第2話
この世界は雑音で溢れている。
そんな風に思わせるほどに、色々な心の声が聞こえるようになってしまった。
詩子は地元に即した小さな製紙会社の事務についている。牧絵や畑中杏璃も同じだ。顧客情報や発注に関してのデータ入力や管理、DMなどの発送、ファイリング、メール対応や伝票入力、電話応対など多岐にわたる。新卒の時にも事務だったので、WordやExcelにはあまり抵抗がないが、でもやはりExcelを使った分析や資料作成には素早い対応は出来ない。
ちらり、と視線を上げると黙々とパソコンの画面を見ている牧絵と、時々こちらにじろりと視線を向ける畑中さんが座っている。それを統括する事務局長が井岡田という50近い男性だが、この人はどうやらまじめに仕事をしているようで推しのアイドルのSNSや日記を覗いているらしい。というのも、さっきから井岡田の心の声がこちらに駄々洩れだからである。
畑中さんの心の声は聞こえなくても、ちりちりとした苛立ちのオーラは感じ取れるので、詩子はなるべく仕事に集中して心の声はスルーをしようと決めた。
有難いことに、週の初めということもあり電話やメールなどもひっきりなしで、忙しい午前中を過ごすことが出来た。
ふいーと背もたれに体を預けていると、小さな手提げを持った牧絵さんが横に立っていた。
「うたちゃん、お昼どうするの?私は適当にお弁当を作ってきたけれど」
「あーちょっと今朝はバタバタしていてお弁当作れなかったんです。近所のコンビニで、何か買ってきます」
「そっか、わかった。じゃあ社食で適当に食べてるね」
「はい」
牧絵さんからは、相変わらず心の声は聞こえてこない。詩子に対する心情などはあまり知りたくないとは思っていたけれど、こうも何も聞こえてこないというはとても不安になってしまう。私のことは、何とも思っていない、ということかと、変な邪推をしてしまう。こうやって負の感情がループし続けるから、体が緊張しすぎていつも週の序盤からぐったりと疲れてしまうのだ。あまり考えすぎないようにしよう。
詩子はぐっと拳を作ると、そのまま財布を掴んで事務室を出た。
近くのコンビニは本屋さんと一体化しており、昼休みに時間のある時はコンビニでお昼ご飯を購入し、隣の本屋さんで雑誌とかを目にすることが多い。小説などは大学生くらいまでは通学時間帯によく読んでいたが、社会人になってからは慣れない毎日のせいか電車の中ではぼんやりと電車内の広告を眺めて過ごしていた。結婚して子供が生まれてからはもっと時間の余裕がなくなり、鈴太郎が小学生になったのを機に働きはじめ、そこから少しずつ週刊誌などに目を通すようになったくらいだ。時間はないんじゃなくて作り出すものだ、とよく言うけれど、それは要領よくこなせる人の話であり、詩子は自分自身では無理だろうなぁと半ば諦めてしまっている。
コンビニ内を歩いていると、本屋さんの方にスキップしながら井岡田さんが向かっているのが見えた。あのウキウキぶりは、推しのアイドルの雑誌でも買いに行くんじゃないだろうか。でも、それで上司の機嫌が良くなってくれるのなら、すべて良しだ。
最後の一つにBLTサンドが残っていた。詩子が手を伸ばそうとすると、
『あー最後のBLTサンドだったのに!』
と声がし、手を止めた。後ろを振り返ると、眉を落とした女子大生らしき女の子と目が合った。
(これで、どうぞーなんて言うと怪しまれるだろうし……)
詩子はさりげなく隣のおにぎりのコーナーに移った。後ろにいた女子大生の子は怪訝な顔をしたが、そのまま上機嫌にBLTサンドを掴んでレジへと持って行った。
(……別に聞こえても気にしなくていいとは思うけど)
それを無視してBLTサンドを買うのも、何だか後ろめたい。
詩子は気分を変えようと、たらこおにぎりとスパサラダに変更した。
マイバックに商品を入れると、コンビニの入口の時計を見上げた。12:15。まだ休憩終了まで時間がある。でも、井岡田さんと鉢合わせるのも嫌なので、本屋には寄らずに大人しく会社に戻ろうとした時、
『ああ、どうしよう。どこかに落としたはずなんだけど。困ったわ』
とまた詩子の耳に入り込んできた。声からして、とても焦っているようだ。ふと横を見ると、床の方を見下ろしながらコンビニ内を白髪交じりの女性が覚束なそうにうろうろしている。多分、あの女の人だ。
詩子は買い忘れたものがある程で女性の近くを通った。
『自転車の鍵、あれがないと家に帰れないし。自転車を置いて帰ったらお父さんに叱られてしまうし……』
どうやらコンビニ内で自転車の鍵を無くしてしまったらしい。詩子も、ズボンのポケットに自転車の鍵を入れたはずが見つからず、そのまま自転車を置いて家に帰ると、財布のコイン入れの方に入っていたなんてことがよくあった。忙しくしていると、数分前に自分が何をしたのかどこにしまったのか、そういう大事なことが頭からすっぽりと抜けてしまうのだ。
(自転車の鍵をお探しですか?っていうのも訝しがられるし……)
偶然を装ってさり気なく自転車の鍵を渡すことは出来ないだろうか?と思いながらも、休憩時間の残り時間も限られているのであまり悠長に構っていられなくなってしまった。
詩子は店員さんに怪しまれないよう、追加で買い物に来たよう棚を物色しながら店内を巡った。店内にはそれらしきものは見当たらない。それならば、コンビニの外の駐輪場付近に落ちているのかもしれない。自転車が停まっている付近に煙草をふかした金髪のいかつい青年が立っていたが、そんなのに構ってはいられない。詩子はしゃがみ込むと、地面に手のひらをつけて探し始めた。
(キーホルダーとかつけていれば分かりやすいんだけど……)
「なぁ、おばちゃん」
「へ?」
声の方を振り返ると、金髪の青年が指で何かを掴んでいるようだった。
「何か探し物?さっき、自転車の横で鍵らしきものが落ちていたから拾ったんだけど。これおばちゃんの?」
おばちゃんおばちゃん言うな!とは思いつつも、そんなことは気にしないことにした。青年の掴んでいる鍵には小さな赤い毬のようなキーホルダーがついている。
「―――え、あ、うん。そう、私のなの!ありがとう!」
詩子が青年に近づき、鍵を受け取ろうと手を伸ばした時、青年はさっと手を引っ込めた。
「嘘だね。これ、あんたのじゃないだろ?」
「―――え?」
青年はにやっと意地悪そうな笑みを浮かべると、ぐっと拳を作って鍵を隠してしまった。
「俺さ、こんななりだけど、嘘ついている奴とついていない奴って分かるんだよね」
「そ、そんなことないわよ。私の鍵なの、返してくれる?」
「じゃあさ、証拠あんの?」
「鍵に、住所とか名前とか書いていないじゃない」
「あんたの指紋がこの鍵についている、とか?」
詩子が困ったように唇を噛むと、青年はへらっと表情を崩して鍵を詩子の手のひらに落とした。
「うっそー困らせて悪かったね。ちゃんと持ち主に返してやるつもりだったんだしね。返すよ、悪かったね」
「あ、ありがとう……」
青年はそのまま自転車にまたがると、そのまましゃーっと詩子の横を擦り剝けていった。
詩子はその鍵を握りしめると、コンビニ内へ戻り、少し声を大きくして店員さんに鍵の詳細を話した。その内容に気付いたのか、先ほどの女性がレジに近づいてきた。詩子の持っている鍵に気付くと、ぱあっと表情を明るくさせ、詩子に何度も何度も頭を下げた。
時刻は12:30を指している。詩子は小走りで会社に戻った。心の声が聞こえることにデメリットしか感じられなかったけれど、こういう形で誰かの役に立てたのはとても嬉しかった。
会社の玄関に着くと、ふと、先ほどの青年の言葉を思い出した。
【うっそー困らせて悪かったね。ちゃんと持ち主に返してやるつもりだったんだしね。返すよ、悪かったね】
「……何であの子、持ち主に返してやるつもりだって、分かったんだろう?」
あの子も、心の声が読める?と思いながら、とりあえず急いでお昼ご飯を食べないとと牧絵さんの待つ社食へつながる階段を上り始めた。
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