第2話

 それからの三笠は、仕事で忙しい日々を過ごしていた。バーを訪れてから数日後に、アパートの一室で殺人事件が起きたためだ。

 そして事件が起きて一週間後のある日、彼はデスクで事務作業をしていた。すると、後輩刑事の雪田雄一が三笠のもとにやってきた。

「先輩!重要参考人を任意同行してきました!」

「重要参考人?今は?」

「取り調べ室二にいます」

「分かった。直ぐ行く」

 三笠は作業を中断し、徐(おもむろ)に立ち上がった。

『一体……何者なんだ?』

 三笠は不思議だった。殺人事件では、五十代の女性が包丁で刺され亡くなっている。凶器となった包丁は現場に残されていたが、指紋が残っていなかったのだ。だから、犯人も割り出すのが容易ではなかった。現場となった場所は、住宅街に建つアパートの二階にある部屋。第一発見者は、たまたま訪ねてきた被害者の妹。部屋の鍵は空いていたのだという。

現場付近には監視カメラはなく、不審人物が入室した形跡などを調べることはできなかった。そのため、聞き込みで当たっていくしかない。その結果、重要参考人が現れたということか。

 色々と考えを巡らせながら取調室のドアを開けると、三笠は我が目を疑った。そこにいたのは、あの日、バーで涙を流していた男だったのだ。

「君……」

 あまりの驚きに、三笠は動きを止めてしまった。しかし時間を無駄にはできないし、取り敢えずパイプ椅子に座り男と向かい合う。

 男の方も、一瞬だったが三笠の顔を見て驚いた様子で目を見開いた。しかし、直ぐに無表情に戻ってしまった。

「名前は?」

 三笠はいつも取り調べている様に、色々と聞いていくことにする。

「……山之内蒼空」

「えぇと……字は?」

「あおいそら」

「あぁなるほど」

 向かい合う男について聞いたことを調書に書き込んでいく。

 山之内という男は二十三歳で、電子部品を作る工場に勤めているという。今回の事件の被害者である女性の息子でもある。被害者となった母親とは離れて暮らしていたらしい。

 彼は、質問をしたことには言葉少なに答えてくれた。

「俺のこと、覚えてる?」

 聞こうか迷ったが、三笠はバーで会ったことを聞いてみた。

「え?……」

 男は戸惑った様子だった。『それを聞くのか』と思ったのだろうか。

「この前、会っただろう?二丁目のバーで」

「……」

 男はバツが悪そうに口を噤む。それもそうだ。こんな場で、こういった話をされるとは思っていなかったのだろうから。

「気にするな。俺も周りにはあの店に行ってることは話してない。君がどこに行っていたとしても、他に話すこともないしな」

「それは……」

「あの時、君が泣いているみたいだったから、凄く気になったんだ。何かあったのかって」

「その節は……すみませんでした」

「いや、いいんだ。でも……今回の、お母さんのことに絡んでるのかと思ってな。お母さんの状況について、教えてくれるか?」

 蒼空によると、事件のあった日の午後に母親のもとを訪ねたのは本当らしい。しかし、母親は既に亡くなっていたという。母親の死亡推定時刻は午後であり、本当は蒼空が殺していたのに嘘を吐いているという線もあるだろう。

「防犯カメラはあの辺りにはないけど、君を見たっていう目撃情報があるんだ。思いつめた顔をして家から出て来たって。本当は嘘を吐いているんじゃないのか?」

「う、嘘は吐いてません……」

 蒼空はそれっきり俯いてしまった。

「どうなの?お母さんとは、折り合いが悪かったとかあるの?」

 俯いたまま首を横に振る蒼空。

「母さんとは、普段離れてはいたけど、凄く気になってて、たまに様子を見に来てたんです……」

「聞きにくいけど、お父さんは?」

 三笠が聞くと、蒼空は口ごもってしまった。しかし、両親は蒼空が幼い頃に離婚していることを話してくれた。

「じゃ、お母さんは一人で?」

「……いえ、再婚してます」

「あぁ……そうか。他に目撃された被疑者もいないし、君だけなんだよなぁ疑わしいの」

 その時、ふと三笠に魔が差した。蒼空の美貌に堪らなくなったのだ。立ち上がった三笠は、蒼空の隣にピタリと張り付くように立った。

そして、蒼空の頬に手を添えて自身の顔を近付けた。

「君なんだろ?君がやったんじゃないのか?」

 耳元で呪文のように囁く。すると蒼空は驚きの表情になり、思い切り三笠の手を払い除けた。触れられたことが嫌だったのだろうか。

 つい、蒼空の幼さの残る美貌に心を持っていかれそうになった。職務中なのに、こんなことは許されない。三笠は気を引き締めた。

「すまん。びっくりしただろ。もうしないから……安心して」

 そう三笠が謝ると、蒼空はテーブルの一点を見詰める。怯えたようなその表情に、『しまった』と三笠は思った。ますます心を閉ざされては大変だ。そうなったら、これから蒼空の取り調べができなくなる。

「お、俺……あんまり、人に触られるの好きじゃなくて……」

 少し経ち、蒼空がようやく口を開いた。

「そうだったのか。すまなかった。許してくれ」

 真摯に謝ると、蒼空はコクリと頷いた。三笠がそれを見て一安心したところに、先程の後輩刑事・有島が取調室に入ってきた。

「先輩、ちょっと……」

 有島が手招きしてきたので、三笠はパイプ椅子から立ち上がり「待ってて」と蒼空に言い残し部屋から出ていった。その後は、他の先輩刑事が取り調べを担当した。しかしこの壮年の刑事は、自白を強要し蒼空に暴力を振るう勢いだった。

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