第2章 見習いは辛いけど
第10話 泣いていいんだよ
二〇〇六年 六月
栃木市の中心を流れる
大正期から営業を続け、市内の政治家や経済関係者なども訪れる歴史のあるこの店で、弘哉は高校卒業とともに働き始めた。
独立した板前に代わる形で入店したとはいえ、料理は素人同然であることから、板前ではなく見習いとして働いていた。四月の間は、板前が誰かしら一人隣に付いて仕事を指導してくれたが、五月に入ると弘哉の元から離れ、教えられた仕事をすべて一人でこなしていた。
朝八時、弘哉はまだ誰も来ていない店に到着すると、厨房の中をくまなく掃除し始めた。少しでも汚れがあると、先輩である板前にこっぴどく怒られてしまう。弘哉は眠い目を無理やり見開いて、小さな切りくずでも見逃さないように注意しながら箒を動かしていた。
掃除が一通り終わると、今度はランチタイムに出す食材の下ごしらえが始まった。
野菜の皮をむいて刻み、米を研いで炊き上げ、板前たちがすぐに作業に取り掛かれるよう気を配った。
時計が九時を回った頃、ようやく板前たちが一人、また一人と厨房にやってきた。
「おう、政井。準備できてるのか?」
四人いる板前達の中で一番年上の
「はい。掃除は終わりましたし、今日のランチの下ごしらえもできています」
「ふーん、どれどれ」
清嗣は厨房の中をくまなく歩きまわると、突然しゃがみこみ「おいおい、固まった米粒があっちこっちくっついてるじゃねえか」と言って、舌打ちしながら小さな米粒を指で拾い上げていた。
「すみません……」
弘哉は神妙な顔で頭を下げたが、清嗣は弘哉には目もくれず、今度は下ごしらえの終えた食材を一つ一つ点検した。
「何だ、この野菜の切り方……かなりいびつじゃねえか?」
清嗣は天ぷら用に下ごしらえされていた野菜を指さした。
「形が悪いと、いくら上手く揚げたところで食べる気が失せちまうだろ? この店では、お客様はみんな高い金払ってるんだ。『なめた真似しやがって』と言って怒り出す客も出てくるぞ」
「……わかっています」
「わかってるなら、ちゃんとやれよ。お前もここに来て二カ月近く経つんだ。これくらいなら許されるだろうって言う甘い考えは、いい加減捨ててくれよな!」
厨房内に、清嗣が弘哉を厳しくたしなめる声が響き渡った。弘哉は何も言い返せず、頭を下げ続けるしかなかった。
しかし清嗣をはじめとする板前たちは、その後も全く容赦することはなかった。
「ちょっと、この野菜の下ごしらえ、まだ終わってないんだけど?」
「おい、漬物はどうしたんだ? 予約受けた分に全然足りてねえぞ」
板前たちは、弘哉を呼び出しては次々と命令を出していった。一つ一つに丁寧に対応している余裕は無かったが、手を抜くとすぐ怒号が飛んできた。
板前たちから矢継ぎ早に命令を受け、時にはこっぴどく怒られ、ようやく厨房内の動きが落ち着いてきた頃には、時計の針は午後一時を回っていた。
清嗣は手を叩いて厨房内に響き渡る声で板前達に呼びかけた。
「よし、今日のランチタイム分はここで打ち止めだ。昼飯にするか。おい政井、賄いの用意はできてるんだろうな?」
「いや、まだ、そこまでは……」
「何だって? みんな忙しい仕事が終わって、腹空かしてるんだぞ?」
「賄いを作ることは分かってはいるんですが、なかなか手が回らなくて……」
「ちっ、しょうがねえな……」
清嗣は真下から睨むように弘哉を見つめると、器具を洗っていた板前達に声をかけた。
「おいみんな、悪いけど、今日のお昼は近くのコンビニで好きなものを買って食べてくれや」
「はいはい。というかキヨさん、『今日の』じゃなくて、『今日も』でしょ? 賄いナシで外食する羽目になったの、これで何回目っすか? いい加減、あいつには一人で仕事をきっちりこなせるようになってもらいたいんですけどね」
「まあ、そうだけど……今はまだ、大目に見てやろうや」
板前達は散り散りになり、外に昼食を買いに出て行った。
「お前も食べに行ってきていいぞ」
清嗣が弘哉の背中を叩くと、弘哉は頭を下げ、そそくさと厨房を出て行った。朝からずっと料亭の中にいて準備を続けていたが、このままでは気分が滅入りそうだと思い、外に出て空気を吸いながら昼食を買いに出かけることにした。
「お疲れ様、政井君」
勝手口を出て表通りに出ようとした弘哉に、背後から誰かが名前を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返ると、そこには「うずま屋」の社長である高橋征之介の長女・りさ子の姿があった。りさ子は弘哉より四歳年上で、昨年東京の大学を卒業して実家に戻り、店の経理や宣伝を担当していた。
「どうしたの? 顔色悪いわよ」
背後からりさ子の声が聞こえたが、弘哉は軽く会釈すると、構うことなく早足で店の外へと出て行った。
通りを少し歩き、市街地の中央を縫うように流れる巴波川を越えると、弘哉の視界には旧栃木県庁の周りを囲むように張り巡らされた「県庁堀」と呼ばれる堀が見えてきた。弘哉は仕事で気持ちがふさぎ込んだ時、わざわざここまで来て、何も考えずボケっと過ごしていた。堀では真鯉や錦鯉が大きな体をくゆらせながら堀の中を右往左往していた。彼らが悠々と泳ぐ姿をじっと見るうちに、不思議と心が落ち着いていくように感じた。
「はあ……こんな辛い思いする位ならば、『まる福』にいた頃の方がよかったのかな」
弘哉は、久しぶりに実家の料亭の名前を口にした。実家は実家で、鬼のように厳しい満がいるはずなのに……。
「政井君」
弘哉の真後ろから、若い女性の弾むような声が聞こえた。
「りさ子さん?」
「そうだよ。君がどこに行くのか気になって、後ろをこっそり付いてきちゃったんだ」
りさ子は弘哉の隣に座ると、手提げのバッグからカラフルな包装のお菓子を一つ取り出した。
「さっき近くの福田屋で買ってきたんだ。すっごく美味しいよ。東京の有名なパティシェが作ったんだって」
袋の中には、透明なタッパーに入った数個のチョコタルトがあった。昼食を食べず腹を空かせていた弘哉は、手にしたお菓子を一気に口に放り込んだ。
「え? 味わずに一気に食べちゃった?」
「ご、ごめんなさい。お腹が空いてたから、つい」
「アハハハ、そうなんだ。じゃあもっと食べていいよ」
りさ子はさらに二、三袋取り出し、弘哉に手渡した。弘哉は受け取るや否や、押し込むように口いっぱいに菓子を頬張った。弘哉の様子を見て、りさ子は大声を上げて笑い出した。
「どうしてそんなに笑うんですか?」
「だって、面白い食べ方するなあって。そんな食べ方で、このお菓子の美味しさがわかるのかなあって」
「いや、美味しいですよ、このタルト。チョコレートがすごく風味豊かで」
「それはよかった。私、すごく好きなんだ、このお菓子」
りさ子は微笑むと、弘哉の隣に座り込んだ。
「私ね、小さいころから嫌なことがあったらここに来ていたんだよ」
「え、りさ子さんもですか?」
「そう。私のお父さん、『ウチは老舗だから、町中の偉い人がここに来るんだ。礼節はきちんとしないとな』と言って、幼いころから礼儀作法だけは厳しくしつけられたんだ。時にはお父さんの言葉が辛くて仕方がないこともあった。そんな時、ここに来てボケーっと過ごしてたの。魚たちが自由に悠々と泳いでるのを見ると、不思議と心が癒されるんだよね」
りさ子は弘哉と肩を並べ、同じ方向を向きながら話を続けた。
「ねえ、仕事は楽しい?」
「……正直言うと、辛いです」
「やっぱり、そうなんだね」
「だ、だってしょうがないですよ。僕はまだ見習いですから」
「確かにそうだけど……政井君は特に辛そうに見えるのよね」
「え? そんな風に見えますか?」
弘哉は自分を指さしながらりさ子に問いかけると、りさ子は何も言わず、「見えるよ」と言わんばかりに首を何度も上下に動かしていた。
「何と言えばいいのかな。何かを我慢しながらやってるのが見え見えなんだよね」
「……どうして、わかったんですか?」
「だって私、子供の頃から色々な板前さんを見て育ってきたからさ。君みたいに辛くて死にそうな顔してる人、今まで何人も見てきたわよ」
その後二人の会話は途切れ、二人はしばらく肩を並べて堀を見つめていたが、やがてりさ子は頬杖をついたまま首を回し、弘哉の方を向いた。
「ねえ、政井君は一体何を我慢してるの?」
「僕が?」
「そう。あ、お父さんには言わないからね。私の中だけにとどめておくからさ」
りさ子は慌てた様子で取り繕っていた。
「僕、本当にこの仕事をずっと続けていきたいのかなって……」
「ええ? そんなあいまいな考えでうちの店に入ったの? 将来一端の料理人になるつもりで修業に来たのかと思ってたよ」
「確かにこの店に入ることを決めたのは、僕自身です。でも、本当に心から料理が好きなのかとか、本気で料理人として生きていくつもりなのかって聞かれると、まだ自信が無くて……」
りさ子が唾を飛ばしながらまくしたてると、弘哉は頭を抱えたまま、腕の中に自分の顔をうずめた。
「今も時々自問自答してるんです。『お前はこのまま自分の気持ちに嘘をつき続けて生きていくのかい?』って」
弘哉はりさ子に自分の胸の内を語るうちに、自然に涙があふれ出てきた。
「政井君。ひょっとして、泣いてるの?」
「ご、ごめんなさい。僕……泣くつもりなんかこれっぽっちもなかったのに」
弘哉は嗚咽しながら、店の制服である白衣の袖で何度も目をこすっていた。
「泣いていいよ、私の前ではね」
「え?」
「今までずっと辛かったんだね」
りさ子は弘哉の頭をそっと撫でた。やがて弘哉はりさ子の身体にもたれかかるような姿勢で泣きじゃくった。りさ子は何も言わず、弘哉の体や頭をゆっくりと撫でまわしていた。しばらくすると、弘哉は気持ちが落ち着いたようで、流れ続けていた涙も収まってきた。
「大丈夫? 今日は仕事に戻れそう?」
「はい」
「無理だけはしちゃだめだよ。心も体もこれ以上持たないならば、辞めるというのも選択肢の一つだよ」
「ありがとうございます……とりあえず、父さんや社長には感謝しているので、もう少しがんばってみるつもりです。そろそろ休憩終わりなんで、先に失礼します」
弘哉は背中越しに無理やり笑顔を作って見せると、片手を振り、りさ子を県庁堀前に一人残して足早に店へ戻っていった。
「あ、ちょっと待って!」
りさ子は弘哉の背中に向かって大声で叫び、呼び止めた。
「今年の十一月、数年に一度の『とちぎ秋まつり』があるんだ。政井君にもぜひ見てもらいたいから、せめてそこまでは頑張ってこの町に踏みとどまってくれたらな~と思って」
弘哉はぽかんと口を開けたまま、りさ子を見つめていた。それを見てりさ子は突然我に返り、口に手を当てて首を左右に振った。
「あ、ゴメンゴメン。今のは私のわがままだから聞かなかったことにしてね。どうしても辛くて辞めたい時は、無理しないで辞めていいからね!」
そう言うと、りさ子は全速力で走り出し、先を歩いていた弘哉にあっという間に追いつき、足を止めた。
「もうすぐ今月のお給料日でしょ? ちょっとお金を奮発して、美味しいものでも食べに行って来たら? 少しは気持ちもほぐれるかもよ?」
りさ子は息を切らしながらそう言うと、再び走り出し、巴波川を越えて町の中へと走り去っていった。
『ちゃんと自分で稼げるようになってから来るんだぞ』
弘哉はその時、去年篤から言われた言葉がふと頭に思い浮かんだ。
まだ十分稼いでいるとは言い難いけれど、ある程度のお金がある今ならば食べに行けるかもしれない。そう考えた時、弘哉はようやく重い腰を上げて立ち上がった。
巴波川のせせらぎの音が聞こえる中、弘哉は頭を掻きながら、店へと続く道をゆっくりと歩き出した。
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