単発小説

正徳タコ

スプリング

 先輩が空を飛んだ。







「きみ、ちょっとそれ貸して」


 すごく美人なのに見るからにノーメイクで、髪も変な色に染めていた。彼女は同じ大学の先輩らしい。俺がもう二年通う大学の方角をただ指さしていた。

 俺はただそのカメラがちょっと高そうに見えたからだろうと思って、ネックホルダーを首から外して手渡した。


「何撮ってたの?」


 傲慢ごうまんな態度で、カメラを無造作にいじくり回す。


「橋から見える景色を……。川を正面からとりたくって」


 真面目に返答したのに彼女は生返事だけをしてカメラの窓を覗いた。


「あはは、面白い。思ったより『カメラ』だ」

「そりゃカメラなので……」

「ねえ、これって大切?」


 彼女は川を正面から覗き込む。欄干らんかんから身を乗り出してそれなりのフォームでシャッターに手を掛けた。


「これ、ってカメラの事ですか? それなりに大切です。初めてバイト代で買ったやつなんで」


 彼女の猫のような口元がニヤリと歪んだ。


「そっかぁ」


 彼女は覗き込むのをやめて、それから大きくカメラを振りかぶる。


「えっ」


 気づけばお気に入りのカメラは川に飛び込んでいた。


「……」


 突然のことに驚きすぎて声が出なかった。

 欄干に手をかけて川を見下ろす。この川はこの辺りでも特に流れが速い。波に飲まれて橋の上から沈んだカメラは見えなかった。


「なんでこんなことするんですか?」


 困惑の表情のまま尋ねると、彼女はまるで正義の上の行動だという風に自信満々と答えてくれた。


「きみをカメラから救うためだよ」


 これが彼女との出会いだった。




 彼女はすごく破天荒はてんこうな人間だった。出会った時にはすでに分かっていたはずだが、会えば会うほどに変わった人間だと思う。

 他人のシャーペンを分解しては、中のばねだけを抜き取ってコレクションをする。電車に乗るのに切符を買えば奪い取って千切ったり、その行動に何の意味があるのかはわからない。みんな得体のしれない彼女に寄りつかなかった。


「あっ」


 彼女は俺に伸ばそうとした手が空ぶったのに声を上げた。


「ダメです」


 そんな俺は避けるのすら面倒で黙っていたら、いつの間にか常に隣にいるようになった。次第にその状況にも慣れて、俺は無意識に対応策を身に着けていた。

 彼女が狙いをつけていたボールペンを取り上げ、さっとペンケースにしまう。ペンケースもかばんの中に放り込んでチャックを締めて背負えば安全だ。もちろん背負う、というより前に抱える。

 俺は一回の彼女の謎な行動について尋ねたりはしてこなかった。

 彼女は諦めて、目の前にある自身のノートのページを一枚破り捨てた。

 そもそもここは二年の講義の教室だ。授業が終わるなり入室してきて、どうしてそこまでマークされているのだろう。


「今日の昼はどうするの?」

「てきとうに学食にでも行きます」

「あ、じゃあわたしも」

「先輩、次はマジックとか言ってフォーク曲げないでくださいね」

「じゃあ、スプーンでやって見せよっか」

「マジックはもういいです」

「なんだつまんないなぁ。そこまで言うなら普通に曲げてやる」


 予定変更だ。今日はコンビニで何か買って敷地内のベンチででも昼食にしよう。

 そう決心するのも気づかないようで、彼女は立ち上がった俺の後ろをついてきた。まるでカルガモの親子だ。

 学食じゃないことに最初は不満を言っていたけれど、結局は納得して新作のコンビニスイーツを堪能していた。もちろん俺の昼食はおにぎりだった。弁当を買えば割り箸を正しくない方向に折られてしまうからだ。


「先輩は……」

「ん~?」

「なんでもないです」

「そうなんだ。じゃあ、付き合っちゃう?」

「……は?」


 どう言った会話の流れだろうか。一瞬脳の回路が途切れてしまう。俺は単純にこの奇妙な行動達の意味を聞こうとしただけなのに。

 しかし彼女は勘違いしているのか、わざと勘違いされているのか知らないが、そんな言葉を返してきた。


「て、もう、付き合ってるみたいなものか」

「いや、嫌ですよ」


 彼女は思い込みの激しい人間だった。必然と付き合っていることにされて、しかしだからと言って大きく関係が変化したわけでもない。

 休日に遭う回数が増えただけで、他は何も変わったりしなかった。恋人同士らしいことも何もなかった。




 彼女が街娼で有名な筋に立っていた、という情報が学内で流れ始めたのはそれからしばらくしてからだった。

 俺は興味本位でその筋を通ることにした。そのうわさを否定したくて、確認しに行ったのかもしれない。


「……」


 付き合い始めたっていうのに、一度も化粧した顔を見せてくれることはなかった。変な色の髪をセットしてくることもなかった。お洒落な服を着てくることなんてもちろんなくて、いつもジーパンにTシャツ。

 そんな彼女が見たこともないくらい身綺麗にして立っていた。うれいの含んだ視線をスマホに向けて、その飾られた顔面がブルーライトに照らされている。


「先輩」


 スマホを持つ手を掴んで呼びかけると、いつもの無邪気な顔を見せて笑う。


「あれ、なんでここに?」

「それはこっちのセリフです。なにやってるんですか」

「う~ん……きみを待ってた。あ、大丈夫、処女しょじょは取ってあるよ」

「何馬鹿なこと言ってるんですか!」


 往来で俺は柄になく叫んでしまった。

 彼女は目を丸くしただけだった。なにも伝わっていない。


「俺がどれだけ心配したと思って……いますぐこんなことやめてください」

「よかった」


 彼女は俺の気も知らないで笑う。

 家まで送ると言えば、


「今日は君の家に行ってみたい」


 なんてそんなこと始めて言われた。


「狭いですけど」

「気にしないよ」


 いつの間には掴んでいたはずの腕は手に変わっていて、初めて恋人つなぎを体験した。指の隙間からも体温を感じて、変な汗をかいて、でも前後の出来事の動揺によるものだってなんとか心を落ち着かせようとした。

 同じ布団で眠るなんてのは久々の事だった。

 狭い一人の用の布団で、気遣って背を向ける俺を後ろから抱き着くように。彼女は腹側まで腕を伸ばして密着してきた。


「……寒いですか?」

「ううん。暑い」

「なら退いてくださいよ」

「……きみは優しいよ。今、この布団を破っても、きっと呆れながらも許してくれるんだよね」

「許しませんよ。これから寝るのに寒いじゃないですか」


 彼女は何も言わなかった。

 ぴったりと背中に額をくっつけて、しばらくすれば規則的な寝息が聞こえて来ていた。

 なかなか寝付けなかった。寝返りも上手く打てなくて体が固まってしまって。

 だから目を覚ました時、仰向けで寝ていたことに驚いた。


「先輩?」


 先輩は布団の中にいなかった。


「トイレですか?」


 トイレにもいなかった。

 一般的な1K。探すところなんてそんなにない。

 机の上に驚くほどの量のばねが置いてあった。きっとシャーペンやボールペンから抜き取ったやつらだ。

 外に出て、いろんなところを探した。

 電話番号も知らなかったから、足だけだ頼りだった。

 急に消えた。それがきっかけで、俺は彼女の存在の大きさに気づかされた。

 大学は休校日だった。行く場所なんて、そう多くない。


「先輩! からかってないで出てきてください」


 絶対いないってわかっていても、木の上なんかもちゃんと見た。

 でも、居なかった。

 最後にたどり着いたのはカメラを投げ捨てられたあの橋の上。

 疲れた足を引きずりながら橋の中央を目指す。

 今日はやけに流れが早かった。

 見覚えのないヒールが一足、乱雑に置かれている。親指の内側部分だけが擦れていた。昨日の格好であれば、こんな靴を履いていてもおかしくない。


「先輩!」


 そのヒールの中にはバネが一つだけ、入っていた。

 橋から身を乗り出す。


 何も、見えなかった。




 彼女は、誰かの大切なものを奪ってきた。

 シャーペンにとってのバネ。食堂にとってのスプーン。俺にとってのカメラ。

 出来心で衝動的なものだと思っていたけれど、思い返しながらリストアップすればそうだとやっと気づいた。

 きっとあの日、綺麗な先輩を迎えに行ったから、彼女は飛んだのだろう。俺にとっての大切なものに、彼女が加わったから。

 彼女の笑顔に似た黄色の花束を抱える。

 橋を渡るとき、妙に慎重になるようになった。橋の中央まで足を進めると、彼女の集めていたバネを花束に滑り込ませる。


「先輩」


 飛んだ時、彼女はどんな気持ちだったのだろう。

 黄色の花でいっぱいの花束を未知の端に置こうとして、手を止めた。あの日、投げられてしまった奪われたカメラをふと思い出す。


「好きです。ずっと好きでした。そしてこれからも」


 黄色の花束を大きく振りかぶる。

 花束は綺麗な軌道を描いて川に落ちた。軽いから沈まない。ぷかぷかと浮いて、波に流される。


「好きです、先輩」


 俺が大好きなカメラを忘れなかったみたいに。

 大切なものをまたあなたに奪われないように。

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