第35話 招かれざる者の来訪

 情けない過去の結婚話を自ら蒸し返すようなことを言ってしまったと、恥ずかしくなる。まぁでも、どうせもう殿下には知られているんだもの。ごまかしたって仕方ないわよね。私はそう開き直った。


「そうですね。たしかに楽しい日々ではなかったですわ。でも今こうしてあの人の元から解放されて、離れて暮らすことができるようになったし、殿下のおかげで耳の手当てまでしていただいて……。もうすっかり過去のことになってしまいました。その上アリューシャ様の教育係という素晴らしいお仕事までいただいて、こうして何の憂いもない日々の暮らしも与えていただいて……。感謝してもしきれません。本当に、ありがとうございます、殿下」


 私がそう言うと、セレオン殿下はやけに真剣な表情になり、私の瞳を捕らえるようにじっと見つめてくる。


「……私の方こそ、感謝しているんだよ、ミラベル嬢。君と出会えてよかったと思っている。……アリューシャも、私も……」

「……っ、」


 で、殿下も……?


(なぜですか、殿下……)


 そんなことを尋ねては、絶対にいけない。一体何を期待しているんだろう、私は。


(き、期待って何?!私は……別に……)


 もう視線を逸らすことができない。セレオン殿下の美しい瞳を見つめ返しながら、大きく高鳴り暴れ出す自分の心臓の音を聞いていた。……夕日が、熱い……。


「……君は本当に、綺麗だ」


 思わず漏れてしまったとでもいうようにポツリと呟いた殿下のその言葉が、私の心の奥に染み渡っていった。




  ◇ ◇ ◇




 まるで夢のような時間を過ごしてから、数日。私は平常心を取り戻そうと苦戦していた。


(何て畏れ多いのかしら、私ったら。一子爵令嬢の身でありながら、不覚にも王太子殿下にときめいてしまうなんて……っ。有り得ない有り得ない。殿下のご厚意を勘違いしてはダメ。セレオン殿下は私のことを不憫に思って、こうして私が新生活を始めるための手助けをしてくださったのだから……!ただそれだけよ。たまたまアリューシャ王女が私のことを気に入ってくださったから、今のこの夢のような日常があるの。王宮で王女殿下の教育係の職につけるなんて、本当に幸運なことなんだから。余計なことは一切考えず、私はただアリューシャ王女のことだけを真面目に考えるんだ。あのお方を立派な王女殿下に育て上げる、その一助となれればそれでいい。うん)


 その日も自分に何度もそんなことを言い聞かせながら、私はアリューシャ王女のお部屋を目指していた。今日は今から外国語のお勉強。専門の先生がお部屋に来られるまで、私と予習をしておく時間だ。


 長い廊下を歩きながらアリューシャ王女のお部屋に向かっていた、その時だった。


(……うわっ……出た……!)


 内心げんなりする。向かいからツンと澄ましかえった表情で堂々と歩いてくるのは、セレオン殿下の婚約者候補のお一人、ダイアナ・ウィリス侯爵令嬢だった。長い赤毛は今日も一分の隙もなく見事にくるくると巻かれている。途端に先日の王妃陛下のお茶会での、彼女の嫌味な態度や言葉が脳裏をよぎる。けれど、大人気ない態度をとるわけにはいかない。相手は侯爵家のご令嬢。そしてセレオン殿下の婚約者候補の方。


「……ごきげんよう、ウィリス侯爵令嬢」


 すれ違いざまに、私は足を止め努めて丁寧に挨拶をした。しかしウィリス侯爵令嬢は足を止めることなく私の前を無言で通り過ぎる。けれどその瞬間、歩く速度を落とし、私の顔をじっくりと睨みつけた。その瞳にはきつい憎悪の感情がこもっており、私は思わず怯んだ。


「……。」


 無言が逆に怖い。すれ違った後もしばらく振り返りながら、ウィリス侯爵令嬢は射殺すような視線で私を見て、そしてそのまま行ってしまった。


「……はぁ……」


 何だかどっと疲れを感じる。まるであの人の目に生気を吸い取られたみたいだ。

 私は若干トボトボとした足取りでアリューシャ王女のお部屋に向かった。


(……今からセレオン殿下とのお茶会なのかしら……)


 王太子殿下の私室の方に向かって歩いていったウィリス侯爵令嬢のことを思いながら、私はそう考えた。……婚約するかもしれないお二人。一体どんなお話をするのだろう。セレオン殿下は、ジュディ・オルブライト公爵令嬢か、ダイアナ・ウィリス侯爵令嬢、どちらかに対して、特別な感情をお持ちなのだろうか……。

 以前婚約者候補の方々のお話をした時、殿下は、まだ婚約すると決まったわけじゃない、あくまでも政治的な面を考慮して、彼女たちが最有力の候補者に挙がっているだけだと仰っていた。……あの時から、何か進展はあるのかしら。


 気にしても仕方ないことが、気になって仕方ない。

 そんな自分の心境の変化に、私は戸惑っていた。




「……そろそろ先生がいらっしゃる時間ですわね」

「えぇ?もう?……はぁ。もっとミラベルさんと一緒にいたかったな」


 アリューシャ王女のお部屋で小一時間ほど予習を済ませた頃、私は時計を見てそう言った。途端にアリューシャ王女が不満げな声を上げる。


「ふふ。また後でお茶をいたしましょうね。先生とのお勉強も、この調子でしっかりと頑張ってくださいませ。アリューシャ様は日々実力を伸ばしておいでなのですから」

「はぁい。頑張ります」


 私の励ましの言葉にアリューシャ王女が素直に返事をした、その時だった。


「失礼いたします。ミラベル様、少しよろしいでしょうか」


 珍しいことに、一人の侍女がわざわざ私を呼びにやって来た。


「はい、今行きます。……ではアリューシャ様、また後で」

「ええ、また後でね、ミラベルさん。美味しいお菓子を用意してもらっておくわ」


 アリューシャ王女と挨拶を交わし、私はお部屋を辞した。外で待っていた侍女は、何やら深刻な表情をしている。私は侍女に近付き尋ねた。


「何事でしょうか」

「はい、それが……、ミラベル様に会わせてほしいと、門の前に男性が来ているそうなのです」


 侍女は声を潜めてそう言った。……男性?


「……確かに私なのですか?その男性が会いたがっているのは」


 思わずそう聞き返したのは、私が王宮にいることを知っている男性など、一人も思い当たらないからだった。私が王宮で勤めはじめたことは、ごく数人の知人にしか伝えていない。学園時代の友人や先生で、皆女性だ。

 侍女は困ったような顔をして小さな声で答えた。


「さようでございます。それが……、ミラベル様の元夫だと。そう言い張っているそうで。とにかくミラベルを呼んでほしいと何度も言うそうなので、ひとまずご報告にまいりました」

「……っ!」


 その言葉に、心臓が痛いほど大きく跳ねた。


(まさか……、ヴィントが、ここに……?)


 じわり、と背中に嫌な汗が浮かび、鼓動が激しくなってきた。一体どうやって分かったのだろう。あの人は私の友人など、誰も知らないはずなのに。


 ともかく、こんな場所で騒ぎを起こされたのではたまったものじゃない。私は慌てて王宮の門を目指した。


 


 


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