第5章 もう一度、ここから

第34話 船出の日

 二〇一九年 七月


 東北の海沿いの町の中心部に、シックなグレー色に染まったコンクリート壁の日本料理店が完成した。

 玄関には、「まる福」と書かれた暖簾が掲げられた。

 先代の店主である政井満が店を閉めてから八年余り、しばらく空き地になっていたこの場所に、以前の店と同じ書体で書かれた「まる福」の文字が再びはためいた。


 淡い桃色の着物姿のりさ子は、朝早いうちに二人の子ども達を保育所に預け、着々と開店の準備を進めていた。

 りさ子の隣には、弘哉の母親である信子の姿もあった。満がこの世を去った後、体調が思わしくないものの、「まる福」のために出来ることをしたいと、パートの形で再びこの店に関わることになった。

 厨房の壁には、先代である満の遺影が飾られた。店の行く末をいつも心配していた満に、これからも見守って欲しいとの願いを込めて、信子が自宅から持参したものだ。

 鋭い目つきで相手を睨みつけるような満の遺影を見て、りさ子の心は否が応でも高ぶっていた。


「さあ、いよいよ始まるのね……」


 近隣の住宅を一軒ずつ訪問し、雑草を放置した件で謝りながらも新しい店の宣伝を行い、地元のタウン誌にも店を取材してもらうなど、開店前の周知で出来ることは全てやったつもりだ。

 あとは、客が店に来るのを待つばかりだ。

 りさ子が玄関前を箒で清めていると、白いワゴン車が店の前で停まった。

 白い調理服に身を包んだ弘哉が車から降り、荷台から次々と箱を降ろした。


「お疲れ様。いっぱい仕入れて来たね」

「ああ、でも……やっぱり近海物はほとんどなかったよ。少し遠い海で獲った魚ばかり。漁師のゲンさんも仲買人さんも呆れてたよ」

「どうして呆れるの? こんなにいっぱい仕入れたから?」

「いや、こんな厳しい状況なのに、よくこの地で開店する気になったなって……」

「そ、そんなの言わせておけばいいわよ。ほら、開店まで時間も無いし、どんどん準備を進めなくちゃ、ランチタイムに間に合わなくなるよ」


 りさ子は弘哉の言葉に腰砕けになりながらも、いつものように強気の言葉で弘哉を鼓舞した。


「今日のランチは、弘哉君お得意の創作寿司で行こうね。近海じゃないけれど魚の種類はそれなりに揃ってるし、『うずま屋』から送ってもらった食材がいっぱい冷蔵庫に入ってるから、安心してよ」

「じゃあ私はお漬物や前菜、味噌汁を作るよ。まだ頭はボケちゃいないから、昔のことはちゃんとできるからさ」


 信子も腕まくりし、材料の下ごしらえを始めていた。

 開店初日から、弘哉は「うずま屋」で好評を博した創作寿司をランチセットに登場させた。最初から勝負を仕掛けていくつもりである。

 そして迎えた、開店時間の午前十一時。

 りさ子は入口前に立ち、緊張の面持ちで最初の客を待ち続けていた。

 しかし、いくら待てども、入り口の戸を開ける音はしなかった。

 時計の針はあっという間に十一時半を回り、やがて十二時近くを指そうとしていた。


「もうすぐお昼なのに、どうして誰も来ないの?……変だね。『うずま屋』だったらとっくにこの時間には満席なのに」

「父さんがいた頃の『まる福』だってそうだよ。この時間は一気に客が入って来て順番待ちしてたもの」

「おかしいなあ、人通りが無いのかな?」


 りさ子は試しに戸を開けて、通りの様子を眺めた。

 既にサラリーマン風の中年男性が二、三人連れだって歩いていた。その近くには、着飾ったマダム風の高齢女性が同じような服装の女性と賑やかにしゃべりながら歩いていた。


「何よ、結構歩いてるじゃん。もう、こうなったら徹底的に宣伝しなくちゃね」


 りさ子はランチメニューを書いたボードを手にすると、下腹に手を当てて思い切り息を吸い、思い切り吐き出しながら叫び散らした。


「お昼休み中の皆さん、今日から『まる福』が再開しました! 八年間のごぶさたです! 若い板前さんが作る美味しいランチを用意してますから、ぜひ一度来てください!」


 甲高い声で呼びかけるりさ子に呼応したのか、高齢の二人の男女が足を止め、暖簾をくぐった。


「おめでとうございまーす! 皆さんは『まる福』最初のお客さんです。板前さん、お二人ともランチセットをご希望ですってよ、早速お願いしますねー!」


 りさ子の嬉しそうな弾む声が店外から弘哉の耳に入った。


「はいよっ」


 弘哉はそそくさと皿に寿司を並べ、りさ子が作ってくれたかんぴょうの炒め物ととお吸い物とともに、テーブルへと持ち出した。すると女性は眼鏡に手を添え、驚いた様子で弘哉の顔を凝視した。


「あれぇ? おめえ……弘哉かい?」

「あれ、晴子さんに又造またぞうさん? お久しぶりです、弘哉です」


りさ子が誘ったのは、店の近所に住む仲野晴子とその夫・又造だった。


「おめえ、ついに店を持ったんか。あの世で満さんもきっと喜んでるべな。うぢらとしても、ずっと空き地だったこの場所に店が建ったおかげで、雑草が生えなくなって助かってるよ」


 晴子は感慨深そうな様子で、弘哉の肩を叩いていた。


「あの人達、何しに来たんだい? また嫌がらせに来たのか?」


 信子は厨房から、訝し気に夫婦の様子を伺っていた。


「気にすんなよ母さん。料理を食べてもらえば、きっと分かってもらえるから」


 弘哉はさっそくランチセットを用意し、晴子たちの待つテーブルに持ち出した。


「何だ、寿司かい?」

「はい。今は近海物がなかなか獲れないので、だったら色んな具材と組み合わせた寿司にして味わってもらおうと思いまして」

「へえ、面白れえな」


 二人は黙々と皿の上の寿司を手にして、あっという間に全て平らげた。やがて又造が晴子の耳元で何かをささやいていた。晴子も「んだな」と言いながら口をもぐもぐと動かしていた。


「ありがとな。うまかったよ」


 二人とも皿の上の料理を綺麗に平らげたものの、それ以上の感想は言わずに店を去っていった。次に来た客からも、同じように「うまかった」「悪くないね」という、当たり障りのない感想しか返ってこなかった。

 やがてランチタイムが終わり、りさ子は暖簾を担いで店内に戻ってきた。


「お疲れさん、りさ子さんの呼びかけのお陰で、何人もお客さんが来てくれたよ。初日としては上出来だと思うよ」


 充実感に溢れていた弘哉と対照的に、りさ子はどこか浮かない顔をしていた。


「どうしたの? 暗い顔して」

「聞いちゃったのよ。店を出ていく人達の声を」

「え? お客さんたち、誰一人として悪い感想は言ってなかったけど」

「さっき店を出たおばさんは『確かにうまいけど、満さんには全然及ばねえな』といって、鼻で笑ってたわよ」

「……」


 弘哉は肩を落とした。

 この辺りの人たちは、時が過ぎても満の作った料理の味をよく覚えていたようだ。弘哉も修行を積んで満を持してここに戻ってきたとはいえ、まだまだ満の足元には全然及んでいないのだろう。魚の鮮度のなさを知恵と技でカバーしようとしたものの、海沿いにあるこの町の人たちの目はごまかせなかったようだ。


「気にしないでいいよ、弘哉。あんたは父さんじゃないんだから、違うのは当たり前じゃないか」

「そうよ。まだ落ち込むには早いわよ。夜の営業も頑張ろうね」


 信子とりさ子は皿を洗いながら、一人落ち込む弘哉に声を掛けていた。


 夜の部の営業は、ランチタイムよりも苦戦を強いられた。

 サラリーマン風の客数人が入店したものの、満がいた頃に比べると、入込数は全く及ばなかった。

 客が来ない真新しいカウンターでは、保育所から帰ってきた子ども達が絵を描きながらはしゃぎ声をあげていた。


「パパ、おちこんでるね。ひょっとして、ないてるのぉ?」


 光樹は笑いながら、厨房で浮かない顔をしていた弘哉をクレヨンで描いていた。


「こら、光樹! パパをからかうのはやめなさい!」


 りさ子は光樹を抱きかかえ、厨房の裏の休憩室に連れて行った。

 まだ初日とは言え、こんな状態でこのまま店は存続できるのだろうか?

 弘哉の胸中には、大きな不安が残った。


 案の定、次の日も、その次の日も、店には客がほとんど来なかった。

 りさ子は毎日店頭に立ち、通りすがりの人達に懸命に呼びかけたが、結果は芳しくなかった。


 開店から一週間が経過した日の午後。

 ランチタイムだというのに、店内には開店からずっと一人も客がいなかった。

 なかなか客が来ず、手持ち無沙汰になったりさ子は、暇つぶしにテーブルで帳簿を付けていた。


「まずいなあ、これは……『うずま屋』では考えられないよ、こんな収入」


 テーブルに置いた帳簿に顔を突っ伏しているりさ子に、弘哉は何も言えないまま

 厨房に立ち尽くしていた。


「こんにちは」

「は、はーい!」


 ようやく入り口の扉が開く音がして、りさ子は慌てて帳簿を閉じ、席を立った。


「あ、町内会長……さん?」

「んだよ。回覧板持ってきたんだ。どうだい? お客さんの入りは」


 町内会長の松本が、回覧板や市の広報誌を持って暖簾をくぐった。


「あれぇ……開店してさぞかし賑わってるかと思いきや、スカスカでねえか?」

「はい。まあ、まだまだ知名度が低いんでしょうかね」


 すると松本は鼻でフフッと笑いながら、広報誌を弘哉の手元に置いた。


「こご、見てみな」


 松本は、配ったばかりの広報誌を何枚かめくると、「駅前再開発、いよいよ開始」という見出しの記事をこれ見よがしに見せつけた。

 そこには今年から始まった駅周辺の再開発の概要が掲載してあり、「まる福」のある場所が市民駐車場の用地として示されていた。


「あれ? 店が出来たのに、この図面ではどうしてまだ駐車場の用地になってるんですか?」

「まあ、これは計画だからまだ変更の余地はあるみたいだけどよ、市役所の人らは『この店は長く続かねえ、すぐに終わる』って思ってるんじゃねえが?」

「そんな! 駐車場の計画はもう断念したんじゃなかったんですか?」

「『断念した』なんて一言も言ってねえよ? そもそもこの店が続くかどうかもわかんねえのに、勝手に断念なんかできっかっての。ま、少なくともこの店で食事したこの辺りの人間が言うには『満さんの足元にも及んでねえ』ってのが、もっぱらの評判だがんな。いつまで店が続くのやら、ガハハハハ」


 松本は大声で笑いながら、店の戸を閉めた。


「今のは、松本さん?」

「ああ。これを見せたかったみたい」


 弘哉は、広報誌に掲載されている再開発の計画図を信子とりさ子に見せた。


「……これを見せるために、わざわざここに来たのかい。相変わらずひどい奴らだよ、全く!」

「しょうがないよ。僕が父さんに比べて力不足だから、こんなことに……」

「いや、違うよ。きっと弘哉君の料理を分かってくれる人達はいるはずだよ。私、もっともっと頑張ってお客さんを集めてくるからね」


 りさ子は気を取り直すと、着物の袖をまくり、「さ、また頑張ろうよ!」と声を上げて弘哉の背中を叩いた。りさ子の姿を弘哉は頼もしいと思うと同時に、彼女を見ず知らずのこの地に連れてきて、試練に次ぐ試練の日々にを晒していることに胸を痛めていた。


『何年もしないうちに店仕舞いして、一家もろとも路頭に迷うだろうよ。奥さん、社長の娘だろ? そんな恥知らずなことをしたら、さすがの社長も黙ってないと思うぞ』


 修太が言っていた言葉が、弘哉の頭の中を何度もよぎった。


 夢は叶ったけれど、それは同時に様々な重圧との戦いが始まったことも意味していた。満の葬儀の日に信子が話していた「満を苦しめ続けた」もの——それがいかにすさまじく、手強いものであるかを思い知らされた気がした。

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