第二章 名誉は金では手に入らない ①

    1


 ルンは目を開けると、全身の痛みに顔を歪めて、再び視界を閉ざしてしまった。


「いっ……たい……」


 腰と背中と、後頭部。それに踵がジンジンと鈍い痛みを反復させている。

 ここはどこで、今まで何をしていたのか、思い出すより先に、駆け寄ってきた気配に意識が移る。パタパタと軽やかに近づいてくる足音は、やがてルンの傍で止まり、愛らしくも切迫した声が降り注いだ。


「だ、大丈夫ですか⁉ ひどい、こんな傷だらけで……今、手当てしますからね!」


 声の主に心当たりはない。一体どこの物好きかと目を開けると、そこにはやはり知らない女の子が、懸命な顔で両手をかざしていた。


「大地の精霊、月の女神、太陽の母。暖かく尊きその眼で、かの災厄を慰めたまえ」


 努めて穏やかな声で紡がれた呪詛は、彼女の小さな両手を仄かに照らし、そしてそのか弱い光が、ルンの身体に温もりを降り注ぐ。


「お……おおおおおお⁉」


 その光の効能を自覚して、ルンは驚嘆する。

 みるみるうちに全身の痛みが引いていき、それに合わせて擦り傷や打撲も消えていく。まるで最初から怪我などしていなかったかのように、何の痕跡も残さず消滅していく。


「ふぅ……これでもう大丈夫です」


 やがて身体中の傷が癒えたのだろう、少女はルンにそう笑いかけた。

 ウェーブのかかった金髪を腰まで伸ばした少女は、見たところトーナと同年代だろうか。琥珀色の瞳は丸くて、温和そうな彼女の性格によく似合っているように思える。無地のシャツを着た体は発育が上手く進んでいないのか、年齢の割に平坦な体形をしていて、薄赤色のペチコートもどことなく不格好だ。


「ありがとう、助かったよ。えっと……」


 礼を言ったは良いものの、相手の素性を知らない。困り顔のルンに、少女は両手を行儀良く手前に重ねて名乗った。


「セリアル・ラニと申します。私が好きでやったことですので、どうぞお気になさらず」


 心からの善意。そう示すような、下心をまるで感じさせない純粋な笑みだった。


「見かけない格好をされていますけど、ひょっとして上から落ちてこられたんですか……?」


 名乗ったセリアルがルンのスーツ姿を見て、訝しむ。まるで珍しくないことであるかのような物言いに、ルンはようやくここまでの経緯を思い出した。


「ひょっとしてあれ、珍しくないの?」

「やっぱり、兵隊さんに捨てられたんですね……」


 遡ること一時間前のことだ。

 市の西側に広がる富裕層の居住地域。ここに融資を求めて訪れたのが始まりだった。貴族と成金が集まる高級住宅街となれば、融資してくれる金持ちにも巡り会えるはずと見込んだが、誰もが用向きを告げるなり「帰れ」と突っぱねて、三軒も回ったところで街を守っている帝国軍の兵士に呼び止められた。

 帝国国旗と同じ藤黄色のシャツを鎖帷子の上に着込み、甲冑と兜とロングソードで武装した彼らは、街の住人に何を吹き込まれていたのか、話も聞かずに出ていくように警告した。ルンはその警告に食ってかかり、その結果五人がかりでボコボコに痛めつけられ、挙げ句ゴミ捨て用の箱に放り込まれたのだった。箱の底は一定の重量で抜けるようになっていて、成人男性の体重だとあっさりと抜け落ち、ダクトを通してここまで放逐されたというわけである。


「あいつら酷くない⁉ 商談に来た人間をあんな風に追い返してさ!」


 怪我もすっかり癒えたルンは、怒り心頭でセリアルに申し立て、そして上を向く。高さ一〇メートル少々の絶壁。その中間に空いた丸い穴が、ルンが飛び出したダクトの口だ。あの高さから落ちて死なずに済んだのは、地面に溜まったゴミ山と、セリアルの魔法のおかげだ。


「まぁとにかく、セリアルちゃんのおかげで助かったよ。お礼しないとね」


 帝国軍の非礼をセリアルに当たっても仕方ない。何より彼女は命の恩人だ。


「お金……五〇〇〇バルクしかないけど、今はこれだけで。残りは明日払うから」


 保険の概念などありもしないこの世界。あの大怪我を治療するなら、こんな金額では全く足りないはずだ。


「いえ、お金なんて!」


 だがセリアルは、むしろルンに申し訳ないとばかりに両手を振って、受け取りを拒んだ。


「私が勝手にやったことですし……それに、私は魔導士じゃないから、お金を受け取ってはいけないんです」

「え、そうなの?」

「じゃあ私はこれで。次からは気をつけてくださいね!」

「あぁ、ちょっと!」


 最後にぺこりと一礼して、セリアルは走っていく。後を追おうとしたルンは、足下の果物の皮に足を滑らせて転び、結局擦り傷をまた作ってしまったのだった。


    2


「――あぁ、その子なら知ってるよ。お父さんが鍛冶職人で、俺の剣もその人が作ったもんだからな」


 セリアルを見失ってしまい、約束の時間も近かったので、お礼をするのは後回しにして、トーナと合流すべく自衛団の事務所に戻ったルンは、食堂に屯するクラウとその一行を見つけて、今日起こったことを話した。

 どうやらあのセリアルという少女、界隈ではそれなりに有名な人物らしく、パーティ唯一の魔導士であるハンナも、クラウの証言に補足する。


「市の西側に魔術学院があるでしょ? あの子、今年の春までそこに通ってたんだよ」

「あの教会みたいな学校に? それすごいな。エリート中のエリートじゃん!」


 この世界に来て、保険会社を立ち上げてからもうすぐ一ヶ月。この街の地理にもある程度精通してきただけに、ハンナの証言であの少女がどれほどの実力者か、ルンにも想像がついた。

 このヴィンジアという街は、三〇〇万人弱の人口を抱えていて、帝国では帝都に次ぐ規模の大都市だという。公爵が治めるこの街は、貴族と豪商から成る総勢三万世帯の富裕層を抱えており、彼らが住まう都市の西側には、彼らのために設けられた教育機関が集まっている。

 魔術学院はそのうちの一角であり、この学校を卒業した者は魔導士として華やかな将来が約束される。身分秩序が確立している帝国にあって、魔導士とは平民でも成り上がれる可能性が最も高い人気の職業であり、実のところハンナもそうした理由で魔術学院を卒業した手合いだという。

 このように誉れある魔術学院に通っていながら、セリアルは無資格を名乗った。その理由は至極単純であり、クラウはルンの予想した通りの事実を告げた。


「去年の暮れに、彼女のお父さんが病気で亡くなってな。それで学費が払えないから、退学したんだ。あと一年通っていれば、卒業だったのにな……」


 クラウは残念そうに、表情を曇らせる。


「お金の工面はできなかったのか? 魔法が使えるんだったら、それこそ自衛団に入るとか……」

「魔術学院の学費、年間で四〇〇万だぞ? トーナちゃんならともかく、普通そんなに稼げねぇよ」


 初回で一〇〇〇万バルクの依頼に巡り会うことができたルン達だったが、それはあまりに幸運だっただけのこと。大抵は一度の依頼で数万程度のものばかりで、それも他の団員と取り合いだ。しかも大抵はパーティで取り組むから報酬は分け合うことになる。日々の生活費とは別に四〇〇万バルクを稼ごうと思ったら、相当な実力と強運が必要だ。


「それに自衛団に入るには、回復魔法だけじゃどうしてもな……自衛ができないとお話にならないんだよ。その点、あの子は回復魔法特化型だ。自衛団じゃやっていけないよ」

「無資格じゃ魔法で生計も立てられないしね」


 ハンナがつけ加えた。


「魔術学院に在籍してる間は特別に許可されるけど、そうじゃないとお金受け取ったら犯罪だからね。だからあの子、商人ギルドから仕事もらって内職やってるんだよ」

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