第34話 レンズのT値とコーティング

「この前の露出の話の時」部長がいつかの話を思い出すように言った。「ニコさんはレンズの明るさについて、絞りの話しかしなかったよね」

「ええ」

「それは光がレンズを100%透過するという仮定の話で、厳密にはレンズの透過率も考えないといけないんだよ。F値に対して、透過率も考慮してレンズの本当の明るさを表す『T値』っていうのがあるんだ」

「『透過率』ですか」

「なぜレンズが光を屈折させるかは」部長が頷きつつ、話を繋げた。「空気とガラスの光の速さの違い、というのは知ってるよね」

「ええっと、今知りました」

「じゃあ簡単に言うけど」部長は特に驚くとかはなく、優しい調子で話を続けた。「光の速さが違う物質の境目を光が通るとき、波の位相の関係で光は屈折するんだ。水に挿した棒が曲がって見えるのも屈折現象だね」

「そういえばそうですね」

「でも、光も急にスピードが変わると全部そのまま通過するわけじゃなくて、ある程度は反射される。空気とレンズの光学ガラスの間ではだいたい4%ぐらい反射してしまうんだ」

「4%ですか」ぼくはそう応えた。「でも、露出は1割ぐらい変わっても分からないって、あのときニコ先輩が……」

「レンズと空気の境界は表と裏の2面あるんだ。反射率4%のレンズを通過する光は、0.96の2乗が0.92だから92%だよ」

「でもまだ1割も減ってませんよ」

「カメラのレンズは枚数が多いんだ」

「あ……」


「今日僕が持ってきたレンズはこれだ」ぼくがしばし固まっている間に、先輩は肩に下げたD700をどんとパソコン机に置いた。すごい大きいレンズがついている。「『AF-S NIKKOR 28-300mm f/3.5-5.6G ED VR』だよ。卒業アルバムに乗せる学校の日常風景の写真を、今頼まれて撮ってるんだけど、それでどんな場面にも対応できるように親から借りたんだ」

「28mmから300mmまで、それ1本で撮れるんですか!」

「便利だよ。重いけど」

「はー」

「で、このレンズは14群19枚のレンズで構成されている」

「19枚ですか!」

「透過率を考える場合は、14群の方に注目してほしいな。レンズは『貼合せ』と言って、レンズどうしがくっついていて空気との境界がない面もある。そこの反射はほぼ無視できる。とにかく、このレンズは空気との境界が28面ある。0.96を28乗してもらえるかな」

 ぼくはスマホの関数電卓アプリを起動して計算した。

「0.32です……」

「だろう。何も工夫しないとたった3割しか光がセンサーに届かない。2段、とまでは行かないけど、1と2/3段ぐらいは暗くなるかな」

「そんな大変なレンズなんですね」


「おっと」ぼくが感心していると、まだまだと先輩が続けた。「話は終わってないよ。反射率が1%まで減らせたら、透過率はどうなるかな」

「ええと、それは0.99の28乗だから……」ぼくは電卓アプリの数字を修正して計算し直した。「75%ですね」

「そう。実は今のレンズは反射防止コーティングがしてあるから、反射率は1%以下とかが普通なんだ」そう言ってD700を持ち上げると、部長はレンズをぼくに向けた。「ほら、レンズの表面がいろいろな色に見えるだろう? 照明や窓の光の反射をよく見てごらん」

 部長にうながされてぼくはレンズをいろいろな角度から眺めた。大きさの違う反射がいくつも見えるのはレンズがたくさんあるということだろう。そして、それぞれが青や緑、紫や黄色にほんのり色づいていた。

「色が違うのは、コーティングの材質や厚さが違って、反射しやすい色の波長がそれぞれ違うからだね。レンズの1つの面で全部の色を反射させないようにするのは難しいから、全部のレンズでバランスさせて色がおかしくならないようにしてる」

「それでいろいろな色になってるんですね」

「で、コーティングして反射率を減らすと、こんなに構成枚数が多いレンズも、透過率はマイナス1/3段ぐらいで済むわけ。前面に保護フィルターをつけて反射面をさらに2面増やしても、レンズの枚数なんか気にしないで撮影できるんだ。保護フィルターもコーティングで反射率1%以下だしね」

「『コーティング』って、言葉は聞いたことありますけど、そんなにすごい効果があるんですね」

「本当だよ、僕のメガネも、コーティングのおかげでよく見える」

 先輩のメガネを見ると、窓の外の明かりが青緑に映っていた。この色づきがコーティングなのかと思った。

「それに」部長はもう少し話をつづけた。「昔はコーティングがなかったからね。レンズを設計する人はいかにレンズ枚数を減らすか、あるいは貼合せを多くして反射面を減らすか、一生懸命頑張ってたよ。電卓さえない時代にね」

「同じカメラなのに、時代が違うとものすごく違うってことですね」

「カメラを調べていけば」部長がクイッとメガネを上げた。「科学技術がどう進歩してきたかも見えてくるよ」

 話の内容は後で「読み返」せばいいとして(どうやって!)、ニコ先輩もなんだか遠いところにいる気がしたけど、部長は部長で、追いつくのが大変なところにいるみたいだと、ふと思った。

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