ツクツクボウシが鳴いていた

「今年も半島にシメジが生えるよね・・行きたいなあ。」ときよみさんが言う。

島根半島には野生のキノコが多い。半島には僕らだけの秘密の場所が有るのだ。


「あそこは入り口が急坂で、かなりきついからなあ。」

「そうだよね、でもどこまで行けるか試してみようよ。」

「そうだな・・週一で何回か試せば、キノコの季節までにあの急坂を登れるかもしれないな。いや、行きたいよなじっさい・・」


半島の山は大した山ではない、もしあそこの急坂さえクリア出来たら・・きよみさんとあの場所に行ける。しかし6キロも筋肉が落ちたきよみさんに、あの急坂を登る事がが出来るのかが疑問だ。もし無理をし過ぎて体調を悪くすれば治療に差しさわりが出る心配がある。


しかしだ・・

どうせ命の危険が差し迫っているではないか・・せっかく余命が伸びても、何も出来ないようでは意味が無いではないか・・こうなれば試してみて、結果はきよみさんの体に聞いてみるしかない・・幸いな事に台風10号は太平洋上でウロウロしているらしい、10号が山陰に接近するにはまだ間がある。


26日の早朝、きよみさんは久々に登山靴を準備する。

「もう履けないかと思っていたよ〜。」と、愛おしそうに靴に話しかけている。


色々準備をして家を出たときには、もう日の出が始まっていて・・その方向に向かって車が走るので朝日がやけに眩しい。目指す登山口は朝日の方向・・半島の先端にある。登山口に車を止めると僕らは登山靴に履き替える。登山道はまだ薄暗く猪や鹿に出くわしそうな感じがする。じっさい半島はイノシシの目撃情報が多いのだが、さいわいな事に半島の猪は温厚な性格らしく、人に危害をくわえたという話は聞かない。


ゆっくりとゆっくりと・・

通常の3倍の時間をかけて登る。

ゆっくりゆっくり・・

ツクツクツクボーシ・・ツクツクボーシ・・

見上げると蝉のツクツクボウシが僕らを見下ろして鳴いている。


「朝が早いというのに早起きな蝉だね。そういえば家の周りで蝉の鳴き声を聞かなくなったね。」ときよみさんが言う。確かに家の周りで蝉の声を聴かなくなった気がする。昔はミンミンゼミもアブラゼミも煩いぐらいに鳴いていたのだが、いつの頃からかセミの鳴き声が消えた。「子育てをしていた頃は蝉が鳴いてたよな・・」 僕らは蝉の話をしながら、蝉の掛け声に合わせるようにゆっくりゆっくりと登る。


ゆっくり作戦が功を奏したのか、予想に反して最初の急坂は簡単に登ることができた。入り口の急坂を登れば、ここから先は稜線に沿ってだらだらと緩いアップダウンの楽な山道だ。

「あ~気持ちがいいよ!ここまで来れるとはねえ・・嬉しいなあ、次の急坂の所まで行って今日は引き返そうか。」

「そうだね。次の急坂は次回に試してみよう。次の坂もゆっくり登れば行けるだろうね。」


半島の山は低い、高い所でも標高300程だろう。

僕らは標高250mぐらいの緩やかな稜線をまるで散歩をするように軽快に歩く。木々の間から青い日本海を見下ろすと、日本海を渡って来た風が半島の山に沿って駆け上がり、僕らの胸元を抜けて火照った身体を冷やしてくれる。

その風がとても気持ちがいい・・


きよみさんは特に疲れた様子もなく楽しそうだ・・

本当に来てよかった・・

ほんとうに、もう来れないかと思っていたのに・・

こんな時を与えてくれた抗がん剤に感謝感謝だ。


このくらい歩けるのなら・・

後で問題が起きないのなら・・

朝活のメニューに低山トレッキングも組み込んでみようかな・・

そんな事を考えながらツクツクボウシと別れて、僕らは幸せな気分で下山したのだった。

https://kakuyomu.jp/users/minokkun/news/16818093083728276028





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