくのためにお湯を用意するのは村の人たちだ。もちろんそのための賃金は毎回払う。数日に一回、お風呂に入るようにしているのだ。

 普通の家に生まれていたらこんなぜいたくはできなかっただろう。

 ちなみに僕は物心ついてから、一人か父さんと入っている。理由なんてわかるよね?

「今日はシオンちゃんも一緒に入りましょう?」

 母さんが柔和な笑みを浮かべて言った。そのあまりに優しい顔に、僕は首を横に振れない。

 僕は母さんとお風呂に入ったことはほとんどない。赤ん坊の時は、一緒に入るわけじゃないし。

 それに色々とまずいことがある。僕は二人と血がつながっていない。もちろん家族だし、恋愛対象として見たことはない。でもそれでもやはり実の母や姉という風には見られないわけで。

 はっきり言って裸を見ることには抵抗がある。だから避けていたんだけど。うう、どうしよう、ものすごく見つめられてる。

「え、えーと僕は」

 断ろうとすると、母さんは悲しそうな顔をした。

「シオン、入りましょうよ。いつも別々だし、今日くらいはいいでしょう?」

「い、いや、でも」

「でもも何もないの! 入るわよ! もう身体中、ベトベトだもの。ぱっぱと入っちゃいましょう」

 そんな簡単に言わないでほしい。しかしマリーの言う通りでもある。早いところ汚れを落としてしまいたい。それに母さんが僕に何か頼むことはあまりない。普段、口を挟んでこない分、こういう時に断りにくい。

「…………わかったよ」

「やったわ。うふふ、じゃあ、行きましょう」

 僕の返答を聞き、母さんは嬉しそうに笑った。

 ああ、もう、そんな顔されたらもう何も言えないじゃないか。

 僕とマリーは母さんと手を繋ぎ、浴室へ向かう。母さんだけでなく、マリーとも入るわけか。彼女はまだ十歳だから、問題ないとは思うけど、母さん同様にやはり抵抗はある。

 姉だからそんなに気にはならない。でもまったく気にならないわけじゃない。肌を露出していると、思わず見てしまうし。とにかく平静を保つしかない。大丈夫、僕は冷静だ。

 廊下奥の脱衣室に入ると、僕は急いで服を脱ぎ捨てる。手拭いで恥部を隠すと、すぐに浴室に入った。先手必勝だ。後手は命取り。

「あらあら、男の子は早いわね」

「もう、シオン待ってよぉ」

 待たない。待ったら危険なのだ。浴槽は丁度三人が入れるくらいの広さだ。入り方は、日本と同じように入る前に身体の汚れを流して、湯船につかるだけ。

 ちなみにせっけんらしきものはある。意外だったけど、石鹸自体は地球でも古くからあるし、おかしなことでもないのかも。ただ香りは弱めだけど。

 急いでお湯で汚れを流して、石鹸でゴシゴシした。しかし汚れはかなり頑固で、なかなか落ちないし、身体中が染みるしで、最悪だった。

「もう! 待ってってばぁ」

「うふふ、滑るから気をつけてねぇ」

 ああ、なんてこった。二人とも入ってきてしまった。しかし僕は必死で見ないようにして、身体を洗う。気配が隣と背後に来た。くっ、なんて素早い反応。まるでコボルトのようだ。

「お母さんが洗ってあげるわよぉ」

 後ろに来たのは母さんのようだ。

 母さんは僕の了承を得ずに、頭を洗い始める。隣ではマリーが、身体を洗っているようだった。

「あうっ! し、染みるわね……」

「でも、ちゃんと洗わないといけないわよぉ」

「わ、わかってるもん」

 普段は野太い声しか聞こえない浴室なのに。

 なんということか。女性の声が聞こえるだけで、全く違う空間のようだ。

 いやいや、何を考えているんだ、僕は。二人は母親と姉だ。

 家族に欲情するとかないから。ないからね!

 何か柔らかいものが頭に当たった。途端に僕の顔が熱を帯びる。

「も、ももう、いいから!」

 僕は咄嗟に頭から水をかぶって泡を落とすと湯船に入った。

「んぅもうっ! そんなに急がなくてもいいのにぃ」

 そりゃ急ぎますよ。無防備すぎる。家族しかいないんだから当たり前なんだけど。でも僕にとっては簡単なことではない。例えるなら大人になって年下の母親ができてしまった時のような心境だ。あるいは、母親の連れ子が女の子だった場合。

 実年齢は違うし、マリーは僕の精神年齢を考えるとかなり年下だけど。ああ、もう何がなんだかわからなくなった。とにかくこの時間をやり過ごすんだ。

 少し湯船につかって、すぐに出る。これでいこう。

 母さんとマリーが身体を洗っている間、僕は視線を逸らし続けた。見てはいけない。見たらやられるぞ。僕は必死に目を細め、明後日あさっての方向を見ていた。

 数分つかっていると、二人は身体を洗い終えたようだった。もう出よう。カラスの行水で結構。早くこの天国という地獄から逃げるのだ。

「ぼ、僕はもう出ようかな」

 慌てて浴槽から出ようとした。

「あら、だめよぉ。きちんと温まらないと。それにせっかく一緒に入れるのに……」

 ああ、母さんがまた悲しそうな顔をしている。

 確かに、これでは一緒に入ったとは言えないだろう。せめて少しくらいは一緒に湯船につからないと、母さんは納得してくれそうにない。僕は諦観のままに再び浴槽に戻る。

「じゃ、じゃあもう少しだけ」

「ふふ、ありがとう、シオンちゃん。さあ、入りましょう、マリーちゃん」

「うん。えへへ、三人で入るの初めてだし、なんか楽しいかも」

 そんな嬉しそうにしないでよ。余計に出られなくなるじゃないか。

 僕は二人から目を逸らして、脳内で数を数え続けた。あと数分入っていればいいだろう。それまで心を無に、そして視線は二人から逸らすのだ。それでいこう。

 そんなことを考えていると、母さんに後ろから抱きしめられた。またしても後頭部に凶器的な柔らかさの何かが当たる。当ててんの? 当ててんの、これ。

 一気に身体中の血液が沸騰してしまう。これはまずい。予想以上にまずい。

「お母様にぎゅってされるの好き!」

「あらあら、よかったわぁ。わたしも二人をぎゅっとするの好きよぉ」

 僕もやぶさかではない。でも、うん! 好き! とは言えません。困るのだ。なんか自分の感情がよくわからない。

 母さんをそういう対象として見ているわけじゃない。でも完全に母親という風にも見ていないというか。言葉で説明するのはとても難しい。

 頭に当たる弾力が、僕の思考を鈍らせる。耐えるのだ。もう少しだけ、耐えればきっとどうにかなる。

 僕が必死に耐えている間、普通の会話から、ちょっとしたためになる話を母さんはしてくれた。そういえば、じっくり母さんと話す機会はあまりなかったかも。だから、僕は浴槽を出る機会を失ってしまった。

 母さんの話は楽しかったけど、頭に当たる感触が僕の思考を邪魔する。もう、ダメだ。限界。これ以上は限界。色んな意味で。そろそろ出よう。

「あたしそろそろ出るわね」

「あらそう? 身体を冷やさないようにすぐに拭いてね」

「うん。じゃあシオン、お母様、後でね」

 ああ、なんてことだ。マリーが先に出てしまった。今出たら、一緒に体を拭くことになる。しばらく時間を置かないといけない。

 僕は去っていくマリーの足音だけを聞き、視線は逸らし続けた。しかし母さんは僕の身体を離さない。この優しい拘束から逃れるにはまだ時間がかかりそうだ。

 どうしたもんかと考えていると、頭上からくすくすという笑い声が聞こえた。

「シオンちゃん、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」

「べ、別に恥ずかしがってなんて……」

 母さんにはお見通しのようだ。

 本音がバレてしまい、余計に顔の温度が上がった。母さんは腕の力を少し強める。僕の背中には母さんの胸が押し付けられる。

 慌てて、母さんを見上げると僕は何も言えなくなってしまった。母さんは寂しげに笑っていた。

「ごめんね、シオンちゃん。ごめんね」

 なぜ謝っているのか。どうしてそんな顔をしているのか。僕にはわからず、そして理由を聞く勇気もなかった。

 ただ、母さんの腕から伝わる何かの感情を受け止めることしかできない。僕は母さんの腕に触れ、少しでもその感情を慰めようとした。

 それからは静寂な空間が広がる。母さんの鼓動や体温や弾力が伝わる中、僕はただただろうばいするだけだった。

 しばらくして。

「ふふ、ごめんなさい。そろそろお母さんも出ようかしら。シオンちゃんは、どうするの?」

「僕はもう少し入ってるよ」

 母さんの方を見られないし。一緒に出られないし。

「そう。じゃあ、また後でね」

「うん。後で」

 母さんの姿を見ないように、僕は目を伏せた。

 母さんが浴室から出ていったのを見ると、ようやく肩の力を抜いた。正直、そろそろ出たいのに、もう少し待たないといけない。

 けれどそんなにつらくはなかった。優しい家族と一緒に過ごせているという安堵感と幸福感に浸っていたからだ。

 声を大にして言える。僕は今、とても幸せだと。

 家族との時間もそうだけど、何よりもこの世界には魔法がある。僕が見つけた。僕が研究して開発した、魔法が存在するのだ。

 転生して、魔法を生み出した。フレア、ボルト、アクア、そしてまだ見ぬ魔法。前世とは違い、希望や期待、幸福に満ちた日々を過ごせていることに、僕は心の中で感謝した。

 でも足りない。もっと、もっと色々な魔法を使いたいんだ。そのためにはもっと色々なことを知って、研究しないといけない。それがどこか不安でもあり、楽しみでもあった。

 さて次はどんな魔法を開発しよう。

 僕はそんなことを考えながら、必死でのぼせないように努めるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る