第5話

 いつもより起きる時間が早く、俺と素子さんはいそいそと着替えて食堂の厨房へと向かう。万が一ねずみ取りに中身が入っていたら、さっさと捨てるためだ。


「……俺、ねずみ取りとか触ったことがないんですけど……」


 アパート暮らしが長かったとはいえど、ねずみとはてんで縁がなかった俺は、厨房に向かうときもへっぴり腰のままだった。一方言い出しっぺの素子さんは、あまりにも普段通りの態度だった。


「まあ亮太くんは中身が入っているかどうかだけ確認お願いします。不衛生ですから、もし中身が入っていたらさっさと処分してから、その場を滅菌しないといけませんから」

「素子さん慣れてますね……?」

「うーん、実家だったらねずみとの戦いは当たり前でしたから」


 彼女の住んでいたところは、いったいどこだったんだろう。頼れないとは聞いたけれど。季節ひとつ分は一緒に暮らしているのに、未だに彼女の家庭の事情を知らないし、俺も特に話してない。うちの場合はあまりにも面白味もない話しかないから、話すこともないけれど。

 恐々と仕掛けられたねずみ取りを全部確認したけれど、そこにはなにもなかった。ただ、ひとつだけ仕掛けたねずみ取りがひっくり返されているのに気が付いた。


「なんか、ひとつだけひっくり返っていましたけど……」

「だとしたら、ねずみじゃないにしても、なにかいるのはたしかなんだと思います。多分ですけど、ねずみよりも大きいんじゃないですか?」

「えー……」


 ねずみより大きいものが入り込んでいるっていうのは、いろいろまずいんじゃないかと俺は冷や汗を掻くけれど、手を洗いながら素子さんは冷静に言う。


「いいじゃないですか。ねずみじゃないんですから。でも今晩中に見つかるといいんですけど」

「ええ……見つけないといけないものなんですか……?」

「今のところ、うちは普段はあんまり生ゴミが出ませんけど、夏休みですと皆がここで自由に料理をつくりはじめますから、そうなったらちょっとの生ゴミでも荒らされて大変なことになってしまうかもしれませんから。というか、亮太くんもひとり暮らし長かったんですよね? 怖がり過ぎじゃないですか?」

「あー……うちの辺り、ねずみなんて全く出ないところだったんで、そういうの苦手なんですよ……動物も友達ん家のペットを触らせてもらったくらいで、飼ったことないんで」

「あー、触れ合ったことのないものは怖い感じなんですね」


 素子さんは困ったように眉を下げて笑った。


「羨ましいです」

 そう言う彼女の言葉が、ひどく寂しそうに聞こえたのは、俺が勝手にそう思っただけなのか、よくわからなかった。

 それにしても。なにか動物のせいなんだろうってとこまではわかったとしても。琴吹さんだけなんで動物が近付かなかったんだろう。

 俺は食事の準備をし、取りに来た琴吹さんにそれとなく聞いてみる。


「そういえば、この間から舘向さんが夜に出てるよ」

「あー……すみません。奈乃香なのか、なにかご迷惑おかけしてないですか? 最近久し振りにはしゃいでますから」


 やっぱり口調に反して、テンションが高いと思っていたけれど。知り合いからもそう思われているんだな。

 琴吹さんの言葉に、素子さんは口を挟んできた。


「いいえ、舘向さんは面白い人懐っこい子だと思いますよ」

「そうですかあ……すみません。あの子青陽館の幽霊騒ぎにひどくはしゃいでいまして。周りが引くからそこまではしゃげないと、夜にだけはしゃいでるっておかしなことになってまして」

「ああ……」


 あの子も気まぐれマイペースな子と思いきや、周りに気を遣っての反動が夜の行動か。でも高校時代は自分の趣味を押し殺して周りに合わせていたのだから、基本的には気遣いな性分なんだろう。気を遣い過ぎた結果が現状なんだから、気遣いが過ぎるのも考え物だよなあと、ついつい考えてしまう。

 俺が勝手にそう思っている間に、素子さんが「そういえば」と尋ねる。


「今はなんのバイトをしているんですか? ときどき不思議な匂いをさせているから」

「ええ……そうでした?」


 今の時期は、どの子も汗っかきや匂いを気にして、外に出るたび帰ってくるたびに制汗剤を使っているのを目にしていたけど、それとは違うんだろうか。素子さんはなにか気付いたみたいだけれど、俺が本気でわからないでいたら、琴吹さんは照れた顔をした。


「あー……共通スペースにまで匂いを持ち込んだら駄目かなと思って、バイト先のものは持って帰ってなかったんですけど……匂い移ってましたか?」

「ううん、ただ最近の幽霊騒動に、琴吹さんだけ巻き込まれていないから、もしかして匂いのせいかと思っただけで」

「ええっと……どういうことですか?」


 たまらずに俺は尋ねる。残念ながら俺だと、制汗剤と琴吹さんから漂っているらしい匂いの区別が付かない。

 琴吹さんは照れたように笑う。


「自分のバイト先、輸入石鹸屋なんですよね。肌には比較的にいいものなんですけど、輸入の石鹸ってものすごく匂いがきついんですよね。ひとり暮らしだったら持って帰ってたかもしれないんですけど、うちは寮ですし、お風呂も共用ですから……」

「なるほど……? 全然気付かなかった……」

「最近は柔軟剤とかも匂いがきついのが多いですから、匂いに興味のない人だったら、その区別がつかないかもしれないですねえ」


 んー……でもその匂いが、どうして幽霊騒動と関係があるんだろう。

 琴吹さんが素子さんに尋ねる。


「あのう、奈乃香は今晩も見回りにお邪魔しても大丈夫なんでしょうか?」

「いいですよ。でも舘向さんにも伝えてくださいね。多分今晩で決着がつくって」


 そうなのか……。俺は納得いったようないかないような顔で、琴吹さんに彼女の分と舘向さんの分の食事を差し出した。


   ****


 空いている時間に企画書の書き直しをしてから、それをメールで佐々木さんに送る。

 細々とした仕事を済ませ、夕食に風呂と大きな仕事をこなしたら、消灯時間になる。廊下を歩いていたところで、舘向さんは「こんばんはー」と元気に寄ってきた。


「そういえば、舘向さんは後期からはちゃんと学校に行くんですよね?」

「そうですねえ……そうなったら、せっかく楽しかった夜型生活も矯正しなくちゃいけませんね」


 舘向さんはマイペースながらも、きちんとその辺りはわきまえているらしい。

 そりゃそうだよなあ。学校に戻るとなったら、今の生活を続けてたら体を壊すもんな。

 舘向さんは「みつるから、今晩で肝試しも終わると聞いたんですけど」と聞かれ、俺も素子さんを見る。素子さんは頷いた。


「はい、私の勘が正しいんだったら、今晩で終わりですよ」


 そう言っていたところで、カリカリカリカリ……となにかが引っ掻く音が響いた。

 俺は思わずまた怪音かよと身構え、舘向さんは目を輝かせてきょろきょろと辺りを見回す。この子本当にそういうのが好きだな……。

 でも、この間は相当喜んでそわそわしていた素子さんは、落ち着いたように懐中電灯で、青陽館の隅っこに仕掛けたねずみ取りの上のほうを照らす。

 ねずみ取りの中には、なにかが入っている。

 そして懐中電灯の向こうでは、光るなにかが移っている。


「フー……ッッ」


 威嚇するように目を光らせて鳴き声を上げているのは、夜に溶け込むように黒い毛並みの猫だった。そしてねずみ取りの中に入っていたのは、その猫と同じ毛並みのひと回り小さい……子猫だった。


「猫……!」

「あら、可愛い。真っ黒だったせいで、誰も猫が紛れ込んでいるって気付かなかったんですねえ」


 ねずみ取りから子猫を出してあげると、そのまま親猫がぱっと子猫を加えて逃げ出してしまった。


「最近昼間はうだるような暑さですし、夜になっても全然暑さが引きませんから、焼けるアスファルトを歩くのに、親猫も困っていたんだと思いますよ。だから親猫も必死で涼しい場所を探し出したんでしょうね。この時期だとゲリラ豪雨もありますから、川や溝に落ちちゃうかもしれないと思ったら余計にですね」

「でも素子さんもよく気付きましたねえ……猫が紛れ込んでいるって」

「単純に、夜にしか目撃情報がなかったから、夜行性の動物が原因だろうなと思ったのがひとつ、琴吹さんだけ極端に避けられていたから鼻がそこそこいいんだろうと思ったのがひとつ」

「俺、てっきり鼻が利くのは犬だとばかり思っていたんですけど」

「まあ犬のほうが鼻がいいですけどね。でも猫のほうが人間よりもよっぽど嗅覚が鋭いんですよ。猫は人間よりも味覚が鈍いですから、猫にとっての毒は匂いで判断しているんですよ。ほら、猫はカレーを絶対に食べさせるなっていうじゃないですか。あれは猫にとって玉ねぎが毒だからっていうだけじゃなく、スパイスの匂いで玉ねぎの匂いを嗅ぎ分けられないから、食べないって選択肢を取れないからです」


 なるほど。動物を飼ったことがない俺からしてみれば、犬猫を飼うっていうのは未知の体験だけれど、犬猫を飼っている人からしてみれば、そこまで気を配らないといけないもんなんだな。琴吹さんだけ避けられていたのも、俺だとわからない匂いのせいだと聞けば納得もいく。

 でも今回の幽霊騒動が猫だってわかったのはいいけど。素子さんは頬に手を当てる。


「でも困りましたねえ、うちじゃ猫は飼えませんよ」


 そりゃそうか。猫一匹だったらともかく、親子猫を全部引き取るのは難しいよな。うちの寮生たちも猫が駄目な子もいるみたいだしなあ。それに俺たちが困ったように顔を見合わせていたら「はあい」と舘向さんが手を挙げた。


「あたしが学校で飼い主探してみまーす。実家住みの子も学校にはいるから、その中でひとりくらいは猫が飼える子もいると思いますんで」

「そりゃそうしてくれたら助かるけど……でも今って夏休み中じゃあ……」

「ゼミのために大学に泊まり込んでる子たちもいるんで聞いてみますー。久しぶりに思いっきりホラーが好きだって話を聞いてもらえましたし、肝試しもできました。空振りだったのはちょっとだけ残念ですけど、十分面白かったですし。あとは猫の飼い主を探せば、全部解決なんですよねー?」


 そう彼女はマイペースに言う。

 俺は思わず素子さんと顔を見合わせてしまった。


「そりゃそうしてくれたらこっちは助かるけど……でも全部舘向さんに押し付けてもいいんですかね?」

「うーん……じゃあ、猫を捕まえてから考えましょうか。今からだったら探すの苦労しそうですから、明日の朝にでも。これは寮の子たちにも手伝ってもらいましょうか」

「まあ……そうですね。それで説明すれば、寮の子たちももう怖がらなくっていいでしょうし」


 こうして俺たちは解散した。

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