三
お葉が尼寺に来てから、三ヶ月が経とうとしていた。
庵主は穏やかな尼僧である。話し方も、所作も穏やかで、尼寺ではゆったりとした時間が流れていた。
主にお葉は、炊事や洗濯などの雑用をこなしている。庵主は毎朝、仏にお経を唱えていて、お葉も後ろに座し、静かに平穏を祈っていたのだが、お葉はこの時間が好きであった。
はじめこそ庵主は何も
「今度こそ、貴女に幸福が訪れますように」
庵主はお葉のために祈ってくれる。
好きな人に裏切られ、飯盛女郎になった過去。やっと、と思ったときに辱められた
千種との短かった幸福、半次との再会は、まるで夢のような出来事で、でもそれも、お葉の大切な思い出だ。
庵主と平穏に暮らす今こそが、最も幸福な時なのかもしれない。
だから、過分な幸福を望んではいけないのだと、お葉は自身に言い聞かせる。
それはふとした瞬間、お葉は千種の姿を思い出してしまうのだった。
もしも、千種の元に帰っていたら、彼は辱められた自分を受け入れただろうか。という思いもあれば、どうして来てくれなかったのかという、冷たい言葉を言ってしまいそうで、彼がどう思っていたか、真実を知るのが怖かった。
思い出のままで、これ以上、傷つきたくない。千種のことを信じられる、この心のままでいたかった。
その日、庵主はお葉に留守を任せ、諸用を済ませるために出かけていた。
留守を預かるくらいに、お葉は庵主から信用されていたのだった。
庵主が寺を出たときも小雨が降っていたが、やがて傘を差しても濡れてしまうほどの大雨となる。地面や屋根を打ち付ける雨の音は、一人で過ごすお葉の耳に、嫌になるくらいに響いていた。
寺に庭にある桜が咲き始めたのに、これではすべて、流されてしまいそうだ。
すでに夜更け。庵主は別の所に泊まり、帰りは明日の朝になると聞いている。
お葉が寝静まろうと布団を敷き終わったときだった。
どんどんどん、と何度も、戸口を叩く音が聞こえる。この荒々しさから、庵主ではないと考える。尋常ではない様子に、もしや庵主の身に何かがあったのではないかと、お葉は急いで戸口に駆け寄った。
「どなた様ですか?」
「俺だ。千種だ」
「……!」
呼吸をするのも忘れるほどの衝撃だった。あんなに気にしていた雨音は、お葉の耳には届かなくなる。
「お葉か」
「…………」
お葉は心張り棒を取らなかった。警戒、ではなく、千種の姿を見るのが怖かった。千種の感情が、わからないからだ。千種も無理矢理に、中に入ろうとはしなかった。
「俺は知らなかった。知っていたら、どこまでも助けに行っていた。殺されたって、どうなってもよかった」
千種は雨に打たれながら、お葉の声を待った。だが、お葉の声はしばらく待っても、返ってこなかった。
「……お葉が幸せなら、それでいい。もう二度と、お葉の前には現れない」
お葉が辱められたのは、自分の
お葉を探し出すのには時間がかかった。
何しろ街道でお葉を見かけた人物がいなかったのだ。
やっとのことで、布田五ヶ宿の
お葉はきっと、助けに来てくれなかった自分を恨んでいる。知らなかったと言ったところで、言い訳にしかならなかった。だから千種は、気持ちだけを伝えて、お葉から離れようとした。
足取り重く、寺に背を向けて去って行く。
がらりと、戸口の開く音が聞こえた。
「千種さん……!」
お葉は傘も差さずに、千種の元に駆けだした。千種は振り向いて、お葉を抱きしめる。お葉も千種に抱きつく。
「私……」
「お葉、すまねぇ……」
二人はすべての想いを言葉にはしなかったが、瞬時に想いは伝わっていた。
半次は寺の前で足を止めた。
商用の帰り、わざと遠回りをして、寺の前を通り過ぎようとする。しかし彼は通り過ぎることなく、中に入ろうとした。
「お葉、いるか……?」
声をかけても返事がない。豪雨の所為で、聞こえないのだろうか。
半次は心張り棒がなかった戸口を開ける。しばらく雨宿りをさせてくれ、という口実はできていた。
お葉が尼寺に来てから一度も、半次は彼女に会いに行っていない。お葉の心を乱すようなことをするなと、重蔵に止められていたのだ。だが、我慢できなくなった。
今日は
半次は深呼吸して、玄関に立った。
戸口を閉めれば、少しだけ雨の音が遠ざかる。そしてより、寺の中の音が聞こえてしまった。
「……!」
半次は息を呑んだ。
部屋の中から、半次の知っている
半次は足音を忍ばせて、嬌声を
その部屋の障子戸は、ちょうど
「…………」
あの
半次は気づかれぬように、急いで寺を去った。
「俺はお尋ね者になった」
お葉が
お葉は隣で横になる半次の
「一緒に、遠くへ逃げましょう」
「ああ。そこでもう一度、やり直させてくれ」
半次はお葉の手に、自分の手を重ねた。
お葉と千種は気持ちを確かめ合った。想いは通じ合ったのに、簡単には上手くいかない。
「ごめんなさい……」
「どうして謝る?」
「思い出せないの。千種さんと会ったときのこと……」
お葉はずっと、初めて千種と会ったときのことを、思い出そうとしていた。しかし肌を重ねても、思い出すことはなかった。
「過去なんざどうでもいい。これから先のことだけ覚えてくれ」
千種の優しさは、とうとう変わらなかった。お葉も素直に、彼に甘えることができる。
翌朝二人は、寺を後にした。
その頃、半次は……
「お葉って下女を人質にして逃げているのを、確かに見ました」
手配されている千種が尼寺に入ったことを、代官所の役人に知らせていた。嘘交じりの報告を、役人たちは
お葉と千種は、庵主が寺に戻る前に姿を消した。
早く布田五ヶ宿を抜けようと、これからのことを話す余裕もないほどの急ぎ旅であったが、間に合わなかった。
役人たちはすでに街道を塞ぎ、千種が通るのを待っていたのである。
「早く女を離して、
役人の目には、千種はお葉を人質にしているようにしか見えていない。
二人は囲まれてしまい、八方塞がりとなる。
じりじりとにじりよる役人たち、そのうちの一人が、背後から千種めがけて刀を振り下ろそうとした。
「千種さん……!」
千種が振り向くと、お葉が背中を斬られているのが見えた。伸ばした手が、お葉の指先を
まさかお葉が出てくるとは思わなかったと、役人たちは
千種はその隙を突いて、お葉を素早く抱え上げ、役人たちの間を抜けた。
役人たちは必死に追ってくる。千種は街道沿いではなく、街道の横に生い茂る森の中を入っていった。千種の身体には、赤々とした生温かいものがこびり付いている。
息が切れる前に、小さな山小屋を見つけて、千種は中に入った。
木こりが使っているのだろうか、斧やら薪が置かれている。中には誰もいなかった。
役人たちは、小屋の周りを取り囲む。千種に逃げ場はなかった。
「お葉……!」
ほとんど虫の息だった。すでに斬られたときに、助からないことはわかっていた。
「死ぬんじゃねぇ……」
千種はお葉の手を握った。
彼は夢想した。好いた女と、共白髪になるまで一緒に暮らす。つましくても構わない。
お葉も好いてくれた。ただこの幸福を続けたかっただけなのに……
「おもい……だした」
蚊の鳴くような声を振り絞って、お葉が言った。
「さみ、しくて……ないたら、にぎってくれた」
「お葉……」
もう思い出せないと、
初めて会ったとき、まだ半次への想いを捨てきれなかったお葉は、
お葉が最期に思い出した記憶は、千種も覚えている。
生気を失ったお葉の目を閉じて、床に横たわらせた。
「俺も、すぐに行く」
小屋にあった、木を細工するための小刀を手にした千種は、
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